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氷結の夜明けの果て (R16)  作者: Wolfy-UG6
プロローグ - 第3巻:ダンジョンの影 Pt.2
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第54章:近すぎる吐息

焼けた肉の香りが、ゆっくりと部屋の中に広がっていく。

壁と衣服に染み込んだ湿気をわずかに押しやり、微かだが、どこか安らぎを感じさせる香りだった。

この地の底の地獄のような空間の中で――

ほんのひとときの温もりが、錯覚のように心を満たしてくれる。


アリニアはゆっくりとひと口、肉を口に運ぶ。

噛みしめながら視線を上げ、向かいに座るヴェイルを見つめた。


「……本当の地獄は、まだ先にあるのかもしれないわね。」


低く、重い声。

そのまま少し視線をずらし、岩壁の影を注意深く見回す。

何かの気配、音、揺らぎ――

油断すればすぐに命を奪われる場所だということを、彼女は忘れていなかった。


「終わったとは……到底思えない。」


今度はさらに沈んだ声で、ぽつりと呟く。


だが、ヴェイルはその言葉に応じず、代わりに眉をひそめて彼女をじっと見つめた。

その眼差しは、これまでにないほど真剣で――鋭かった。


「今、一番大事なのは……お前だ。」


声は鋭く、苛立ちをはらんでいた。


「その身体でどうにかなると思ってるなら、今すぐやめろ。」


その一言に、アリニアの目が見開かれる。

頬にうっすらと紅が差し、唇がわずかに震えた。


何よ、それ……

どうして、そういうことを言えるの……そんな風に――真っ直ぐに。


「……ホント、あんたって……そういう余計な一言だけは完璧なのね。」


噛みつくように心の中で呟くが、言葉にはしなかった。

胸の奥に差し込んだ感情が、思った以上に深かったから。


彼女は無理やり視線を戻し、冷静を装って応える。


「私は……そんなにやわじゃない。」


静かだが、芯のある声。


その瞬間だった。


ヴェイルが、唐突に立ち上がった。

アリニアの瞳が追う。

戸惑いの色が、無意識にその瞳に宿る。


彼は彼女のもとに近づき――


何の前触れもなく、彼女の傷ついた腕を掴んだ。


「っ……――ッ!!」


叫びが、反射的に漏れた。


凄まじい痛みが、全身を貫いた。

彼のもう一方の手が、肋骨のあたりに触れたその瞬間――

彼女の呼吸は止まり、顔が苦悶に歪む。


ヴェイルは彼女の横に膝をつき、冷たい目で見下ろした。


「……強がるな。顔に全部出てる。」


低く、決然とした声だった。


アリニアは一瞬、動けずにいた。

呼吸が荒く、胸が上下する。

その痛みに逆らうように、ゆっくりと息を吸い込み、落ち着きを取り戻す。


「じゃあ……どうしろって言うのよ。」


声はまだ震えていたが、強さを失ってはいなかった。

彼女は手を挙げ、震える指で後ろの扉を指差す。


「あの道は、もう引き返せない。

行くしかないのよ。」


その言葉に、ヴェイルはゆっくりと頷いた。


「……わかってる。」


静かな声で答えながら、彼は真っ直ぐアリニアを見つめる。


「でもな……今の戦いは、俺がやる。」


その声には、明確な決意がこもっていた。

そして、自身にも言い聞かせるように――重く響いていた。


――本当に、できるのか?

