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氷結の夜明けの果て (R16)  作者: Wolfy-UG6
プロローグ - 第3巻:ダンジョンの影 Pt.2
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第53章:目覚めの重み

静寂が部屋を支配していた。

聞こえるのは、岩肌をつたう水の音と、闇の中に差し込む冷たい風のかすかな呼吸だけ。

揺れる松明の灯りが石の壁に震える影を映し出し、床に横たわる二つの身体をぼんやりと照らしていた。


ザリ……。

わずかに、土をこするような音が響く。

ゆっくりと――アリニアが目を開けた。


胸を圧迫する重みが、彼女をすぐに現実へと引き戻す。

息をうまく吸えず、視界はまだ霞んでいる。

わずかに首を傾けた彼女の目に飛び込んできたのは、自分の胸元にうつ伏せで倒れている――


ヴェイルの姿だった。


「……ちびオオカミ……」


かすれるような、痛々しい声で呟く。


返事は、なかった。


彼の身体はぴくりとも動かず、呼吸の気配すら感じられない。

アリニアの心がぎゅっと縮み、冷たい不安が喉元までせり上がる。

だが、彼女はそれを力で押し戻すように、強く唇を噛んだ。

彼の頬には、すでに乾いた涙の跡があった。

――彼が、どれほどの苦しみと戦っていたのかを物語る、静かな証。


震える指先で、彼の頭をそっと押し返し、自分の脚の方へとずらす。

左腕はまったく感覚がなく、動かすことすらできなかった。

わずかな動作ですら激痛が走り、全身が焼けるように痛む。

それでも――

アリニアは奥歯を噛みしめ、必死に耐えた。


ゆっくりと――まるで壊れかけた人形のように、上体を起こす。

やっとのことで座る姿勢になった彼女の視線は、ヴェイルの方へと戻る。

彼の胸は、かすかに上下していた。


「何が……あったの……?」


小さく、かすれる声で呟く。

そのとき、ようやく気づいた。


彼の服の胸元には穴が開いており、その奥には、不自然な質感の傷痕が覗いていた。

左腕と右脚には裂傷が走り、じわじわと血が床へと滴っている。

暗い色の液体が、小さな水たまりを作っていた。


呼吸が浅くなる。

次に自分の身体へと視線を落とし、痛みにうずくまる感覚から、傷の広がりを察する。

震える手で、鞄の中を探る。


手にしたのは、小さなガラス瓶。

その中で赤黒い液体が、とろりと揺れていた。

アリニアはそれを歯で器用に開け、一口――いや、半分ほどを一気に飲み干す。


「……せめて、痛みくらいは……ね。」


自嘲気味に呟きながら、指先で自分の肋骨、腹部、腰を慎重に触れていく。

そのたびに顔が歪み、呼吸が乱れる。

――このままでは、自分の回復すら難しい。


けれど――


視線はすぐにヴェイルへと戻る。

今は、自分より彼の方が優先だった。


恐怖を押し殺すように、彼の肩へ手を伸ばす。

そして――そっと、揺すぶる。


「……ちびオオカミ……起きて……」


張り詰めた声が、石壁に吸い込まれる。


……反応は、ない。


背筋にぞわりとした感覚が走る。

拒絶したい現実と、直感的な恐れが心に入り混じる。

さらに強く、彼の肩に力を込めた。


「ねぇ、お願い……!」


震える指先が彼の頬に触れ、鼻先へと滑る。

わずかな息吹を――感じ取ろうと、彼女は静かに息を止めた。


……いた。

微かに、だが確かに。


彼はまだ――生きていた。


胸の奥の緊張が、少しだけ解ける。

だが、安心には程遠い。

アリニアは、再び彼を揺さぶった。

もう一度――もう少し、強く。


そのとき。


わずかに、ヴェイルが動いた。


右腕がふらりと持ち上がり、額へと触れる。

その仕草は、ひどく疲弊していたが――


確かに、彼は“目覚めつつある”のだった。


ゆっくりと、ヴェイルの瞼が開かれる。

その奥に現れたのは、痛みに霞んだ鮮やかな蒼い瞳だった。

彼は顔をしかめながら、意識を取り戻す。


