第47章:呪われし回廊
焚き火のパチパチという音だけが、会話の終わった空間に残っていた。
アリニアの荷物を乾かす火は、まだ静かに燃え続けている。
ゆっくりと、時間だけが過ぎていった。
ヴェイルは岩にもたれかかりながら、静けさの中で体力を回復させていた。
アリニアもまた、目を閉じていたが——
その耳は微かに震えており、完全に警戒を解いたわけではなかった。
やがて、彼女は静かに目を開け、ヴェイルの肩に軽く手を置いた。
「行くわよ。ここを早く抜けた方がいい。」
落ち着いた、けれど芯のある声。
アリニアは火で温められたタイツを穿き、ブーツを履き直す。
ヴェイルは焚き火を丁寧に消しながら、その様子を見ていたが——
彼女が立ち上がった瞬間、わずかなぐらつきに気づく。
制御された顔の奥に、抑え込んだ痛みの色がにじんでいた。
「……本当に大丈夫か?」
ヴェイルの声には、隠せないほどの心配が滲んでいた。
だがアリニアは、迷いもなく首を縦に振る。
「平気よ。」
短く、静かに。
けれど、その足取りは重かった。
変身の代償は、彼女が思っている以上に深く体を蝕んでいる。
ヴェイルは自然と彼女の隣に立つ。
何かあったとき、すぐ支えられるように——それは本能的な行動だった。
二人は周囲を見渡しながら、瓦礫の中に一つの“空間”を見つける。
無言で開いたような裂け目。音もなく、そこだけ岩が避けられていた。
「……こんなの、前からあったか?」
ヴェイルが眉をひそめながら問う。
アリニアはしばらく目を細めて観察した後、静かに答えた。
「……いいえ。見た覚えはない。」
それだけで、十分だった。
互いに交わした一瞥が、このダンジョンが“変化している”という確信を共有する。
言葉もなく、二人はその裂け目を通り抜ける。
現れたのは、螺旋階段だった。
降りていくたび、戦場の光は遠ざかり、暗闇が二人を包んでいく。
やがて、その先に一枚の大きな扉が現れる。
すでに開かれており、その先には——
まっすぐで、果ての見えない回廊が続いていた。
薄暗い煉瓦造りの壁は、年月に削られ色褪せている。
湿った石の匂いが空気に漂い、すべての音を吸い込むような静寂が支配していた。
アリニアは周囲を一瞥し、先へと歩き出す。
ヴェイルがその後を静かに追う。
「……気を抜かないで。」
低く、しかし鋭く響く警告。
ヴェイルは彼女を横目に見る。
気になるのは、この回廊よりも——アリニアその人だった。
彼女の歩幅は、ごくわずかに乱れていた。
必死に平静を装っているが、体には疲労の影が滲んでいる。
均衡を保つための動作が、どこかぎこちない。
やがて、回廊の両側に、奇妙な“異物”が見え始める。
壁に直接彫られた顔——
まるで生きた人間の表情を、そのまま石に写し取ったかのような精密さ。
閉じた目。綺麗に形取られた口元。どれも、個性を持っているようにすら感じられる。
ヴェイルの背筋を、ぞくりとした冷気が這い上がる。
だが、それだけでは終わらなかった。
回廊の途中から、両側に定間隔で空間が現れ始める。
奥の見えない暗い“くぼみ”。
まるで何かが、そこに潜んでいるかのように。
さらに歩みを進めようとしたとき——
アリニアが静かに手を伸ばし、ヴェイルの胸を押さえる。
「……見て。」
囁くような声。警戒の色が強く滲んでいた。
アリニアは指を差した。
床。天井。そして壁。
ヴェイルが目を細めて見つめると——そこにあったのは、
無数の穴だった。
細く、まっすぐに並んだ小さな孔。
位置があまりに正確すぎる。自然にできたとは思えない。
罠だ。
本能でそう察したヴェイルは、壁際に寄りながら慎重に進むアリニアの背を追う。
一歩、一歩。呼吸さえ抑えながら進んでいた、そのとき——
カチリ。
機械的な音が、静寂を裂く。
直後、空気が鋭く裂けた。
「っ、クソッ!!」
ヴェイルが叫び、反射的に身を投げる。
刹那、黒い矢が彼の横を通り抜け、壁に突き刺さる。
いや——
突き刺さったのは、“顔”だった。
あの石に刻まれた顔の一つに、矢が命中したのだ。
ヒビが走り、石が割れる。
次の瞬間——
「ギィィィィアアアアアアッ!!!」
耳を裂くような、異様な悲鳴が響き渡った。
それは、人間とは思えない叫び。
猛獣でもない。魔物ですらない。理解不能な、ねじれた声。
ヴェイルもアリニアも、思わず耳を塞ぐ。
だが——もう遅かった。
叫びは意識を掻き乱し、集中を打ち砕く。
ただの音ではない。“精神”を狙った攻撃のようだった。
混乱の中、第二の矢が飛来する。
気づけなかった。
それはヴェイルの脚をかすめ、鋭い痛みが彼の神経を走る。
「……ッ!」
呻き声を漏らしながら、アリニアの手を掴んで引き寄せる。
「逃げるぞッ!!」
躊躇なく駆け出す。
痛みを無視しながら、近くの凹みに飛び込む。
狭いが、あの異音から逃れるには十分だった。
やがて、叫びは遠ざかり、音が消える。
だが——
痛みだけは、消えなかった。
ヴェイルは顔をしかめ、脚に手をやる。
