第57章:引き裂かれた誇り
ヒュドラーが再び咆哮を上げた。
その巨体が激しくうねり、目覚めによって怒りがさらに燃え上がったのは明白だった。
尾が重々しく地を叩き、不規則な間隔で振り下ろされるその動きは、威圧そのものだった。
アリニアは前に立つヴェイルの肩に、そっと右手を置いた。
その唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
「私がやるわ。……早く終わらせないと。」
落ち着いた声でそう言ったアリニアに、ヴェイルは振り返る。
彼女を止めようと、口を開いた。
「待って、動くな。今は――」
だが、アリニアの体はすでに前へと動いていた。
顔を歪めながら、意志に反して重くなった体を必死に動かす。
ヴェイルが言葉を紡ぐよりも早く――彼女はヒュドラーに向かって跳び出していた。
その姿を見て、彼はようやく気づく。
……遅かった。
動きが、明らかに鈍っている。
彼女は、もうこの化け物と戦える状態ではなかった。
ヒュドラーがアリニアを捉えた。
低く唸りながら、頭を振り下ろす。
アリニアは滑り込みで回避しようとするも――
「動けッ、早くッ!!」
ヴェイルの叫びが響いた。
だが、彼女の反応は一瞬遅れた。
ヒュドラーの尾がうなりを上げ、弧を描くように襲いかかる。
そして――
直撃した。
空中でアリニアの体が大きく歪み、衝撃のまま柱へと叩きつけられそうになる。
「くっ……!」
ヴェイルは即座に風の魔力を解放し、宙を翔けた。
柱に激突する寸前、彼はアリニアの体を抱きとめる。
彼女の目に涙が浮かんでいた。
震える手が腹部に添えられ、顔が歪む。
「……ごめん……」
かすかな声で謝るアリニアを、ヴェイルはそっと地面に下ろした。
そして、彼女の手をどかす。
そこには、腹部を深く裂くような出血があった。
ヴェイルは顔を上げ、彼女を見つめる――。
「もう動くな。……今のお前じゃ無理だ。」
ヴェイルの声は鋭く、強かった。
決して拒絶ではない。だが、譲らぬ決意がにじんでいた。
言葉を続けようとしたその瞬間――
ヒュドラーの尾が再び空を裂いた。
次は、彼自身が吹き飛ばされた。
鋭く肺を圧迫される衝撃。
体が宙に舞い、数メートル先まで弾き飛ばされる。
「ッぐ……!」
鈍い痛みが全身を貫いた。
「ちびオオカミ!!」
アリニアの叫びが響く。
引き裂かれたような声に、自らの傷まで疼き出す。
それでも彼女は、必死に視線でヴェイルを追った。
立ち上がる姿があった。
息を荒げ、顔をしかめながら、それでも彼は立っていた。
アリニアはふらつきながら体を起こそうとする――
だが、ヴェイルが片手を上げて彼女を制する。
「……あそこだ。あの柱の影に行って。……もう動くな。」
その言葉は短く、だが強く響いた。
反論しかけたアリニアだったが――
ヴェイルの目と交わった瞬間、言葉を失った。
彼の中にあるものは、迷いではなかった。
「君と一緒にいてから、何度も危ない目に遭った。……でも、大丈夫だった。」
その声には、微かな笑みと自信が混じっていた。
「……だから今回は、俺に任せて。」
ヴェイルはヒュドラーに向き直る。
アリニアは迷いながらも、彼の意志を尊重し、柱へと身を引いた。
彼女を捉えたヒュドラーの目が、ぬるりと動く。
首を傾け、うねるように体を動かしながら近づこうとする。
その瞬間――
ヴェイルが動いた。
身を低くし、地面を滑るようにヒュドラーの下へと潜り込む。
手には短剣。
狙うは鱗の隙間――
だが。
刃は弾かれた。
軽すぎた。
ヒュドラーの鱗は、通常の武器では通じない。
注意がアリニアから逸れた。
ヒュドラーの眼が、ヴェイルを見据える。
次の瞬間、その頭部が振り下ろされた。
轟音と共に、地が砕ける。
ヴェイルはギリギリで横跳びし、回避に成功するも、
地面の衝撃で体勢を崩す。
足元の岩が砕け、体がよろめいた。
それを見逃すような相手ではない。
ヒュドラーの尾が、再び唸りを上げる。
「……くそっ!」
即座に身を伏せ、地面に腹をつけてやり過ごす。
