第46章:忘却の残響
ヴェイルは深く息を吸い込み、
アリニアに目を向けて、ゆっくりと口を開いた。
「……問題はさ、何を話せばいいのか、自分でもわからないんだ。
全部がぼやけてて……曖昧で、黒い。」
戸惑いを滲ませながら、正直に打ち明ける。
アリニアは静かに彼を見つめていた。
その瞳は優しく、観察するようでもあり、受け止めるようでもあった。
彼の姿勢――緊張した肩、落ち着かない目。
記憶の糸を必死にたぐり寄せようとする苦悩が、はっきりと現れていた。
そして、彼女の声がやわらかく響く。
「無理に思い出そうとしなくていい。
見えるものでも、感じたことでもいいから……聞かせて。」
その一言に、ヴェイルの肩から少しだけ力が抜けた。
彼は黙ったまま数秒間目を閉じ――
再び、静かに語り始めた。
「……何も見えない。
でも、感じるんだ。あたたかさ……白い光……それから、水。」
遠くを見つめるような目で、ゆっくり言葉を選ぶ。
「水が流れてる音……心地いいんだ。でも、すごく、疲れてる。」
そこまで言ったところで、彼は眉をひそめた。
なにかを思い出しかけているような――
それが指の間からこぼれ落ちるような、そんな表情。
「なにかを掴もうとしてる。でも……手が届かない。
拾いたいのに……遠ざかっていく。」
かすかに震えた声に、アリニアがそっと問いかける。
「……それが何か、思い出せる?」
「……わからない。
でも、大事なものだった気がする。すごく……大事で、
でも、届かない。」
苦い声。
その口元がわずかに歪み、目が揺れる。
「それから――落ちる。
頭に……すごい衝撃が走って……」
彼の声はかすれ、呼吸が少し荒くなる。
喉がつまるように言葉が止まり、
それでも彼は、続けた。
「……なにかが流れてる。熱い。赤い。全部を包んでいく。」
そう呟きながら、彼はそっと頭のてっぺんを指さした。
アリニアの眉がかすかに寄る。
「……それって、血?」
問いかけた声は、柔らかいがはっきりしていた。
ヴェイルは少しの間沈黙し――そして、小さく答える。
「……わからない。でも、そのあと――真っ暗になった。」
呼吸が速くなる。
彼の手が微かに震えているのを、アリニアは見逃さなかった。
「……空っぽに飲まれそうだった。
地面がなくなるような感覚……落ち続けてるみたいな……」
ヴェイルの声が細くなる。
すると――
アリニアは、ゆっくりと彼の両手を取り、自分の手で包み込んだ。
その動作に、強さはなかった。
だが、確かな温かさがあった。
「……もう大丈夫。今はここにいる。私のそばに。
あんたはもう、ちゃんと“ここ”にいる。」
その言葉に、ヴェイルは彼女を見上げた。
そして――
かすかに笑みを浮かべた。
だが、それはどこか引きつった、不安を残した微笑だった。
「……わかってるよ。
でも……どうして“俺”なんだ?
どうして、何一つ思い出せないんだよ……?」
震える視線が、重なった手元へと落ちていく。
そのまま、彼は――
もう一度、小さく呟いた。
「……自分の身体さえ、どこか他人のものみたいに感じる。
まるで――“自分じゃない”みたいなんだ。」
そう呟いたヴェイルの声は、どこか宙をさまよっていた。
アリニアはじっと彼を見つめた。
言葉を選ぶように、わずかに躊躇する。
――あの日のことを話すべきか。
空を裂いた光柱。
まるで天から落ちたような――あの異常な光景。
あれを、彼に伝えるべきか?
けれど、何かが彼女を止めた。
警戒か、直感か――
代わりに、彼女は静かに言葉を返した。
「それでも、あんたはちゃんと動けてる。
反応も、呼吸も、動きも……全部、今の“あんた”よ。」
その声には、揺るぎない確信があった。
だが、ヴェイルはうなずいたものの、納得しきれない様子だった。
「……でも、この感覚はずっと消えないんだ。」
かすれた声が、夜の静寂に溶ける。
ぱち……ぱち……
焚き火の音だけが、時折静かに響いていた。
夜風が頬をなで、月の光が岩肌をやさしく照らす。
穏やかなひととき――
けれど、ヴェイルの内側は、まだざわついていた。
アリニアはしばし彼を見つめ、やがて問いかけた。
「……他に、何か思い出せる?」
ヴェイルはゆっくり首を振り、やがて口を開いた。
「……次に思い出せるのは、雪の森。
目が覚めたとき、寒くて……身体が動かなかった。」
その声は静かだったが、言葉の奥に強い感情が滲んでいた。
「そこに、なんでいるのかもわからなかった。
でも、立ち上がって……ただ、生きようとした。」
「どこに行けばいいのかも……何をすればいいのかもわからなかった。
でも、何もないまま、ただ歩いた。」
アリニアは目を伏せる。
彼女は知っていた。
あの日、雪の中で倒れた彼の姿を。
何もかも失ったまま、それでも生きようとしたその瞳を――
疑念が、再び胸をよぎる。
〈……本当に、彼はこの世界の人間なの?