「……ッ、ちくしょう……」


呻くように吐き出したその声は、かすれ混じりで弱々しい。

彼は頭を押さえながら、ふらつく体をなんとか起こす。

視界が回転し、バランスを失いそうになったそのとき――


ようやく、彼はアリニアが目を覚ましていることに気づいた。


視線が交わる。


途端に、ヴェイルの動きが止まる。


慌てて姿勢を正し、彼女の前で膝をつく――


だが、その瞬間。


左脚に走った鋭い痛みに、彼は呻き声を漏らす。

床に片手をつき、かろうじて倒れずに踏みとどまった。


「無理しないでよ、バカ……」


それでも、アリニアの口元には微かに笑みが浮かんでいた。

疲労と痛みの中でも、その瞳は彼を見て、ほんの少し和らいでいた。


だが、ヴェイルの表情は険しいままだった。

痛みよりも、心配のほうが強く――


「そっちは? 大丈夫か……?」


切迫した声に、アリニアは小さく肩をすくめる。

そして、息混じりに皮肉を吐いた。


「そうね……泳ぐにはちょうどいい気分よ。」


棘のあるユーモアだったが、彼の眉はわずかにも緩まなかった。

その視線は、軽口の奥にある“本当の状態”を見極めようとしていた。


それを感じ取ったアリニアは、すぐに真顔へと戻る。


「……何があったの、ちびオオカミ?」


沈んだ声に、ヴェイルはわずかに視線を逸らす。

そして、短く息を吐くと、自分の腕を見せた。

そこには、深く切り裂かれた傷が赤黒く口を開けていた。


「話はあとだ。今は……お前の手当てが先だ。」


低く、決意に満ちた声。

アリニアは一瞬口を開けかけたが、彼の目に込められた決意に、言葉を引っ込めた。

何を言っても無駄だと、理解していた。


ヴェイルは彼女をじっと見つめる。

その目は、明らかに疲れていた。

瞳の奥には深い疲労の影が差し、肌の色は松明の紫がかった光の下で不自然に青白い。


アリニアの胸に、かすかな痛みが走る。


「……ちびオオカミ。」


細い声でそう呟いたあと、彼女はほんのわずかに躊躇する。

けれど、このままではどうにもならないと、自分でも分かっていた。


――彼の手が、必要だ。


彼女は大きく息を吸い、そして、静かに、だが確固たる声で言った。


「……私の腕、戻して。今すぐに。」


その言葉に、ヴェイルの目が見開かれる。

まるで、いきなり拷問でも頼まれたかのような反応だった。


「はっ!? 無理だって! 俺、そんなのやったことないし……失敗したらもっと悪くなるだろ!」


明らかな動揺と怯えがにじむ声。

だが、アリニアは静かに、まっすぐ彼の目を見る。


その呼吸は乱れ、顔は苦悶に歪んでいる。

けれど、その眼差しだけは、迷いがなかった。


「このままじゃ動けない。放っておけば、もっと酷くなる。

……私はできない。だから、あんたの手が必要なの。」


言葉は静かだが、拒否を許さない力があった。


ヴェイルは唇を開いたが、反論は浮かばなかった。


逃げ道など――どこにもなかった。


彼は喉を鳴らして唾を飲み込み、奥歯を噛みしめた。


そして、ゆっくりとうなずく。


アリニアは慎重に、左腕を持ち上げる。

指先がかすかに震えながら、手のひらを上に向けるようにゆっくりと回す。

その動作ひとつで、全身に電撃のような痛みが走る。


だが、彼女は――耐えた。


「……手首を、持って。」


張り詰めた声で命じる。


ヴェイルは一瞬躊躇ったが――


その手を、そっと彼女の手首へと伸ばした。


「上腕は……自分で押さえるから。あんたは……肘を真っ直ぐに、一気に引いて。」


アリニアの声は、低く、張り詰めていた。

その瞳には、揺るぎない覚悟が宿っている。

彼女の指が力強く自分の腕を掴み、皮膚が白くなるほど強く締めつける。

――衝撃に備えているのだ。


一方、ヴェイルの背には冷や汗が伝っていた。

気が進むはずもない。

けれど、アリニアの決意を前にして、逃げ道はなかった。

歯を食いしばり、大きく息を吸う。


そして――引いた。


――ゴキィッ!!