尾の一撃がすぐ頭上をかすめる。
空気が切り裂かれ、頬を冷たく撫でた。
すぐに跳ね起き、呼吸を整える。
視線の先では、ヒュドラーが再び頭をもたげていた。
口を大きく開き――
その咆哮が、空間を震わせる。
耳をつんざくような、獣の雄叫び。
その圧に、ヴェイルは歯を食いしばった――。
ヴェイルの足元で、大地が微かに震えた。
咆哮の余韻が空間に残る中――
ヒュドラーが一瞬、上空を見上げた。
その隙を逃さず、ヴェイルは再び駆けた。
短剣を構え、鋭く踏み込みながら斬りつける。
だが――
刃はまたもや、鱗の表面を滑るだけだった。
傷一つ残せない。裂け目も、破れもない。
「……っ!」
ヒュドラーが首を傾け、ヴェイルをじっと見下ろす。
次の瞬間、勢いよく頭を振り下ろした。
ヴェイルは風の魔力を展開し、一気に横へと跳ぶ。
地を蹴り、空気を裂いて滑るように移動――
だが、ヒュドラーは途中で動きを止めた。
地面に到達する寸前で静止し、眼だけを動かして彼を追う。
「……?」
ヴェイルが訝しげに眉をひそめたその時、
背後から――尾が迫った。
風を裂く唸り。
「――来るのは、わかってる!」
視界の端に捉え、即座に身を沈める。
だが――
その尾に付着していた氷の破片が、
衝撃で弾け、鋭く空を舞った。
一片がヴェイルの背をかすめる。
「ッ……ちっ……!」
鈍い痛みと共に、服の裏に冷たさが走る。
浅い切り傷だが、背筋を伝う血が確かに流れていた。
「本気でイライラしてきたぞ……」
苦しげに息を吐きながら、そう唸る。
「……気をつけて……」
遠くの柱の陰で、アリニアが小さく呟いた。
声にはならなかったが、その表情は祈るように強くこわばっていた。
自分には、何もできない――
その無力感が、胸を焼くように重い。
でも、動けば足手まといになるだけ。
彼女は、歯を食いしばって耐えた。
氷片は柱に激突し、石を貫いて砕けた。
鋭い破片が四方に散る。
ヴェイルは荒い息を吐きながら、視線をヒュドラーへと戻す。
「まだ何か隠してるな……?」
低く、問いかけるような声。
動きながら、アリニアの位置から離れる。
彼女を巻き込みたくなかった。
ヒュドラーは、攻撃を止めていた。
まるで、狙いを定めるために計算しているかのように――
冷たい目で、じっとヴェイルを観察している。
その隙を突こうと、ヴェイルが一歩踏み出した瞬間――
「……っ!?」
ヒュドラーの鱗の隙間から、白い霧が噴き出した。
あっという間に周囲を覆い、視界が霞む。
冷気が空気を支配する。
肌に突き刺さるような寒さ。
まるで、細かな刃が全身を撫でるかのような感覚。
「くそ……」
ヴェイルは奥歯を噛みしめた。
この状況で魔力を乱発するのは――
命取りだ。
だが、このままでは……。
「……考えろ。どうすれば、あいつに届く……?」
ヴェイルは歯の隙間から絞り出すように呟いた。
何度斬りつけても、刃は弾かれるだけ。
風の魔力で強化しても、消耗が激しすぎる。
そして、武器の耐久すらも奪っていく。
「一撃で決めるしかない……絶対に通す方法で……!」
ヒュドラーを睨みつけながら、必死に突破口を探す。
だが、鱗の隙間も、弱点らしい箇所も見つからない。
「接近すらできねぇんじゃ……どうしろってんだ……」
苛立ち混じりに呟く。
視線が流れる。
柱の陰――アリニア。
彼女はヴェイルの一挙手一投足を見守っていた。
鋭敏に動く耳、痛みに耐える険しい表情。
その瞬間――
ヒュドラーが動いた。
「ッ!」
ヴェイルの一瞬の迷いを見逃さなかったかのように、
巨大な頭部が振り下ろされる。
彼は即座に跳んだ。
だが――
地面が爆ぜた。
爆音と共に岩が砕け、破片が四散する。
石の破片が彼の頬をかすめ、あたりに雨のように降り注いだ。
アリニアは、息を飲んでそれを見ていた。
一撃ごとに、心臓が締め付けられる。
ヴェイルの体が吹き飛ばされるたび、胸の奥が凍る。
「……攻撃はできない。でも……何か、できるはず……!」
震える声で、己に言い聞かせるように呟く。
目はヒュドラーを細かく観察していた。
