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氷結の夜明けの果て (R16)  作者: Wolfy-UG6
プロローグ - 第3巻:ダンジョンの影 Pt.2
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第58章:叫びの中の言葉

ヒュゥッ!!


ハイドラの頭部が、アリニアのいた石柱へと振り下ろされた。

反射的に、彼女は身を捻るようにして飛びのき――

直後、柱が轟音とともに砕け散る。

その衝撃波に煽られ、アリニアの身体が地を転がった。

だが、それでも――致命打は避けた。


「……っ!」


一方、ヴェイルはその瞬間を見逃さなかった。


自身の勢いで頭を地面に打ちつけたハイドラは、大きく体勢を崩していた。

その隙――再び現れる保証など、ない。


迷いなく、ヴェイルは魔力を右手に集中させた。

その力を、一気に短剣へと流し込む。


だが――

彼が狙ったのは、アリニアが言っていた頭頂の“核”ではなかった。


喉元。

その、分厚くうねる首筋へ――

ヴェイルは迷いなく刃を振るった。


ブシュッ!!


風を纏った短剣が、肉を裂く。

硬質な鱗を断ち割り、氷のように凍った外皮を粉砕しながら、刃は深く潜り込む。

骨が砕け、声帯が裂け、喉が――沈んだ。


「ギアアアァァ……ッ!」


ハイドラが、最後の雄叫びをあげる。

その巨躯がのたうち、氷の大地を激しく打つ。

尾が暴れ、無数の柱をなぎ倒していく。

その凄絶な破壊のなかで――

ついに、首を失ったその身体が、地へと崩れ落ちた。


――ズンッ!!


頭部を失った巨体が、地を震わせて倒れる。

残された尾が一度、激しく地を打ち、

それが最後の痙攣となった。


厚く、黒い血が、地表をじわりと染めていく。

冷たい空気の中に、生々しい鉄の匂いが混ざる。


ヴェイルは、その場に立ち尽くしていた。

右手の短剣を握り締めたまま、動けない。

視線の先には、動かぬハイドラの頭部。


「……倒した……」


まるで、確かめるように呟いた。

自身の呼吸が戻る。

肩が、僅かに震える。

緊張が解けていく感覚――それが、遅れてやってくる。


ようやく、彼は辺りを見回した。

アリニアを探す。


瓦礫に崩れた柱の残骸の中――


彼女は、ゆっくりと体を起こしていた。

顔をしかめ、肋に手を当てながら立ち上がる。

ハイドラの一撃をかわした代償が、古傷を疼かせていた。


「……っ、く……」


だが、彼女は立っていた。

倒れることなく――戦いの終わりを見届けるように。


ヴェイルはゆっくりと彼女へ歩み寄る。

その唇には、かすかな笑みが浮かんでいた。


「……やったな。」


囁くように、優しい声でそう告げる。


アリニアは、痛みに歪んだ顔のまま、か細く手を上げた。

だが、その瞳――

苦しみに濁ったその奥に、別の感情が宿っていた。


恐怖。


「……ッ!」


彼女は、言葉を絞り出そうとする。

だが息は浅く、声は震え、喉から掠れるようにしか出てこない。


ヴェイルは慌てて短剣を納め、駆け寄った。


「治療しないと……すぐに!」


だが――

アリニアは、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

その視線には、言葉以上の緊迫が込められていた。


「……ま……だ……」


途切れ途切れの声が、彼の耳に届く。

そのまま、アリニアの視線がゆっくりと――

ハイドラの頭部へと向かう。


「……終わってない、ちびオオカミ……」


「……え?」


ヴェイルは、微笑を崩さずに言葉を返した。


「アリニア、頭はもう落ちてる。体も動かない。終わったんだよ。」


そう言って再び彼女へと向き直る。


「まずは君の傷を――」


その言葉の途中で、異音が割り込んだ。


……ジュル……ジュルル……


粘液のような、濡れた音。

最初は微かだった。

だが次第に、耳を侵すように広がっていく。


「……な、んだ……?」


突如として吹いた冷風が、地表の塵を巻き上げる。

肌を刺すような冷たさ――

それは、かつてあの扉が開かれた時に感じた、あの悪寒と同じだった。


ヴェイルは思わず立ち止まる。

背筋が凍り、動きが鈍る。

見えない“何か”が、彼を押さえつけているようだった。


ギギ……と音を立てるようにして、彼はゆっくりと首を動かす。

視線は、地に伏したハイドラの方へ。


頭部は動かない。

切断されたまま、そこにあるだけだった。

だが――


「……嘘、だろ……」


ヴェイルの視線が、首のない胴体へと移った。

そして――その足元。


黒く広がっていた血液が、動いていた。


違う。

吸われていた。


血が、逆流している。


地に落ちたはずのすべての血が、音もなく、静かに――

氷の表面を這いながら、胴体へと戻っていく。

まるで、黒い蛇のように。


「……ありえ、ない……っ」


胃の奥がひっくり返る感覚。

目の前の現象を、理屈が拒絶している。


頭と体は、完全に分離していた。

あれだけの致命傷。

それでも――


なぜ、こんなことが起こる……?


