第48章:堕ちた者たちの叫び
幾度もアルコーヴを飛び移りながら、ヴェイルはついに——
部屋の奥、ただ一つだけ彫られた“顔”の前にたどり着いた。
他の壁とは違う、孤立した空間。
その石面だけが、まるで“意味”を持っているかのように、そこに存在していた。
近づいたその瞬間——
微かに漂っていた光が、ふっと掻き消える。
「……っ」
ぞわり、と背筋を冷気が這う。
顔が、目を開いた。
そして——ヴェイルを、じっと見つめてきた。
その瞬間。
今まで鳴り響いていた矢の射出音も、空気の緊張も、すべてが止まった。
まるで何かが、彼の到達を“合図”にしたかのように。
だが、終わったわけではない。
出口はどこにもない。暗闇に包まれたまま、何も変わっていなかった。
息を呑み、ヴェイルは辺りを見回す。
そのとき——
「……たすけ…… みんな…… しっぱい…… おれ…… ころす…… さいご…… あと…… のこり……」
誰かの“声”が、耳の奥に響いた。
掠れていて、途切れ途切れで、はっきりとは聞き取れない。
それでも——いくつかの言葉だけは、確かに届いた。
〈助けて……皆……失敗……俺……殺す……最後……あと……残り……〉
ヴェイルは息を止める。
ぞくりと背中が強張った。
——この“顔”たち、本当に生きているのか?
人間だったのか?
急いで後ろを振り返り、叫ぶ。
「アリニアッ! 今、声が聞こえた!! 断片的だけど……何かを訴えてた!」
アリニアは彼を見据え、静かに頷いた。
その瞳には、疑念と警戒が色濃く宿っている。
「……私には聞こえない。けど……あんたが言うなら、無視はできない。」
慎重に一歩、アルコーヴから外へ出る。
全身に沈黙がまとわりつく。
矢は——飛んでこなかった。
罠も——動かない。
すべてが、止まっている。
まるでこの空間が“息を潜めている”ような、そんな緊張が漂っていた。
アリニアはヴェイルの方を見やり、短く言い放つ。
「……壁の顔、全部壊すわよ。」
迷いはなかった。
彼女はすぐさま爪を伸ばし、ヴェイルも短剣を抜く。
一斉に、手近な顔を破壊する。
——ズバッ!!
石に刃が沈む感触は、妙だった。
本来なら硬質であるはずの石が——
柔らかく、どこか“肉”のような感触を持っていた。
抵抗はほとんどない。むしろ、吸い込まれるように刃が沈む。
そして——
「ギィィィアアアアアアアッ!!」
空間が揺れるほどの、凶悪な悲鳴。
さっきまでの叫びとは比べものにならない“重さ”と“深さ”があった。
だが、矢は飛ばなかった。
代わりに——
「……ッ!」
足元から、重々しい音が響く。
地面が、割れ始めていた。
石畳に走る亀裂が、ゆっくりと広がっていく。
ヴェイルとアリニアは反射的に耳を塞ぐ。
だが、アリニアだけはその轟音の中でも状況を察していた。
「ちびオオカミ!! 全部壊せ!! 急いで!!」
叫ぶ声は、振動にかき消されそうだった。
「な、なんでだよ!? なんで壊せって——!?」
「いいから今すぐやれッ!! 説明は後!!」
迷いのない命令。
その叫びに従うより他なかった。
だが、次の瞬間——
「アリニア、後ろッ!!」
ヴェイルの視線が、彼女の背後に釘付けになる。
立ち上る砂塵。
地面が落ちていく。
アルコーヴの下が、黒い奈落へと崩れ始めていた。
「くそっ……!」
アリニアは歯を食いしばり、次の顔へと爪を振るう。
——ガリッ!
——ギィィィ!!
破壊するたびに、また一つ、地面が割れていく。
それでも、やるしかなかった。
悲鳴。振動。意識を揺るがす音の嵐。
ヴェイルも必死だった。
荒い息を吐きながら、ひたすら顔を砕く。
一つ、また一つ——
八体目を叩き割ったところで、残りは——
あと、二つ。
床の崩壊は止まらない。
地面が砕ける音が、アリニアの足元に迫る。
一歩踏み出そうとした瞬間——
裏切るように走った亀裂が、彼女の足をすくった。
「くっ……!」
膝をつく。
崩れ落ちる床。瓦解の気配が、すぐ背後に迫っていた。
そのとき——
アリニアの視線が、自然とヴェイルに向く。
言葉のない“呼びかけ”。
彼女が求めていたのは、判断でも命令でもない。
ただ、支え。
そして、彼は——すでに動いていた。
「っ……!」
最後の顔へ向かって跳躍する。
その中心に、短剣を深く突き刺した。
——ゴゴォォォン……!