その姿は――どこから見ても硬質な装甲。
だが――
ふと、記憶がよみがえった。
頭部の上に、奇妙に輝く“それ”。
「……あの結晶……!」
震える声でそう呟きながら、アリニアは立ち上がる。
視線を素早く巡らせ、ようやくヴェイルの姿を捉える。
「ちびオオカミッ!!」
叫ぶ。
「頭の上の結晶……そこを狙ってッ!!壊せるかもしれない!!」
ヴェイルは驚いたように彼女を見た。
そして――ヒュドラーの頭を見上げる。
その視線の先には――
確かに、奇妙な光を放つ結晶があった。
「どうやって届けってんだよッ!?
まともに近づくことすらできねぇんだぞ、地上でも、正面でも!!」
怒鳴るような声が、アリニアに届く。
それでも二人は――必死だった。
何か打開策はないかと、思考を巡らせていた。
その間に――
ヒュドラーが、ゆっくりと姿勢を変える。
巨大な体が持ち上がり、背骨の節々が乾いた音を立てながら伸びていく。
最大まで引き上げられた体躯。
堂々たる質量が、空間そのものを圧倒する。
そして、その双眸が――ヴェイルを捉えた。
「……何を、する気だ……?」
理解は追いつかない。
だが、全身の本能が警鐘を鳴らす。
「アリニアッ!! 扉のほうへ――下がれッ!!」
叫びには、焦りと恐怖が滲んでいた。
アリニアもまた、その異様な気配を感じ取っていた。
言われるがまま、歯を食いしばって後退する。
片手で腹部を押さえながら、足元を引きずるようにして――
「……お願い、無事でいて……」
その願いを胸に、彼女は退いた。
ヴェイルもまた、すぐに動いた。
柱と柱の間を縫うように走り、背後へと回り込む。
姿勢を低くし、身を隠せる場所を探す。
あの質量が落ちてくるなら――直撃は即死だ。
息を切らせながら、石柱の裏に滑り込む。
その瞬間――
「――ッ!」
空を裂く、鋭い音。
ヒュドラーが、自らの体重を乗せて――
真上から、一気に落ちてきた。
その落下は、まるで隕石。
大気を切り裂き、天井すら震わせるような質量。
ヴェイルは飛び出した。
全速力で、扉の方向へ走る。
次の瞬間――
――ドオオオオンッ!!!
爆音が、世界を飲み込んだ。
床が激しく震え、足元が浮き上がる。
柱が悲鳴を上げてひび割れ、凍てついた破片が四方に散る。
白い霧が一気に吹き上がり、あたりを覆った。
冷気。
霜。
氷片――
すべてが、爆風のように渦を巻いた。
耳をふさぎたくなる轟音が、一瞬で消える。
そして――
静寂。
空間が飲み込まれたような、凍てつく静けさ。
脳内に響く残響だけが、なお続いていた。
だが――
その静けさの中に、異質な叫びが響いた。
ヒュドラーの咆哮。
怒りに満ちた咆哮が、白い霧を突き破るように響く。
その体から――
幾十もの氷の破片が、四方八方へと撃ち出された。
「――っ!!」
壁に、柱に、床に。
全方向へと放たれた鋭利な氷弾は、
次々と岩を貫き、巨大な穴を穿つ。
着弾と同時に石が砕け、
まるで爆発したかのような破壊音が連続する。
一撃ごとに生まれる、致命の威力。
この場に、隠れ場所など存在しない――
そして――突如、訪れる静寂。
重く、凍りついたような沈黙だった。
砕けた氷の破片が、カラン……と乾いた音を立てて地面に落ちる。
だが、それ以外のすべてが――止まっていた。
視界は完全に塞がれていた。
白い霧と霜の粉塵が、世界を覆っていた。
「ちびオオカミッ! どこにいるの!?!」
アリニアの叫びが、冷たい空間を震わせた。
彼女の背後にあった柱は半壊し、もはや隠れることすらできない。
それでも、崩れた石に身を預けながら、必死にヴェイルを探す。
肩で息をしながら、目を凝らす。
そのとき――
「ここだ。……アリニア、大丈夫か?」
霧の向こうから声が届く。
息を切らせながら、それでも彼の声は確かだった。
その瞬間――
アリニアの胸に、温かな安堵が広がる。
「うん……大丈夫。」
震える声ではあったが、優しく、確かな返答だった。
だが――
その余韻は、ほんの一瞬でかき消された。
「……っ!」
鈍い音。
地の奥から響くような振動。
ゴォン……ッ!
