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氷結の夜明けの果て (R16)  作者: Wolfy-UG6
プロローグ - 第3巻:ダンジョンの影 Pt.2
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第56章:目覚めの息吹

ヴェイルとアリニアはためらっていた。

扉の向こうに広がる闇に、じっと視線を注ぐ。

そこからは、古の冷気が静かに漏れ出していた。

目には見えずとも、確かに感じる冷たさ。

まるで、時の流れに閉じ込められた風のようだった。


ヴェイルが一歩、踏み出した。

その一歩は、ただの衝動ではない。

本能ではなく、意思による決断だった。

アリニアがわずかに身を固くする。

彼の突然の行動に、驚きを隠せない。

ヴェイルは振り返りもせず、ほんの少し顔だけを向けて――


「もう……戻れないんだ。」

低く、重い声で呟いた。


アリニアは何も言わなかった。

ただ、彼の背中を見つめながら、ゆっくりと歩を進める。

その足取りは静かで、けれど確かな覚悟を宿していた。

闇の中へと彼の姿が呑み込まれる。

普段なら、暗闇を恐れることはない。

だが、この暗さだけは違った。

それは、どこか生きているように思えた。

重く、息を潜めた“何か”が、そこにいた。


それでも――アリニアは続いた。


一歩、また一歩。


足がしきりに闇を踏み抜くたび、背後の光が遠のいていく。


その瞬間――

岩壁全体が低く唸りを上げる。

ふたりは同時に振り返った。

重厚な扉が、軋む音とともに閉じ始めていた。

まるで、目覚めた獣が咆哮を漏らすかのように。


逃げ道は、もうなかった。


ヴェイルもアリニアも、それを知っていた。

このダンジョンが、何度となく彼らの背後を閉ざしてきたことを。

それでも――今回は、何かが違う気がした。


最後の“バタン”という音が、空間に響き渡る。

それはまるで、判決の槌音のように――

冷たく、決定的だった。


静寂。

重く、鋭く、息苦しいほどの沈黙。

風もない。揺れもない。

ただ、一つだけ。

そこに響いていたのは、何者かの――

呼吸だった。

深く、規則正しく、不気味なまでに静かで。


その静寂を破ったのは、アリニアだった。


「……準備は、できてる?」


動かずにそう尋ねる声が、闇に沈む。

ヴェイルには彼女の姿が見えなかった。

だが、すぐ近くにいることはわかった。


「今まで見てきたことを思えば……」

ヴェイルは、かすかに息を吐いて答える。


「ここで死ぬとしても――最後まで戦うさ。」


彼はもう一歩を踏み出した。


――だが、その瞬間。


冷たい“何か”が、彼をかすめた。

風ではない。

気配だった。

背筋をなぞるような、凍える存在。

体が硬直する。筋肉が言うことを聞かない。


空気が変わった。


濃く、重く、圧し掛かるような圧力。


そして――


ふたりの背後、扉の両脇に、小さな光が灯る。


青白い炎が、順に現れていく。

ゆらゆらと揺れるその光が、閉ざされた扉を照らし出す。


浮かび上がるのは、刻まれた文字。

右側の柱には、見たこともない文字列。

読めるはずもないのに――

どこか懐かしい響きが、胸を打つ。


†ΛΛ・ΩΛ† ∴ΞΩ† ∧Ξ∴ ΦΨ† ††Σ


左側の柱に刻まれていたのは――

はっきりと読める、共通語だった。


『氷の心は、死の鼓動に合わせて脈打つ。』


ヴェイルが息を呑む。

アリニアを見つめる。


「……意味が分かるか?」


アリニアはゆっくりと近づき、

冷たい石にそっと手を添えた。


「……いいえ」


かすかな声でそう言うと、

指先を滑らせながら文字をなぞっていく。


まるで、その触感の奥に何かを探すように――

仕掛けか、記憶か、真実か。


だが――


何も起きなかった。


石は何も語らなかった。

アリニアはゆっくりとヴェイルの方へ振り返る。

その瞳は、いつもよりも深く沈んでいた。


「私は色んなことを知ってる、ちびオオカミ……でも、今回ばかりは――」


声を落としながら、ぽつりと呟く。

「さっぱり見当もつかない。」


青白い焔に照らされた彼女の瞳が、微かに光る。

その立ち姿は堂々としていたが――

ヴェイルの目には、揺らぎが見えていた。

痛みの下に、鎧の奥に隠れた“迷い”が。

彼女は、今――本当に困惑していた。


ヴェイルは目を伏せ、ふたたび暗闇の中を見つめた。

その先に広がる漆黒の空間を、じっと。


「……進もう。」


静かな声でそう言い、踏み出す。

「ここで立ち止まっても、意味はない。」


アリニアは何も言わずに頷くと、柱から身を離し、彼の後に続いた。

もはや、何が待ち受けていようとも――