あれがなければ……今頃、自分はここにすらいない。


そう思いながらも。

それでも、言わなければならなかった。


「……お前を……これ以上、戦わせるわけにはいかない。」


アリニアは、視線を落としたまま右手をぎゅっと握りしめた。


――わかってる。ヴェイルの言葉は、正しい。

けれど、それを認めるのが――悔しい。


誰かに頼ること。

誰かの助けを必要とすること。

それが、彼女の中でどれほど難しいことか。


ヴェイルはそっと、さらに一歩近づいた。

そして、優しく肩に手を置く。

その瞳には、静かな決意と――温もりがあった。


「……何があっても、必ず生きて帰る。

俺が……絶対に守るから。」


その声は、まるで誓いのように静かで、確かなものだった。


アリニアの肩が、微かに震える。


「……まずは、お前の怪我を見ないと。

落下の影響が、どれほど出てるか……確認させてくれ。」


その声に、彼女はようやく肩の力を抜く。


――抵抗する理由なんて、どこにもなかった。


これほどまでに強く、はっきりと“気遣われた”ことは――彼女の記憶には、なかった。


静かに彼の手を取り、肩からそっと離す。


「……ヴェイル。」


その名前を呼び、少しだけ間を置いて――言う。


「……コルセット、ほどいてくれる?」


その声は、かすかに震えていた。


「このままじゃ、服が脱げないの。」


ヴェイルの目がわずかに見開かれる。

彼女の言葉の意味に、今さら気づく。

服の上からでは、応急処置すらできない。


「あ……あぁ、わかった。」


小さく頷いた声は、どこかぎこちない。


指先が、アリニアの背中へと伸びる。

固く締められた革紐に触れ、ひとつずつ、慎重に外していく。

そのたびに、圧迫されていた衣服が緩み、胸元の呼吸がわずかに楽になる。


アリニアは体を少しひねり、背中を見せる。


「上の結び目を解いて、下に向かって少しずつ緩めて。」


落ち着いた声で説明するが、その口調の端には、わずかな緊張が混ざっていた。


ヴェイルの指が彼女のうなじに触れる。

その瞬間、彼はふと手を止めた。


「……その、下に……何か着てる?」


戸惑い混じりに尋ねる。


アリニアは振り返らずに、小さく頷いた。


「つけてるわ。だから、気にしなくていい。」


「……そうか。」


ほっとしたように呟くと、ヴェイルは再び作業に戻る。

指先で丁寧に結び目を解き、交差した紐を一本ずつ緩めていく。

やがて、布地が解放され、アリニアの背中が露わになった――その瞬間。


「……っ!」


ヴェイルの目が、驚愕に見開かれる。


彼女の背には、広範囲に及ぶ青黒い痣が浮かび上がっていた。

肩甲骨から脇腹、そして腰まで。

まるで全身が打ち砕かれたかのような痕。


彼は反射的に息を飲み、咳払いで気を紛らわせる。


「……前も、見せてくれるか。」


低く、慎重な声で告げる。


アリニアは無言のまま、ゆっくりと体を回転させた。

焚き火の橙が、彼女の肌を照らす。

胸元、腹部、脇腹――そのすべてに痣が広がっていた。


それでも、彼女は黙って、ひとつの小瓶を差し出した。

先ほど彼に渡した、治療用の軟膏だった。


――無言の信頼。

それは、言葉よりも重いものだった。


ヴェイルは、そっとその瓶を受け取り、

深く息を吐いた。


「塗って……お願い。私は……見ないでいたい。」


アリニアの声は静かで、どこか遠くを見つめていた。

その表情は平静を装っていたが、ヴェイルにはわかっていた。


――彼女は、すべての傷の位置を正確に把握している。

その痛みを、すでに何度も確かめている。


ヴェイルは小さくうなずき、ゆっくりと蓋を開ける。

指先で軟膏をすくい取り、瓶をそっと横に置いた。


そして、慎重に――彼女の腹部へと指を運ぶ。


冷たい薬が肌に触れると、アリニアの肩が微かに震えた。


「……ッ」


短い吐息が漏れる。

思わず力が入ってしまい、敏感な箇所に触れた時――小さく苦悶の表情が浮かぶ。


だが、少しずつ冷たさが和らぎ、代わりに指先の温もりが皮膚に広がっていく。


ヴェイルは黙って、手際よく塗り広げていく。

背中、脇腹、上胸部へと順に手を伸ばしながら、必要な箇所を丁寧に覆っていく。

何度か軟膏を指に取り直し、その度に呼吸を整えながら集中する。


ようやく、すべての目立つ痣に薬が行き渡ったとき――

彼は瓶をアリニアに差し出した。

視線は、どこか横を向いたまま。


「……ほら。残ってる。

胸の上の方と、下にも……自分でやったほうがいいだろ。」


声は淡々としていたが、その端にわずかな戸惑いがにじんでいた。


アリニアはその視線を見上げ、数秒の沈黙のあと――

首を横に振った。


「いいの。やって。」


疲れ切った声。

でも、それは甘えではなかった。


ヴェイルは一瞬、言葉を失う。

明らかに戸惑っていた。


アリニアは、そんな彼の様子を見て、そっと手を伸ばした。