一度。
ゴォン……ッ!
また一度。
今度は、さらに近くで。
そして、三度目――
――ゴグンッ!!!
岩を砕くような轟音。
ヒュドラーの怒りが、再び暴れ始めていた。
その尾が、狂ったように柱をなぎ払う。
一撃ごとに石柱が崩れ、破片が吹き飛ぶ。
狙いは――ヴェイルがいた方向。
容赦のない破壊。
止まらぬ連撃。
そこに、思考も駆け引きも存在しなかった。
ただ、憤怒のままにすべてを叩き壊していく。
一つ。二つ。三つ――
次々と柱が崩れ落ち、粉塵と破片が宙に舞う。
七本目。八本目。
容赦ない破壊が続き、石の支柱が次々と粉砕されていった。
そして――
音が止んだ。
ヴェイルの視線の先で、ヒュドラーがゆっくりと身を起こす。
その口が大きく開かれ、
そこから――白い蒸気が音を立てて漏れ出す。
呼吸が速く、荒くなっていく。
咽喉の奥から吐き出される冷気は、まるで逆さの炉のようだった。
――ギャアアアアッ!!
咆哮。
爆風のような衝撃波が、霧を吹き飛ばした。
一瞬で視界が晴れる。
そして――それは見えた。
ヒュドラーの体から、
氷の破片が一つ残らず消えていた。
すべてを、振り払ったのだ。
まるで、まとわりついていた重しを払い落としたように。
完全に、解き放たれた――
アリニアは、拳を強く握りしめる。
そのまま、ゆっくりとヴェイルの方へ顔を向けた。
「……何か、しなきゃ……」
声が震えていた。
だが、確かな意志も宿っていた。
ヴェイルも、それが正しいことは分かっていた。
だが――方法がなかった。
「……どうすれば、届く……?」
呟くように言いながら、彼はヒュドラーを見つめる。
近づくことすら、命がけ。
攻撃一つで空間が崩れるような相手に――どうすればいい?
「ここまでやってこれた。
だったら……何かあるはずだ……」
小さく、言い聞かせるように呟いた。
だが、その考えがまとまる前に――
――それは、起こった。
ヒュドラーの頭が――ゆっくりと動いた。
その視線が、アリニアへと向けられる。
「……ッ!」
ヴェイルが息を呑む。
その巨体がうねり、一直線に――アリニアへと突進を始めた。
「……やめろ……!」
喉が張り裂けそうなほどの叫びが、息と共に漏れる。
ヒュドラーの狙いが変わった。
――アリニアを、殺すつもりだ。
ヴェイルの回避と攪乱に業を煮やし、
今度は逃げられない獲物に狙いを絞ったのだ。
力を失った体。逃げられない足。
そして、迷いなく迫る獣。
ヒュドラーが頭を持ち上げた。
殺意を込めた一撃を振り下ろすために――
そのとき、ヴェイルはすでに動いていた。
足に魔力を集中させる。
思考も、躊躇も、痛みすらも捨てた。
「……今しかない……!!」
選択肢はなかった。
ここで動かなければ――
アリニアは、確実に死ぬ。
「ここで、終わらせるッ!!」
その瞬間――
ヴェイルの体が、風をまといながら、閃光のように駆け出した。




