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氷結の夜明けの果て (R16)  作者: Wolfy-UG6
プロローグ - 第3巻:ダンジョンの影 Pt.2
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第52章:刃の延長

足元が震えていた。


ヴェイルは身を低くし、両腕を広げてバランスを取る。

だが、揺れは次第に強まり、ついには立っているのも難しくなった。


そして――


突然、すべてが静まった。

空間を支配するような、重たい沈黙。

だがヴェイルは知っていた。

この静けさは、“嵐の前”だということを。


次の瞬間、床の裂け目から――

黒い煙が漏れ出した。

最初は、薄く、透き通るような靄。


だがすぐに、濃く、重く、

まるで液体のような黒霧となって、

空間を覆っていった。


「っ……!」


地面が、激しく揺れた。

足元が崩れ、ヴェイルは片膝をつく。


その間にも、黒霧は広がり続け、

視界をすべて飲み込んでいく。


――見えない。


何も。

どこが壁か、どこが敵か、何もわからない。

背中を冷たい汗がつたう。

このまま、止まっているわけにはいかない。


ヴェイルは立ち上がろうとし、

周囲を必死に探ろうとした。


そのとき――


それは現れた。


黒い海から、這い出すように。


――無数の“手”。


地面の亀裂から、影の手が現れた。


ゆっくりと空へと伸び、

まるで水中を漂うように蠢いている。


指先が震え、何かを求めるように蠢動する。

確実に、“こちら”を狙っていた。


「……なんなんだよ、これ……」


言葉が漏れる。思考が回る。

ここに留まっていれば、間違いなく取り込まれる。


――風、だ。


彼は思い出した。

あのときスペクトルを押し返した、冷気を帯びた風。


すぐさま短剣を鞘に収め、両手を構える。

魔力を集中させる。


無駄撃ちはできない。

一発きり。狙いを誤れば、終わりだ。


近づいてくる。


影の手が、空間を這うようにして迫ってくる。

息が白くなる。

温度が――下がってきている。


スペクトルが近い。

この霧の中に、確実にいる。


そのとき。


「っ……!」


身体を走る、寒気。

それが合図だった。


「いけぇぇぇッ!!」


ヴェイルは魔力を一気に解放した。


ドォン!!


爆発するような風が四方へと広がる。


凄まじい風圧が渦を巻き、

周囲の黒霧を切り裂いていく。


砂埃が巻き上がり、

影の手が風に煽られて翻弄される。


一番近かった影が、風に呑まれた。


「……っ!」


凍った。


黒い指先が、ピタリと動きを止めたかと思えば、

それは瞬く間に氷結し――


パリンッ!


砕けた。

氷のように、空中で砕け散った。


次々と凍る。

次々と砕ける。

その瞬間――


「ギィィアアアアアアッ!!」


地の底から響くような悲鳴が上がった。


凍てつく絶叫。

痛みのこもった、獣のような咆哮。


――効いている。


ヴェイルは拳を握りしめた。

確かに、ダメージは通っている。


だが――それも束の間だった。


次の瞬間、裂け目から黒煙が噴き出す。

空間を埋め尽くすように、濃密な闇があふれ出す。


スペクトルが、姿を現した。


その身体は不規則に波打ち、

赤い眼光が二本の細い線となってヴェイルを貫く。


激怒しているのが、明らかだった。

闇が震え、空気が唸る。


「……来るか……!」


ヴェイルは短剣を構えた。

だが――息が荒い。

胸が上下し、喉が焼けるようだった。

身体は回復しても、魔力は――限界に近い。


ここで決めるしかない。

これ以上、引き延ばせば――もたない。


スペクトルは、猶予を与えなかった。


――パンッ! パンッ! パンッ!


三つの鋭い音。


ヴェイルはとっさに横へ飛ぶ。

空を裂くように三本の影の刃が飛来した。


地を転がりながら、そのうちの一つが肩をかすめる。

冷たい風が皮膚をなぞるように通り過ぎ――


振り向いた時には、もう影の姿は消えていた。


「……逃げてばかりかよ……」


低くうなりながら、ヴェイルは短剣を握り直す。

闇が揺れる。流れる。まるで液体のように。


――ドクン。


鈍い鼓動のような振動。

その直後、スペクトルが姿を現す。


だが、ヴェイルは動じなかった。

今度は――読んでいた。


「……今度はこっちの番だ」


影が現れた瞬間、彼は足元に魔力を集中させ――

爆風のように風を解き放つ。

その勢いで身を逸らし、影の刃をかわす。

斬撃は、ほんの一秒前まで彼がいた場所を貫いた。


心臓が激しく脈打つ。

呼吸が荒い。

このまま回避を繰り返していても、いつか限界が来る。


倒すしかない。

先に、こちらから仕掛けるしか。


――どうやって?