鈍く、骨の砕けるような音が響いた。


「――ああああああっ!!」


アリニアの絶叫が、空気を切り裂いた。

その身体が硬直し、指が痙攣するように腕を締めつける。

耐え切れなかった体勢が崩れ、彼女は前のめりに倒れた。

額が床にぶつかり、荒い息が喉の奥から漏れ出す。

全身を襲う激痛に、肩がわななき、呼吸が乱れる。


「アリニアッ! 大丈夫か!? なぁ!」


ヴェイルは慌てて身を乗り出し、彼女の背に手を添える。

焦りと後悔と恐怖が入り混じった声が響いた。


アリニアはしばらく床に手をついたまま動かなかったが――

やがて、ゆっくりと体を起こす。

左腕を胸元へ抱えるように戻し、そっと肘を動かしてみる。

痛みはまだ残るが――関節は、はまっていた。


「……終わった……わね。」


搾り出すように、呟く。

息を大きく吐き出し、その顔に疲労と安堵が交錯する。


そして――


再び、視線をヴェイルへ向けた。


「止血しないと。」


左腕と右脚――どちらも、まだじわじわと血が流れていた。

アリニアは鞄に手を伸ばし、残っていた包帯を取り出す。

その数は、もはや心許ない。

戦いの果てに残ったものは、あまりにも少なすぎた。


だが――

ヴェイルに近づこうとしたその瞬間、彼が手で制止した。


「……俺がやる。無理するな。」


その言葉に、アリニアは思わず口を開いた。

だが――その声に込められた感情が、彼女を止めた。

苛立ちと……どこか、気恥ずかしさの混ざった声音。

なぜだろう、それが――

胸の奥をわずかに、かき乱した。


思考を遮るように、彼は手早く作業を始めた。

アリニアが渡した軟膏を脚に塗り、しっかりと包帯を巻く。

次に腕の処置に移り、その手つきは疲労の中でも正確だった。


全てを終えた彼は、ふっと息をついて彼女を見上げる。


「……火を起こして、少し食べよう。」


冷静な提案。

アリニアは小さくうなずくが、瞳の色が沈む。


「……最後の食糧よ。

これを食べたら、もう――何も残らない。」


その言葉は、静かに空間を重く染めた。


ヴェイルは答えず、ただ火を起こすために動き出す。

最後の薪を取り出し、火打ち石で火花を飛ばす。

乾いた枝が炎を灯し、岩壁に柔らかな明かりとぬくもりをもたらす。


彼は鞄から最後の肉片を取り出し、火の上に乗せた。


わずかな油も、こぼれないよう丁寧に扱いながら。


そして――


再びアリニアを見た。

その瞳に宿るのは、隠しようのない真剣さだった。


「……まだ、治しきれてないだろ。」


低く、落ち着いた声だったが、その響きには焦りがにじんでいた。


だが――

アリニアは視線を逸らさなかった。


「ちびオオカミ……何があったのか、話しなさい。」


その声には、普段とは違う鋭さがあった。

滅多に見せない、命令の色。


「……何も思い出せないの。

寒さだけが残ってて――そのあとは……真っ暗だった。」


息を呑むような低さで、アリニアは言った。


ヴェイルはわずかに顔をしかめ、言葉を探すように息を吸う。


「……落ちたのは覚えてるか?」


静かに尋ねたその声に、アリニアは少しだけ眉を寄せ、そして小さくうなずいた。


「……うっすらと、ね。」


その言葉のあと、二人の間に再び沈黙が落ちる。

焚き火の炎だけが、ぱちぱちと音を立てていた。


ヴェイルは黙ったまま、しばらく火を見つめていた。

――覚悟を決めるように、深く息を吸い込む。


そして――語り始めた。


彼は、すべてを話した。

いや、“ほとんど”を、だ。


アリニアが落下したあとのこと。

あの幽鬼との戦い。

怒りに任せて戦い、気を失う直前に彼女の元へと倒れ込んだこと。


だが――


語らなかった。

あの“声”も。

自分を飲み込んだ“空虚”も。

異質で冷たい、あの闇の世界のことも。


思い出すだけで、胸が押し潰されそうになる。

そして何より――彼女が、それを聞いたらどう思うかが怖かった。


アリニアは、黙って聞いていた。

一言も挟まず、ただ真剣に。

目の奥は鋭く、言葉のひとつひとつを見逃さないように。


話が終わる頃――


彼女は、ゆっくりと手を伸ばし、彼の胸に触れた。


「……この傷、何?」


指先がそっと、彼の素肌に触れる。

そこにあるのは、異様な質感の瘢痕。


ヴェイルは肩をすくめるようにして、視線を逸らした。


「わかんない……」


乾いた返事だった。

自分の手を傷跡に重ねる。

触れてみても、痛みはない。ただ、そこに“ある”。


「幽鬼にやられた時、できたんだ。

気づいたら、もう塞がってて……どうしてこうなったのかは、わからない。」


低く、かすれた声。


アリニアは目を細め、その傷をじっと見つめた。


「……自己治癒? いや、魔力の反応はなかったはず……」


独り言のように呟く。

森の中で見せた、あの時の異常な力が頭をよぎる。

――無意識に発動した、あの“何か”。


何かが――おかしい。


彼の胸は癒えているのに、他の傷は……なぜ残っている?


〈何を隠してるの……ちびオオカミ〉


そう心の中で呟く。

だが、その問いは口には出さなかった。


ヴェイルは焚き火の方へ顔を向ける。

肉の焼ける匂いが、ようやく空気に広がる。

飢えた身体には重く、鋭く感じられる香り。


彼は一切れの肉を取り、脂が滴るそれをナイフで半分に切る。

一方をアリニアへ差し出し、残りを自分の口に運んだ。

無言で噛み締めるその動きには、疲労と空腹が滲んでいた。


「まずは、食べよう。

それから、お前の傷の手当てをする。」


そう言って、少しだけ微笑んだ。


アリニアはしばし躊躇したが、黙って肉を受け取る。

彼の目が、何を言っても聞かないことを告げていたから。


今は――ただ、体力を取り戻すことが先だった。

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