第59章:息の冷たさ
ハイドラを包み込んでいた氷の霧が――
ゆっくりと、消えていった。
まるで、息を吐くように。
第二の頭が口を開く。
その奥には、青白い光が脈打っていた。
規則的に、淡く、だが確かに――
ヴェイルは距離を保ちながら、周囲の様子をうかがっていた。
視線は、頭部の動きに釘付けだった。
「……どっちかが見てない瞬間を狙うしか……」
かすれた声で、自分に言い聞かせるように呟く。
だが――
その思考が行動へ移るよりも早く、
第一の頭が、突然上体を持ち上げた。
ヴェイルは反射的に後退する。
だが、それは予想と違う動きだった。
攻撃ではない。
突進でもない。
第一の頭は――
ゆっくりと、地に転がった“切断された頭部”の方へと向き直った。
「……何を……?」
顎が開く。
濁った唸り声とともに、鋭い牙が露わになる。
吐息がこぼれる。
白く濃い霧が、切断面を包むように漂う。
その瞬間――
バクンッ!!
鈍い音と共に、第一の頭が死んだ頭部に噛みついた。
皮膚が裂ける湿った音が響く。
黒ずんだ液体が床に跳ねる。
ハイドラは、死骸の頭部を咥えたまま持ち上げた。
それを――第二の頭の方へ。
第二の頭もまた、ためらいなく口を開き、
一気に喰らいつく。
「……た、食べてる……!?」
引き裂かれた肉が、
骨ごと噛み砕かれ、
喉奥へと押し込まれていく。
第一の頭は、残りの頭部を足元に落とし、
再び、肉片を――
ズチュ……ズチュゥ……!
むさぼる。
貪る。
まるで餓えた獣。
粘着質な音が、空間を濡らすように響く。
シュルップ、ジュルッ、ブチブチ……
二つの頭が、死んだ“自分の頭”をむさぼり尽くす。
数秒間、それはただの惨劇だった。
そして。
ズゥッ……
二つの頭が同時に身を起こす。
ぐん、と身体を引き伸ばし、
背筋を反らし、
――吠えた。
ヒィィィィイイイィイィィ――ッ!!
鋭く、刺すような絶叫。
耳をつんざく金切り声が、空間を貫く。
アリニアは、崩れた柱の陰で膝を抱えていた。
肩が上下し、呼吸は荒い。
そして――
彼女だけが、気づいた。
「ちびオオカミ、頭を――!」
叫ぶ。
その声には明確な恐怖と焦りが滲んでいた。
ヴェイルはすぐに顔を上げる。
彼の視線が届いたその先――
二つの頭の、てっぺん。
すでに危険なまでに鋭かった鱗が――
さらに、伸びていた。
その曲線には、外側も内側も、
うっすらと氷の膜が張っている。
光を孕んだ、薄い結晶の層。
しかも――
その下にある光は、
鼓動のように脈打ち、どんどん明るさを増していた。
――点ではなく、線に。
それは、何かを“放つ”ための前兆にしか見えなかった。
第二の頭が、ゆっくりとヴェイルの方を向いた。
その青い瞳が、鋭く彼を射抜く。
鱗の下で、青白い光が割れるように拡がっていく。
枝分かれするように、輝きは頭部を這い――
ついには、頭頂部の氷刃へと届いた。
その刃の先端に――
小さな球体が、浮かび上がる。
澄んだ光。
透明な冷気。
だが――
明らかに、“危険”だった。
空気が震えた。
ごく微弱な魔力の波が、空間に広がる。
小さな球体が、突如として棘を生やす。
鋭く、冷たく。
そして、ゆっくりと――回転を始めた。
「動いてッ!!」
アリニアの絶叫が飛ぶ。
ヴェイルは即座に反応した。
地面を蹴り、反転しながら飛び退く。
近くに残っていた、最後の一本の柱の裏へ――
飛び込むと同時に、
――ギィィィアアアアアアァッ!!!