鈍く、低く、重い音が空間全体に響く。
それは、叫びではなかった。
怒号でも、悲鳴でもない。
……命令だった。
全てを沈黙させる、“絶対の命令”。
瞬間、音が——消えた。
崩壊も、叫びも、罠も、すべてが止まる。
だが。
頭の中では、なおもあの声が鳴り響いていた。
鼓膜ではなく、“意識”そのものに刺さる音。
止まらない。消えない。
その重圧が、二人を締めつけていた。
そして——
それは、突如として現れる。
今までの壊れた囁きとは違う。
はっきりと、明瞭に、穏やかに。
「……ありがとう。あなたたちは……私たちを解放してくれた。
苦しみは、終わった。
ようやく……安らかに、旅立てる……」
静かで、優しい声。
だが、その言葉は——
ヴェイルの全身から、血の気を奪った。
息が詰まる。
視界が歪み、めまいが走る。
脚から力が抜け、膝をつく。
〈……安らかに旅立つ……?〉
震える視線が、アリニアを探す。
ようやく立ち上がったばかりの彼女が、すぐに気づいて駆け寄る。
「ヴェイル!? どうしたの!?」
膝をついた彼の傍らにしゃがみ込み、その顔を覗き込む。
アリニアの額には、疲労の汗が滲んでいた。
「……“ありがとう”って、言われたんだ……」
ヴェイルの声は、かすれていた。
泣き出しそうなほど、弱々しい。
「……解放してくれた、って……やっと安らげるって……」
震える手を胸に当てながら、彼は続けた。
「……俺たち、あの壁に閉じ込められてた人間を、殺したんじゃないのか……?」
その言葉に、アリニアの動きが止まる。
彼の手を握り、顔を上げさせようとするが——彼は、動かなかった。
「ねえ……見て。」
アリニアが囁くように言う。
ヴェイルは、重い頭を持ち上げた。
彼女の視線の先——
そこにあったのは、普通の壁だった。
割れたはずの床は——
元に戻っている。
顔が刻まれていたはずの壁も——
ただの石。
一つとして、異形の痕跡は残っていなかった。
罠も、穴も、声もない。
何も、なかった。
まるで——最初から、すべてが幻だったかのように。
「……幻覚……だったのか……?」
ヴェイルが呟く。
混乱の中で、その言葉にすがるように。
だが、アリニアは首を横に振った。
その表情は、決して肯定ではなかった。
「……わからない。でも、私も見た。
顔も、叫びも……すべて、確かにそこにあった。」
その言葉に、ヴェイルは黙って頷くしかなかった。
アリニアはそっと壁にもたれ、手を差し出す。
「……立てる?」
彼は無言で頷き、その手を取る。
ゆっくりと立ち上がるその足取りには、まだ迷いが残っていた。
彼の視線は、自然とある一点へと向かう。
——最後の“顔”があった場所。
そこには、もう何もなかった。
だが、彼の記憶には——あの声が、まだこだましていた。
だが——
そこにはもう、何もなかった。
残されていたのは、壁に突き刺さったままの短剣だけ。
それは、石壁に埋め込まれた一つの“突起”を貫いていた。
ヴェイルは眉をひそめる。
まるで最初から顔など存在せず、この仕掛けを隠すための“幻”だったかのようだ。
だが、それなら——
「……この傷は……?」
彼は視線を落とし、迷いながらもアリニアに巻かれた包帯をほどく。
黒く焦げ、煙を立てていたはずの傷跡は——
……消えていた。
まったくの無傷。跡すら残っていない。
「……っ!」
思わず小さく肩を震わせ、すぐさまアリニアに脚を見せる。
「見てくれ……これ。」
アリニアが近寄り、目を細めて傷口を確認する。
確かに、彼女自身の手で手当てしたはずだ。
あの異常な瘴気も、確かにあった。
だが今——そこには何一つ残っていない。
「……あり得ない。」
静かに、しかし真剣な声で呟く。
だがその思考を中断するように——
ゴゴッ……ギギィ……
低く、鈍い音が回廊の奥から響いた。
壁の一部が、ゆっくりと動き始める。
石が擦れ合い、奥へと新たな道が開かれていく。
そこに現れたのは——
またしても、螺旋階段。
いつもと同じように、下へと続く道。
だが、今回は違っていた。
その階段の手前——
中央に、小さな石の台座が置かれていた。
その天面には、明らかに“何かをはめ込むため”のくぼみ。
形も、大きさも、明確すぎる。
ヴェイルとアリニアは慎重に近づき、その台座を見つめる。
「……今までの階層には、こんなのなかったよな。」
ヴェイルが低く呟く。
アリニアはすぐに答えず、じっとその彫り込みを見つめていた。
やがて——
瞳が大きく見開かれる。
「……審判の神殿を、覚えてる?」
重い声。
それだけで、ヴェイルの心に冷たい記憶が蘇る。
「……ああ。できれば忘れたかったけど……なんで?」
アリニアの視線を辿り——
彼も、その“形”に気づいた。
「っ……まさか……!」
そのくぼみは、あの神殿で使われた“箱”と、完璧に一致していた。
消えてしまった、あの試練の鍵。
「これって……つまり……」
喉が詰まる。
胃が軋むような不安が広がる。
「……箱がなければ、先に進むのは……もっと難しくなるってことか?」
重く、呟くような問い。
アリニアは少し黙ってから、短く吐息を漏らす。
「……わからない。でも、ここが“箱”を待っていたのなら……
たぶん、私たちは何か……取り返しのつかないものを失った。」
静かな確信。
感情を抑えた口調の裏に、深い悔しさが滲んでいた。
二人の間に、重い沈黙が落ちる。
アリニアの身体には、疲労が色濃く現れていた。
だが——まだ終わっていない。
むしろ、ここからが本番かもしれなかった。
アリニアは目を閉じ、しばし呼吸を整える。
ヴェイルは、まだ台座を見つめていた。
鼓動が止まりそうなほどに、胸が騒ぐ。
あの湖の戦いでさえ、すでに限界のように思えた。
だが、もし——
もし、それすらも“序章”にすぎないのだとしたら。
そして、彼の脳裏に浮かぶのは——
あの神殿で語られた、あの女の言葉。
〈本当の試練は、まだ始まっていない〉