そして、ブラジャーの裾を軽く押さえながら――


「自分じゃ届かないの。持ってるから……お願い。」


静かで、まっすぐな言葉。

その強がらない素直さに、ヴェイルはようやく頷いた。


彼は膝をつき、再び軟膏を指に取る。

アリニアの視線はそっと逸れ、背筋はわずかに緊張していた。


彼は慎重に、布の下へと手を滑らせる。

無駄な動きは一切なく、ただ必要な範囲を覆うだけ。

冷たさが一瞬肌を撫でたが、それはすぐに温もりに変わる。


沈黙の中――


「……で、どう?」


アリニアの口元に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。


「見とれてたり……しない?」


くすっと笑う声。


ヴェイルは小さく笑いながら、手を止めずに答えた。


「……いや、さすがに。前に言われたろ?“もう一度やったら爪で顔裂く”って。」


「ふふ……覚えてたのね。」


アリニアは目を細め、わずかに肩を揺らす。

だが、すぐに静けさが戻る。

薬が馴染んだ頃には、痛みは少し引き、肌の奥にじんわりとした温かさが残っていた。


「……服、手伝ってくれる?」


か細い声で頼む。


ヴェイルは無言で頷き、そっとブラを戻す。

次いで、袖に腕を通させながらローブを肩まで引き上げる。

背中の編み紐も、一つずつ注意深く締めていく。

きつすぎず、緩すぎず――彼女が少しでも楽に感じられるように。

最後にコルセットを整え、軽く押さえて固定した。


アリニアは背中をもたれ、石柱に頭を預ける。


「……この先が、本当に厳しいわね。」


小さく呟いた声は、いつもより弱々しかった。


そして、仰ぎ見るように天井を見つめ――


「無事に出られたとしても、最寄りの町までは六日。

この傷を治せる医師がいるのは……もっとずっと先。」


その現実が、冷たく、重くのしかかる。


アリニアが次の言葉を口にする前に――


ヴェイルが、そっと彼女に寄りかかった。


何の前触れもなく、彼の腕が彼女の肩をそっと抱き寄せる。

額が、首元に触れる。

息が、かすかに肌をなでた。


その瞬間、アリニアの身体がぴくりと固まる。


痛みと温もり。

心地よさと居心地の悪さ。

相反する感覚が同時に胸に広がり、思考が追いつかなくなる。


「……ごめん……何もできなかった。」


囁くような、くぐもった声。

その中には、押し殺した後悔がにじんでいた。


次の瞬間。


彼の涙が、彼女の首筋を伝って落ちた。


「……アリニアが……死んだかと思ったんだ。

あのとき……倒れてるのを見た瞬間……何も考えられなくて……怖かった。

……俺、ここで、たった一人になりたくなかった。

あんたが……俺の、唯一の……居場所なんだ。」


かすれた声が、震えていた。


アリニアは何も言わなかった。

言葉が出なかった。

ただ、その重さに息が詰まりそうだった。


そして――


そっと、呟く。


「……ちびオオカミ……近すぎる。」


小さな声だった。

けれど、確かな“素直さ”がそこにはあった。


彼女はわずかに顔を背け、視線を逸らす。

頬に浮かぶ赤みは、隠しきれなかった。


「……こういうの、慣れてないの。」


ほとんど聞こえるかどうかの声で、そう呟く。


すると、ヴェイルはすぐに身体を起こし、手をそっと離した。


「……ごめん、無理させた。」


小さな声で謝り、一歩距離を取る。

アリニアも体を向け直し、ヴェイルの顔をまっすぐ見つめた。


彼の目は、真っ赤に充血していた。

必死で平静を装っていた彼の仮面が――

今、ようやく崩れていた。


その姿が、彼女の胸に何かを残す。


自分でも説明のつかない、確かな感情を。


ゆっくりと、アリニアは彼の手を取り、自分の掌で包み込む。


「……私は、ただの人間よりは、ずっと頑丈よ。」


優しく、だが確信に満ちた声だった。


そのまま、少しだけ腕を持ち上げてみせる。


「……でも、痛みって……そういうの関係ないのね。」


皮肉気に笑いながら、手を放す。


背中をもたれ、石の柱に体を預ける。

そして、視線を伏せながら、ささやくように続けた。


「少し休みなさい。

軟膏が効いてきたら……また歩くわよ。」


その静かな言葉に、ヴェイルは無言で頷いた。

袖で頬をぬぐいながら、彼女の隣へ腰を下ろす。


冷たい岩に背を預け、しばしの沈黙が戻る。


焚き火が、ぱち……ぱち……と燃える音だけが響いていた。


やがて、二人の呼吸がゆっくりと落ち着いていく。

肩と肩が、かすかに触れる距離。

互いの体温が、そっと伝わっていく。


まるで――


互いの鼓動が、同じリズムを刻むように。


この地の底において、あまりにも稀な、静かなひととき。


けれど、それは一瞬の夢に過ぎない。


“次”は――必ず、やってくる。

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