ハイドラが咆哮を上げた。
それきり――
音が消える。
世界が、息を止めたような沈黙。
重く、異様な静けさが、空間を支配する。
ヴェイルは柱の陰から、恐る恐る様子をうかがった。
……ズンッ!
地面が、震える。
まるで、波のように。
第二の頭部から、白い光が滲み出す。
ゆっくりと空間を満たすように広がっていく。
それは穏やかで、美しい――
だが、紛れもない“殺意”だった。
再び、静寂。
その次の瞬間。
――ドンッ!!!
爆発音。
凄まじい衝撃が部屋中に響き渡る。
一発。
そして――
もう一発。
さらに、もう一発。
ハイドラの頭部から放たれた球体が、
次々と炸裂していく。
四方八方へ撃ち放たれた冷気の弾丸が、
空間を無差別に破壊していた。
一発ごとに、岩が砕け、壁が裂け、
空間そのものが、軋みを上げる。
爆風が押し寄せ、
轟音が耳を貫く。
十発以上の爆撃が、次々と部屋を襲った。
それはもはや、攻撃ではなかった。
――殲滅。
ハイドラは殺そうとしているのではない。
跡形もなく――砕こうとしていた。
しばらくして、ようやく静けさが戻る。
残ったのは、氷の破片が石の床を転がる乾いた音だけ。
……カラン、カラン……
再び、静寂。
アリニアが柱の陰から身体を起こす。
肩で荒く息をしながら、砕けた石の上に手をつく。
その手が震えていた。
「……っは、は……」
呼吸が整わない。
足元の柱は半壊していた。
表面は無数の穴と割れ目に覆われている。
さっきの攻撃が、どれほどの破壊力だったか――
見るだけで理解できた。
「……ちびオオカミ……無事……?」
柱にすがるようにしながら、アリニアが声を上げる。
その声には、震えと――
隠しきれない不安が滲んでいた。
地面には、霧のヴェールが漂っていた。
凍気と爆風が混ざり合い、薄く重く――
どこか、粘りつくように。
「……無事だ。」
ヴェイルの声が、霧の向こうから届く。
彼は柱の陰から姿を現し、頭を軽く振りながら辺りを見渡していた。
だが――安心する暇などなかった。
ヒュウウウウウ……ッ!!
突風が吹き荒れる。
それは自然の風ではない。
何かの“息吹”のように、空気をかき乱した。
霧が舞い上がる。
竜巻のように渦を巻き、床を覆っていた冷気と塵が一気に巻き上げられる。
露わになった氷の大地には、無数のクレーター。
空間には、なおも“戦い”の匂いが残っていた。
終わってなど、いない。
第一の頭が、ヴェイルを捉える。
次の瞬間、跳んだ。
ズンッ!!
凄まじい音と共に、空中へ飛び上がる。
顎の鱗が、灯火に照らされて光る。
首を低く構え、空気を裂く速度で迫ってくる。
ゴッ!!
氷刃が、柱に命中する。
ドガアァン!!
柱は瞬時に砕け散る。
破片が飛び散り、空間が粉塵に包まれる。
ヴェイルは反射的に身を引こうとした――
だが、石片が彼の身体に直撃する。
「くっ……!」
バランスを崩し、凍りついた地に背を打ちつけた。
肺が潰れたように、息が詰まる。
その間にも――
第二の頭が、口を開いていた。
魔力の奔流を抱えた、小さな水球がそこにあった。
渦を巻き、脈打つそれは――
明らかに殺意の塊だった。
「……だめ!」
アリニアが、柱の陰から飛び出す。
ヴェイルを援護するために。
「――っ!」
だが、二歩も走らないうちに、第一の頭が地面を這いながら回転する。
その動きは獣じみており、そして、狙いは明確だった。
「――アリニア!!」
彼女は咄嗟に跳ね退る。
だが――足が。
爆撃によって生まれたクレーターへと、落ちた。
「――あっ!」
足を取られ、体勢を崩す。
手を突こうとするも、痛めた腕が――
支えられなかった。
ゴンッ!!