ヴェイルは視線を上げ、

スペクトルの“顔”ともいえる暗闇を見つめた。


そこに浮かぶ、赤い光。

異様な輝きと圧力を放つ、その目。

なぜかわからない。

だが――そこだ。


〈あそこが……弱点だ〉


直感がそう叫んでいた。


ならば、選択肢は一つ。

逃げない。

かわさない。


――先に、仕留める。


「……もし、魔力を放てるなら……」


短く息を吐きながら、ヴェイルは囁く。


「刃に、纏わせることもできるはずだ……」


未知の領域だった。

だが、もう後がない。


すべてを賭ける時だ。


彼は意図的に、力を抜いた。

肩を落とし、わざと隙を見せる。

意識が散っているかのように振る舞い、油断を誘う。


――来い。


スペクトルが、反応した。

鋭い金属音のような音と共に、影の刃が再び放たれる。


ヴェイルは寸前でそれを回避。

だが今度は、敵の姿が消えなかった。


「っ……何か企んでやがる……」


地面に突き立った影の刃。

それが――沈んでいく。

黒い亀裂の中へと、ゆっくりと。


ヴェイルは理解した。


〈来る……!〉


地面が――爆ぜた。


「……ッ!」


足元から、槍のように鋭い影が突き上がる。


ヴェイルはとっさに魔力を解放。

足元に突風を起こして身体を浮かせる。


ギリギリで影を避ける――


だが、足がふらつく。


魔力の消費が激しすぎる。


息が続かない。

手が震える。


けれど――


(ここで、終わらせる……!)


短剣を構え直す。

狙うは、正面。

奴の“目”。

そこに、全魔力を――


……だが。


スペクトルは読んでいた。


黒い波が広がる。

そして、現れたのは――刃ではなかった。


――手。


三本の幽鬼のような手が、ヴェイルに向かって飛び出してきた。


その狙いは――

捕らえること。


影が、消えた。


そして、次の瞬間――

目の前に現れた。


「――っ!」


ヴェイルの呼吸が止まる。


……来る。


今こそ――


避けてはならない。


スペクトルの紅い瞳が、真っ直ぐに彼を射抜いた。


――パンッ!


鋭い音と共に、刃が振り下ろされる。


だが――


ヴェイルは、動かなかった。


右手に握った短剣へ、全魔力を流し込む。


「……ッ!」


刃の周囲に冷気が走る。

魔力が伸びる。風が巻く。


その力は、刃の先端を越えて、空間へと“延長”された。


時間が――遅くなる。


……だが、痛みは現実だった。


「ぐ、ああああッ!!」


叫びが漏れる。

影の刃が、彼の身体を貫いた。

左腕と、右脚。

肉を裂く冷気の衝撃が、全身を駆け抜ける。


だが、彼は――離さなかった。


痛みも、血も、焼けるような苦痛も。

すべてを押し殺し――

ただ、魔力を――放つ。


風が震える。

空間が揺れる。


「はあああああああッ!!」


刹那、風の閃光が走る。


それは刃から伸びた風の槍。

まっすぐに、スペクトルの右目を――


貫いた。


「ギィイアアアアアアアッ!!」


絶叫。


空間が揺れ、重圧が襲いかかる。


吹き荒れる衝撃が塵を巻き上げ、

空気が震える。


スペクトルのフードの中――

その暗闇が、凍りつき始めた。


「……ふっ、ざまぁ……」


呻きながらも、ヴェイルは踏みとどまる。


影の身体が、もがく。

氷を吐き出そうと必死に揺れる。


だが、遅かった。


黒い霧が――凍り始める。

触れた瞬間、細かな氷片となって崩れていく。

まるで闇そのものが砕けるように――


パリ……パリン……パリンッ!!