アリニアに問いかけようとした。

声を発しようと、喉に力を込めた。

だが、出なかった。


言葉は、凍ったまま喉で途切れた。

声にならない恐怖だけが、身体の芯を締め上げていく。


――何かが、始まろうとしていた。


地に広がっていた血液は――

すべて、胴体へと吸い込まれていった。


まるで、最初から何も起きていなかったかのように。


その場を包む空気が、静まり返る。


重く、圧し掛かるような沈黙。

ねっとりと響いていたあの音も、すでに止んでいた。

だが、空間にはなお、言いようのない“緊張”が漂っていた。


そして――


グッ、ググッ……!


音もなく、巨大な胴体がゆっくりと持ち上がる。

まるで、見えない糸に引かれる操り人形のように。


筋肉が収縮し、背が伸び、尾がうねる。

その巨体が、ゆっくりと姿勢を整えていく。

まるで、今にも突進してきそうな構え。


だが――


ピタリと止まった。


そのまま、喉元を天井へと突き出すように首を持ち上げ――


頭が、ない。


切断面が剥き出しのまま、虚空に向かって開かれている。

空虚で、不気味で――

圧倒的な“異常”がそこにあった。


「……な、に……これ……」


ヴェイルは無意識に後ずさる。

視界に映るものを、理解できない。


アリニアもまた、岩陰に身を預けたまま、言葉を失っていた。

喉が詰まり、声が出ない。


彼女の知る限り、これほどの異形は――

かつて一度も、物語の中ですら見聞きしたことがなかった。


そして、沈黙が破られた。


――ブシュゥッ!!


裂けるような音。

どろりとした液体が、断面から噴き上がる。


血。

だが、ただの血ではない。


それは――落ちない。


逆らうように、天へと昇っていく。


無数の細く粘ついた“糸”となって、空間へと伸びていく。

まるで、逆さに生えた根のように。


根は枝分かれし、

絡み合い、

ねじれ、

うねる。


やがて、その塊は――“形”を得た。


ヴェイルは、目を見開いたまま、その成り行きを見つめていた。


それは、頭だった。

否――


ふたつ。


血管と血肉だけで構成された、二つの“頭部”。

それぞれが、わずかに空中で揺れ、重力を無視して漂っている。

繋がってはいるが、完全には一体化していない。

獲物を見定めるように、静かに揺らめいている。


そして――


胴体の奥から、青白い光が閃いた。


――ビシュウゥ……ッ!


青い奔流が、血の糸を走る。

電流のようなその輝きが、血脈のすべてを駆け抜けていく。


やがて、その光は一方の頭部に集中し、

まるで心臓のように――鼓動を打ち始めた。


脈動。

生命の模倣。


切断された首の断面から、

ぶくり、と肉塊が隆起する。


それが裂け、弾け、蠢きながら形を変えていく。

新たな首筋。

新たな筋肉。

新たな骨格。


――再構築。


「……う、うそ……っ」


アリニアの震え声が、微かに漏れる。


圧倒的な異形。

生命の理を超えた、再生。


ヴェイルとアリニアの鼓膜を――

不快な音が引き裂いた。


キィィィィィ……ッ!!


爪を擦るような、金属が割れるような、

異常に高く、不快な音が鳴り響く。


肉が再構築される音。

骨が組み上がる音。

そして――


その全てを、無数の鱗が覆っていく。


ガシュッ! ガシュガシュガシュ!!


鋭く、冷たく、密集して飛び出す鱗片。

まるで砕けた岩石のような質感を持ったそれらが、

一枚一枚、再生した頭部を容赦なく覆っていく。


獣の顔が――形を取り戻していた。


――パキィッ!


肉の奥から、鋭い“何か”が突き出す音。


牙だった。


長く、鋭く、骨を砕くほどに太いそれが、ねばついた音を立てながら生え揃っていく。


ズズッ……ズチュッ……!


生まれたばかりの肉を押し分け、上下の顎が噛み合わさる。

獣の武器が、再び形を得た。


そして――


ギシ……ギシィ……


頭蓋に沿って、鱗の刃がせり出していく。

まるで王冠のように、禍々しい輪郭を描きながら広がる。

鋭く、重なり合い、風を切るような鋭利な音。


血と肉と魔力によって紡がれたふたつの頭部が、

完全に、その“形”を取り戻した。


空中を揺らめきながら、ゆっくりと――不気味な静けさを湛えたまま――

その獲物を探していた。


「……どうして……」


アリニアが、ヴェイルを見下ろす。

足元に横たわる彼へ、かすれた声で問いかけた。


「……何をしたの、ちびオオカミ……?」


その声には、恐怖がにじんでいた。

パニックすら飲み込み、空虚になりかけた感情の残骸。


だが、ヴェイルは――動かなかった。

まるで、何が起こっているのかを理解しようと必死だった。


信じられない。

倒したはずの怪物。

首はここにある。

アリニアのすぐそばに。


それなのに――


胴体からは、新たなふたつの“頭”が生まれていた。


「こんなの……あり得るかよ……」


どんな魔物だ。

どんな呪いだ。

どんな地獄が、これを許した?