背中から地面に叩きつけられる。
肺が震え、痛みが脊髄を走る。
「ッ……く、う……」
歯を食いしばる。
涙が勝手に込み上げてくる。
視界が滲む。
呼吸が浅くなっていく。
だが――
ふと、何かが目に映った。
視線を上げる。
背中をずるずると引きずるようにして、なんとか起き上がる。
そして――
見上げた。
そこに、あった。
天井近くの壁画。
ハイドラを象った巨大な彫刻。
だが、その“何か”が、彼女の意識を捉えた。
一つは、力で全てを破壊する頭。
もう一つは、魔法で遠距離から仕留める頭。
それは今、目の前にある現実と一致していた。
だが――
「……なんで、“三つ”あるの……?」
アリニアの心に、疑念が生まれる。
彫刻の中のハイドラには、三つの頭があった。
今、実際に存在しているのは――二つ。
では――
「三つ目は、何を示してるの……?」
そのとき、視線がふと彫刻の足元に落ちた。
食われている男の足下――
そこに、小さな“点”が刻まれていた。
蒼く、淡く、そして――小さい。
見落としてもおかしくない、それほど微細な光の粒。
アリニアは目を細める。
「……あれは……何……?」
その意味を探ろうとした瞬間――
――全てが、動き出した。
そのときだった。
アリニアの体を、いきなり二本の腕が抱き上げた。
片腕は太腿の下へ、もう一方は腰の裏へ。
「――っ!?」
驚く間もなく、身体が宙を浮く。
次の瞬間、地面を蹴る音。
ヴェイルだった。
彼はアリニアを抱えたまま、猛然と走り出す。
その直後――
第二の頭が放った水球が、
さっきまでアリニアがいた場所へ着弾した。
彼女は、気づいていなかった。
彫刻に気を取られ、敵の攻撃を完全に見落としていた。
――ドォンッ!!
爆発するような衝撃。
蒸気と霧が空間を揺らす。
ヴェイルは柱の陰まで彼女を運び、そっと地面へ下ろす。
その顔には、安堵と焦燥が入り混じっていた。
「……気を抜くなって、言っただろ!」
声が、わずかに怒気を帯びていた。
すぐに、彼は振り返る。
視線の先には、第一の頭が再び動き出していた。
「何度も呼んだ……聞こえなかったのか! アリニア!!」
呼吸が荒い。
だが、彼は返答を待たず、戦場へと戻っていった。
アリニアはその背中を見つめていた。
肩越しに、彼の怒りと焦りが伝わってくる。
「……ごめん……」
呟くように漏らす。
その声は、彼には届かなかった。
彼女は、立ち上がろうとする。
だが、全身に痛みが走った。
さっきの転倒が、傷のすべてを再び目覚めさせた。
「っ……くぅ……」
それでも、両腕を突いて、ゆっくりと起き上がる。
顔を上げる。
再び、あの壁画へと視線を向ける。
「……もう少し……もう少しで……」
彼女は、ふらつく足を引きずりながら後退した。
壁画全体を見渡せるように、扉の近くまで下がる。
「あと少し……耐えて、ちびオオカミ!」
彼女の声が、空間に響く。
ヴェイルは、手を上げて返答する。
それだけで、言葉は必要なかった。
アリニアは再び壁画へと目を凝らす。
「……どこかに、あるはず……この彫刻……」
視線が細かく彫られた模様を追う。
一つひとつ、逃さずに。
「頭の水晶……あれは囮なのかもしれない……」
そう呟く。
「身体の中にある、あの光……意味があるはず……」
彼女の眼差しは、希望と絶望の狭間にあった。
真実を掴み取ろうとする意志だけが、揺るぎなく残っていた。
――そして、戦いは続いていた。