焼けるような感覚が、脈打つように襲ってくる。
アリニアがようやく耳から手を外し、彼の様子に目を向けた。
そして、視線は傷口へと移る。
しゃがみ込み、素早く確認。
「……ちっ。」
低く唸る声。
傷は浅かったが、そこから黒い煙が立ち上っていた。
ねっとりと、蛇のように蠢く瘴気。
これは——毒だ。しかも、尋常なものではない。
アリニアは迷わず腰のポーチから軟膏と包帯を取り出す。
素早く、しかしどこかぎこちない動きで手当を始めた。
包帯をしっかりと巻き終え、彼女は顔を上げる。
「……動ける?」
静かだが、明確な緊張が漂う声。
「……燃えるように痛いけど、まだ歩けるさ。」
ヴェイルは苦笑まじりに応じながら、彼女の手元に目を落とす。
違和感があった。
「……でも、それより……お前の方が大丈夫か?」
眉をひそめながら問いかける。
アリニアは一瞬、目を細めた。
「……震えてる。いつもなら、あんなに正確に動けるのに……今日は、手が鈍い。」
ヴェイルの言葉に、彼女はわずかに苦笑しながら包帯をもう一度締め直す。
返事はなかった。
だが、それこそが答えだった。
やがて、アリニアは立ち上がり、再び回廊の奥を見据える。
「……ちびオオカミ、ちょっと来て。」
低く、警戒に満ちた声。
ヴェイルも立ち上がり、彼女の視線の先を見る。
——変わっていた。
壁の“顔”たち。
すべての目が、開かれていた。
それだけじゃない。
口も動いていた。
音は出ていない。けれど、確かに何かを“喋っている”。
無音の囁きが、空間全体を支配していた。
まるで、生きているかのように。
ヴェイルの背筋を、冷たいものが這い上がった。
目の前の“顔”たちが、わずかに動いている。
石の硬さは、もはやそこにはなかった。
その輪郭は微かに揺れ、まるでゴムのように——
生きているかのように、変形していた。
「……これ、本当に“人間”だったりしないよな?」
動揺を隠せず、ヴェイルが呟く。
荒唐無稽な想像——だが、この光景を前にして、否定する理由もなかった。
「……わからない。でも、もしそうなら……気味が悪すぎる。」
アリニアは低く答えながら、腕を組む。
その視線は、なおも壁に張り付いていた。
「誰が……こんなことを……」
小さな声で、ぽつりと漏れる。
その響きには、人間としての本能的な拒絶と嫌悪が混ざっていた。
「こんなの、正気のやることじゃない……」
言葉の後に、沈黙が落ちた。
どちらも、ただじっとこの異様な空間を見つめていた。
ふと、アリニアが目を細める。
遠く、回廊の奥——
闇の先に、淡い光が浮かんでいた。
「……あれは……?」
そっと一歩、足を前に出す。
身体がほんの少し、アルコーヴから外へ——
その瞬間。
ズラリ。
全ての“顔”が、一斉に彼女へと視線を向けた。
「ッ……!」
血の気が引く。
アリニアは即座に足を引っ込め、全身を硬直させる。
その瞳に宿るのは、明確な“殺意”への警戒。
「……ダメ。今のは……完全にアウト。」
低く、鋭い声で言い捨てる。
ヴェイルも目を見開き、壁を見つめる。
そこにあるのは、動かぬ石の顔たち——
だが、そのすべてが、こちらを凝視していた。
「俺が行くよ。」
ヴェイルの声は静かだったが、迷いはなかった。
アリニアは振り向き、驚いたように彼を見つめる。
「……何言って——」
「風を使えば、一気に次のアルコーヴまで飛べる。
タイミングさえ合えば、当たらずに済むかもしれない。」
淡々とした口調。
だが、その内側には、確かな決意があった。
アリニアの直感が警鐘を鳴らしていた。
“やめておけ”と。
だが——彼女の足では、今の速度に耐えられない。
事実として、彼女はもう全力では動けないのだ。
その現実が、言葉を奪った。
アリニアは目を伏せ、そして静かに頷いた。
「……無理しないで。あんたの傷、普通じゃないわ。」
「心配すんなって。こんな状況でも、あんたと一緒にここまで来たんだ。
それだけで、俺はもう十分にタフだろ?」
ヴェイルの軽口に、アリニアはわずかに苦笑した。
そして——
彼は一歩下がり、深く息を吸い込む。
足元に力を込め、風の魔力を集中させた。
「行くぞ……!」
——ボンッ!!
足元から風が爆ぜ、ヴェイルの体が空中へと弾け飛ぶ。
即座に、壁のあちこちから矢の音。
——シュバッ!
空気が裂ける。
何本もの黒い矢が、一直線に彼を狙って放たれる。
「くっ……!」
空中で体をひねり、再び風を蹴る。
二度目の魔力解放で軌道をずらす。
すれすれで回避——
矢の一つがコートの端を裂き、小さな布片が宙を舞う。
——ドンッ!
次のアルコーヴに転がり込むように着地。
壁に体を預け、荒く息をつく。
「……っはぁ……はぁ……マジかよ……」
息を整えながら、ヴェイルは顔を上げる。
その視線の先には、まだ彼女がいた。
アリニアは、無言で彼を見つめていた。
分析するように、冷静に。そして、確実に。
この回廊は——
容易には、通してくれない。