ズゥウン……


空間が、脈打つ。

鈍く、重く。

床が震え、風が逆巻く。


胴体の中心が、激しく脈動し始めた。

まるで心臓の鼓動のように。


ドクンッ――!!


その一撃で、光が迸る。

青白い閃光が、部屋中を満たしていく。


そして――


「――っ!!」


凍てつくような冷気が、肌を裂いた。

息が、喉に張り付き、肺が縮む。

ヴェイルもアリニアも、反射的に顔を背けた。


次の瞬間。


ふたつの頭部が、同時に目を開いた。


眩い蒼光。

夜空の星を焼き尽くすような、暴力的な光。


アリニアは思わず膝をつき、崩れ落ちそうな身体を近くの柱に預ける。


「ヴェイル……逃げて……!」


声にならない。

声が出ない。

叫びたくても、喉が震えるだけ。


「――ッッ!!」


それでも、肺が破れるほどに、叫んだ。


「斬って……ッ!!」


その瞬間――


ハイドラが、吠えた。


それは一つの雄叫びではなかった。


二つ。


ふたつの喉が、重なって響いた。


大気が震え、空間が歪む。

音の壁が、あらゆる思考を吹き飛ばす。


ヴェイルは奥歯を噛み締め、アリニアへと振り向いた。


その瞳には――決意が宿っていた。


コクリ、と小さく頷く。


そして、再びハイドラへと視線を戻す。

唇がわずかに動く。


「なるほどな……“ちゃんと”斬れってことか。」


アリニアは、ヴェイルの動きにかすかに安堵する。


言葉は通じている。

伝わっている。


だが、不安は消えない。

その目は、再び怪物を見据える。

柱に背を預け、力なく息を吐く。


そして――


空を漂う二つの頭が、ゆっくりと、ヴェイルに向き直る。


完全に――狙いを定めた。


「……!」


彼は、すでにアリニアから距離を取っていた。

攻撃が彼女を巻き込まぬように。


立つのは、たった一人。


死の静寂が戻る戦場で――


ただ、彼だけがその異形と向き合っていた。


そのときだった。

ふたつの頭のうちの一つが、空中でぴたりと静止する。

もう一つは、切断された首筋をゆっくりと持ち上げ――

新たなる“完全な再生”へと、準備を整えていた。


ふたつの顎の間に、淡い青光が灯る。


それはかすかに脈動し、吐息のように震えていた。

だが、徐々に――その光が膨れあがる。


ギュウゥ……ッ


震えるような光が、やがて顎全体を覆い尽くす。

それは自然のものではない、どこか不気味で――古めかしい力の輝き。


その瞬間。


――モワァ……


歯の隙間から、霧が流れ出た。

青白い蒸気。

それは煙ではない。


まるで、氷が溶け出すように、粘りを持って地へと垂れ落ちていく。

静かに、静かに――

だが、確実に地面を這い進みながら。


そして――


パキィィ……


霧が触れた石床が、音を立てて凍りつく。


石のひび割れが広がり、床一面が光を反射する滑らかな氷へと変わっていく。


ヴェイルは無意識に後退した。

氷が彼の足元に迫っていた。


だが、そのとき――


「ガンッ!」


鈍い打撃音。

先に完成していた頭部が、もう一つの頭に突き当たる。

まるで叱りつけるかのように、顎で小突く。


ヴェイルはその様子を凝視していた。

氷霧はすでに周囲を包み始めている。

石の形も、影の線も、すべてが曖昧に歪んでいく。


寒気が、喉を裂く。

肌に突き刺さるような凍気。


「……っ、く……!」


遠く、アリニアが身を抱えるようにして震えていた。

彼女でさえ、この冷気には抗えない。


「ちびオオカミ……」


彼女が振り返る。

唇は紫に染まり、声も震えていた。


「……魔法よ……あいつ、魔法を使ってる……!」


言葉の隙間から吐くように告げる。


「離れてても……攻撃できる。気をつけて……!」


ヴェイルは黙って頷いた。

その表情には、焦りも、恐れもなかった。


ただ――覚悟だけがあった。


(この感覚……)


あのとき、ハイドラの死体に近づこうとしたときに感じた冷気。

あれは、ただの残滓じゃなかった。

今、確信する。


これは――“意志ある魔力”だ。


二つの頭は、低く唸り声を上げた。

ギィィ……ギャァァ……

どこか野獣とは異なる、冷酷な音。

青い目がヴェイルを捉え、憎悪と殺意を宿す。


(……一つの頭だけでも、あれだけの苦戦だった)


(それが今、二つ……)


圧倒的な戦力差。

状況は悪化している。


だが――退けない。


ここで倒れれば、アリニアが――

彼女が、きっと。


(守るって、決めたんだ……!)


奥歯を噛み締める。

視線は決して逸らさない。


生き残るために。

守るために。

すべてを懸けて――


「来いよ……」


小さく、吐き捨てるように呟く。


次の瞬間。


――ギャアアアアアッ!!!


咆哮。

先に再生された頭が、喉の奥から凄まじい雄叫びを上げた。

その咆哮は、戦いの号令。


決戦の幕が――上がろうとしていた。

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