彼らに退く道など、なかった。


ヴェイルが慎重に足を進める。

その背を照らすのは、後方に揺らめく青白い焔だけ。


そのときだった。

さらに奥、闇の先――

ぽん、と音を立てるように、ふたつの松明が灯る。

その淡い光に照らされたのは、二本の新たな柱。

闇の中に忘れられた番人のように、静かに立っていた。


続けて、さらに一つ、また一つ――

松明が次々に灯る。

柱が次々に現れ、その姿を露わにする。


目の前に広がる空間は、どこまでも果てしない。

光が届く限り、なおも奥がある。


――だが。

最奥だけは、闇が消えなかった。

そこだけは、まるで光そのものが立ち入ることを拒んでいるかのように――

闇に包まれたままだった。


ふたりの目が、交錯する。

無言のまま、同じ不安を宿して。

言葉にならない、直感のような警告。


この静寂、この広さ――

そこに潜む“何か”は、これまでに対峙したどの敵よりも――

古く、そして、恐ろしい。


彼らは再び歩き出す。

ひとつ、またひとつ。

氷の張った床が、歩くたびに音を立てる。

そのたびに、冷気が肌を刺すように鋭くなっていく。


ヴェイルは唇を噛んだ。

震えを抑えようと、必死だった。


だが、さらに一歩を踏み出そうとした瞬間――

アリニアの手が彼の腕を強く掴んだ。

無言の制止。


彼は振り返ったが、問いかける必要はなかった。

彼女の顔を見た瞬間に、理解した。


――何かが、起きる。


そのときだった。


松明の炎が、いきなり激しく燃え上がった。

光が爆ぜるように広がり、

眩しさに、思わず目を細める。

空気が震え、肺の奥まで焼き付くような圧力が走る。


一瞬にして、空間が姿を変えた。


彼らの周囲に広がっていたのは――

円形の広間だった。

天井は高く、壁際にはなめらかな円柱がいくつも立ち並んでいる。

その表面には、石で彫られた蛇たちが絡みつくように登っていた。


柱は氷に閉ざされ、

青白い光を反射しながら、幻想的な煌めきを放っている。

まるで時が凍りついたまま、そこに在り続けているかのように。


どれだけの年月が経ったのか――

その空間からは、美しさと畏怖が同時に感じられた。


足元の床も、鏡のように磨き上げられた氷。

霜の模様が走るその表面に、

彼らの姿が、かすかに歪んで映っていた。


ヴェイルは視線を落とす。

アリニアが、わずかに身震いしていた。


「……大丈夫か?」


そっと、問いかける。


アリニアは、いつものように控えめな微笑みを見せた。


「平気よ。」

落ち着いた声だった。

「ただ……ちょっと痛むだけ。」


だが、ヴェイルにはわかっていた。

彼女の動き、姿勢――

その全てが限界を示していた。

彼女は、ただ意志の力だけで立っている。


ヴェイルは顔を上げ、天井を見上げる。

そこには、柱と柱を繋ぐように巨大なアーチが幾重にも交差していた。

その中央、丸くくり抜かれた天蓋には――


一枚の古代壁画が刻まれていた。


三つの頭を持つ、巨大な怪物。

その一つは人を喰らい、

もう一つは冷気を吐き出し、

そして最後の一つ――

血のように赤い瞳が、

まっすぐにヴェイルを見つめていた。


石を越え、時を越え――

確かに、彼を。


彼らを囲む壁に、新たなルーンが浮かび上がり始めた。

最初の通路で見かけたそれと、よく似た文字列。

けれど――今回は違っていた。


ヴェイルの身体には、何の異常も起きなかった。

痛みもない。焼けつく感覚もない。

まるで、空気そのものが落ち着きすぎているような――

不気味な静けさだけがあった。


彼はゆっくりとアリニアへと視線を向ける。


「こんな場所……見たことあるか?」


低い声で尋ねるが、返事はなかった。

アリニアの視線は、遠く上空へと吸い寄せられていた。

まるで、言葉すら届かないところにいるかのように。


「アリニア?」

声を強める。眉をひそめて、もう一度呼びかける。


彼女はようやく、ゆっくりと腕を上げた。

その指先が示す先――

天井と闇の境界。ほとんど見えないほど高い場所。


そこに、淡い光が浮かんでいた。


静かに揺れながら、ただ空中に漂っている。

灯りにしては暗すぎる。

だが、反射とも思えない、異様な安定感を持っていた。


その輝きは、ゆっくりと降りてくる。

ふわり、ふわりと空気を裂くように――

地上に近づいたかと思えば、途中で停止した。

完全に、空中で静止していた。


ヴェイルはアリニアへと向き直る。

彼女の指先には、鋭い爪がすでに現れていた。


だが、彼は一歩近づき、そっと声をかける。


「……今の君の状態じゃ、動いちゃダメだ。」


アリニアはゆっくりと顔を向ける。


「まだ、戦えるわ。」


その声に、迷いはなかった。