影の肉体が崩壊していく。


咆哮が、悲鳴に変わる。

怒りと苦痛が混じった、耳を裂く絶叫。

だが、それもすぐに消えていった。


スペクトルは後退した。

逃げようとした。

だが、もうどこにも逃げ場はなかった。


その姿に、亀裂が走る。


闇の装いが崩れ落ち、

影の身体が、瓦解していく。


ヴェイルは、動かなかった。

魔力の流れを止めず、刃を握り続ける。

呼吸は乱れ、身体は限界を訴えていた。

だが、止めなかった。


――あんな奴に。


――アリニアにしたこと。


――自分にしたこと。


……許すはずがない。


苦しめ。


終わりまで――苦しめ。


時が止まったような静寂。


そして――


「……ギッ……ア、ア……」


最後の、かすれた悲鳴。

スペクトルの身体が――砕けた。


黒い霧が、一斉に凍結し、

無数の氷片となって、空から降り注いだ。


――チリ……チリチリ……


紫の炎が、その氷片を照らし、きらめかせる。


スペクトルは――


倒された。


ヴェイルは、刃を下ろさなかった。


まだ、魔力を流し続けていた。


肩で荒く息をし、身体は震え、

血が滴っていた。


だが――


それでも、手を緩めなかった。


もうそこには、敵の影も、気配もなかった。

床には砕けた氷の破片。

吹き溜まりのように渦を巻く霧の名残。


それでも、彼の身体は信じようとしなかった。


戦いが終わったと――


心が、まだ信じていなかった。


魔力は、止まらなかった。


流れは制御を失い、枯渇寸前の身体から無理やり絞り出されていく。


短剣は手の中で震え、

呼吸は途切れ途切れに空気をかすめ、

意識は遠のいていく。


視界が揺れ、霞んだ。


……限界だった。


やがて、空気が静まり返る。


魔力の奔流が収まり、

ようやく、その身体は動きを止めた。


「……っ」


足が、崩れた。

そのまま、膝をつき、身体が崩れ落ちる。

もう、何も残っていなかった。


それでも、ヴェイルの目は――

アリニアだけを見つめていた。


「……アリニア……?」


震える声。

かすれた囁き。

返事は――なかった。


全身が凍りつくような感覚。

脳裏に走る、嫌な予感。


「頼む……起きてくれ……」


ヴェイルは、痛む身体に鞭を打ち、立ち上がろうとする。


脚が震える。

すぐに崩れ落ちそうになる。


それでも、前へ。


「……っ、動け……!」


視界が滲む。

涙か、疲労か。

もはやわからない。


「嘘だろ……そんなの……やめてくれよ……」


何度も繰り返す。

そうじゃないと、心が壊れてしまいそうで――


彼女はそこにいた。

確かに。

手が届く距離に。

なのに、動かない。


「アリニア……!」


震える足で、もつれながら進む。

だが、もう身体は限界を超えていた。

バランスを失い――


ドサッ。


床に崩れ落ちた。

乾いた呻き声が漏れる。

それでも、ヴェイルは――

起き上がった。


柱に手をつき、冷たい石に指を喰い込ませながら、無理やり身体を引き上げる。


「まだだ……終わってない……!」


一歩。


また一歩。


ふらつきながら、転びながら、進む。


ただ一つの答えを求めて――


そして、ようやく。

彼女のもとに、たどり着いた。


膝をつき、手を伸ばす。


「なあ……頼むよ……」


震える声。

かすれた息。

胸の奥からこみ上げる絶望に、喉がつまる。


「……今じゃない……」


頭を、そっと彼女の額に寄せる。

その瞬間――


「……っ」


感じた。

かすかに。

ほんの、わずかに――


呼吸が、あった。


息が止まる。

目を見開いたまま、動けなくなる。


――もう一度。


……あった。


「……生きてる……!」


力が抜けた。

安堵と共に、喉から笑いがこぼれる。


「……よかった……本当に……」


肩が落ちる。

重みが、すべて抜けていく。


だが同時に、自分の身体も崩れ始める。


もう、限界だった。


額を、彼女の肩に預けたまま――

意識が、ゆっくりと落ちていく。


呼吸が浅くなる。

瞼が重くなる。

そして――


胸の奥で、微かに響いた。


――ドクン。


最後の鼓動。

まだそこにある。

生きているという、証。


口元に、かすかな笑みが浮かぶ。

それが――

彼の最後の意識だった。


そして、闇がすべてを包む。

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