ヴェイルは歯を食いしばり、何かを言おうとした――

が、その瞬間。


光が――爆ぜた。


閃光のように、急激な膨張。

圧が、波となって襲いかかり、ふたりを後方へと弾き飛ばす。


壁の松明が一斉に明るさを増し、さらに奥の闇を照らし出す。

空間の輪郭があらわになり、全体が震え始める。


――二度目の波動。


氷が軋む音が響いた。

柱に張り付いた氷がひび割れ、壁の霜がパキパキと砕けていく。

床の霜までもが、網のように亀裂を広げていた。


ヴェイルは顔を上げる。


そして――見た。


先ほどまでただの暗黒だった場所に、

今は、巨大な“何か”が立っていた。


彼はアリニアのそばに駆け寄る。

その息は荒く、波動の衝撃が彼女の体に負担をかけていた。


「アリニア……あれは、一体……?」


その声には、かすかな震えが混じっていた。


アリニアはゆっくりと上体を起こし、目を細める。


「……あれは、ただの門番じゃない。」

低く、鋭く言い放った。


「……あれが、このダンジョンのボスよ。」


ヴェイルは息を呑む。

そのアリニアの瞳に――一瞬、確かに“恐れ”がよぎった。


「ここが……最下層。私の状態じゃ、戦い抜ける保証はない……」


声がかすかに揺れる。


ヴェイルは彼女の前に出た。

そして、強い意志を込めて告げた。


「……戦うのは、俺だ。」

「君は……もう、十分すぎるほど戦ってきた。」


アリニアが口を開こうとした瞬間――


怪物が息を吐いた。


先の波動で舞い上がっていた霜の粒子が、

その吐息によって爆発的に四散する。


そして、ゆっくりと顔を持ち上げる。


その体は、長く、重く。

蛇のようにしなやかで――

だが、まるで鋼でできたように頑丈そうな鱗に覆われていた。


灰色の体を這うように走る、青白く輝く亀裂。

それはまるで、内部に封じられた“何か”が漏れ出しているように見えた。


鱗の合間からは、氷の刃のような突起が突き出している。

呼吸のたびに、背骨の両脇にある数枚の鱗がゆっくりと持ち上がり――

そこから、冷気を帯びた白い蒸気が放たれていた。


それは、まるで“生きた兵器”。


そして、目の前のその存在が――

この空間の支配者であることは、

言葉などなくても、誰の目にも明らかだった。


その頭部は巨大で、顎には鋭い牙がびっしりと並んでいた。

下顎は首元にまで届き、最初の鱗を覆うように広がっており――まるで、もう一つの顎のようだった。


そして、その頭蓋の基部には――

青く輝く結晶が、まばゆい光を放っていた。


頭頂部には、長く伸びた鱗が刃のように重なり、

それは体中に突き刺さる氷刃と同じ形状をしていたが――

比べ物にならないほど巨大だった。


そこから放たれる青い光が、ゆっくりと空中へと揺らめき昇っていく。

魔力が肌から漏れ出し、霧のように空間を包み込みながら――

全体に、死の冷気が満ちていく。


息をするだけで、肺の奥まで凍りつきそうだった。


怪物は体を大きく伸ばし、天井に触れるほどまでにその身を持ち上げる。


そして――


ドォンッ!!


轟音と共に、重い体が床へと落ちる。

だが、崩れたのは胴体だけ。

その頭と、うねるような長い首だけは空中にとどまり――

ゆらり、ゆらりと、まるで催眠術のような動きで揺れていた。


その瞳は、透き通るような青。

クリスタルのように光を反射し、松明の輝きを映し出していた。


そして――


「ギアアアアアァァァアアッ!!」


耳をつんざくような咆哮が空間を貫いた。

ヴェイルとアリニアは、思わず両耳を押さえる。


それはただの咆哮ではなかった。

魔力そのものを吹き出す、目覚めの一声。


鱗の間からは分厚い蒸気が漏れ出し、

まるで体の中に蓄積されたエネルギーを外へと排出しているかのようだった。


その存在感だけで――空間が歪んでいた。

触れられていないのに、重力に押し潰されるような圧力。

ただ立っているだけで、膝が軋む。


ぬるり、と身体を起こす怪物。

再びその身を持ち上げ、うねるように舞い上がる。

空間そのものが、彼女の“目覚め”に反応しているかのようだった。


アリニアは、わずかに顔をヴェイルに向けた。

その瞳には、かすかに恐怖が滲んでいた。


「……ヒュドラよ。でも、普通のじゃない。」


彼女の声は凍りつくように震え、吐く息が白く染まっていた。

冷気が肺にまで染み込み、呼吸さえままならない。


――最終の試練が、目の前に立ちはだかっていた。


伝説から現れたかのような、異形の魔物。


そして、そのヒュドラは――


彼らを、この場所から生かして帰すつもりなど――

微塵もなかった。

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