もし……伝承が真実なら――〉
けれど、その思考を打ち消すように、アリニアは声を発した。
「……それからは?」
優しく、穏やかな問いかけ。
ヴェイルは目を閉じ、記憶の底を探るように深く息を吐く。
「……ずっと歩いた。
そしたら、魔物に襲われて……」
その言葉に、体が一瞬震える。
その時の冷たさ、恐怖、痛み――
それが、今もはっきりと体に刻まれている。
「……食われたくなかった。絶対に……死にたくなかった。」
力のこもった声。
彼は、あの瞬間に本気で抗っていた。
「戦った。必死に……
怖くて、寒くて、動かない身体を無理やり動かして、
どうにか倒した。」
言いながら、ヴェイルは腕をさすった。
まるでその寒さと痛みを、思い出から引き剥がそうとしているかのように。
「戦利品は、拾った。」
そう言って、彼は腰から短剣を抜き、アリニアに見せた。
鈍く光る刃。
それは、彼が必死に勝ち取った証だった。
「でも……そのあと、力が尽きた。
そして――暗闇。
何もかもが遠のいて……気がついたら、終わってた。」
そこまで話すと、彼は短剣を鞘に収める。
アリニアは、彼の沈黙に気づき、そっと声をかけた。
「……それからは?」
その問いに、ヴェイルは視線を上げ――
再び、記憶の海に身を投じようとする。
「……そのあと、あたたかさを感じた。
……誰かの、影。」
ヴェイルは小さく呟いた。
そして、ふっと笑みを浮かべながら続ける。
「目が覚めたとき……最初に見たのは――君だった。」
その言葉に、アリニアはわずかに口元をゆるめる。
「じゃあ、目覚めとしては悪くなかったんじゃない?」
茶化すような声。
それに対して、ヴェイルも今度は本物の笑みで返した。
「……いや、悪夢だったよ。」
すかさず返された皮肉に、二人から小さな笑いがこぼれた。
長く張りつめていた空気が、すっと緩んでいく。
アリニアは肩をすくめながら、穏やかに笑った。
「冗談が言えるってことは、まだ余裕があるってことよ。」
そして、少しだけ真面目な声色に変わる。
「記憶のことは……無理に焦らなくていい。
いつか、自然と思い出すかもしれないわ。」
だが、ヴェイルは焚き火に目を落とし、声を低くした。
「……もし、その“いつか”が来なかったら?」
その問いに、アリニアは静かに彼を見つめ、はっきりと答える。
「だったら……新しい記憶を作ればいい。」
その声には、迷いがなかった。
「昔が戻らないなら、それでもいい。
今から始めればいいのよ。
一からやり直すの、案外悪くないわよ?」
ヴェイルは目を細め、しばし黙ったあと、
また少しだけ笑みを取り戻す。
「……ホント、君って何にでも答え持ってるんだな。」
アリニアは肩を揺らし、くすっと笑う。
「私は人の目覚めを悪夢に変えるだけじゃないわよ?」
からかうように言って、軽く笑った彼女だったが――
その笑いは、すぐに穏やかな表情へと戻る。
「記憶のことは……私にはどうにもできない。
でも、これからのことなら――
私でよければ、支えるわよ。」
その言葉に、ヴェイルは目を見開き――
そして、静かに微笑む。
「ふふ……その獣みたいな顔の奥に、意外と優しいとこあったんだな。」
アリニアは笑いながら、スッと一本の爪を伸ばした。
「……モンスターの代わりになってほしいなら、いつでもどうぞ?」
その声に、ヴェイルも苦笑するしかなかった。
ふたりの笑いが、夜の静けさに溶けていく。
やがて、アリニアが身体を伸ばし、真面目な顔に戻る。
「……そろそろ休もうか。」
その言葉とともに、彼女は脚をちらりと見下ろし、軽くヴェイルに見せる。
「今の私は、全然動けないわ。さっきのせいで、体が限界。」
吐き出すように言いながら、その目には疲労の色がにじんでいた。
「……あれを使うとね、筋肉が限界まで削られるの。
見た目より……ずっときついのよ。」
ヴェイルはうなずく。
どこか納得したような顔で、すぐに返した。
「わかってた。
起き上がったとき、足取りがふらついてたし――
顔も、無理して平気なふりしてたの、バレバレだった。」
その言葉に、アリニアは少しだけ目を細めた。
アリニアは何も言わなかったが、
口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
――図星、だった。
彼女は少し体勢を整え、背中を岩に預ける。
そして、焚き火のそばに置かれた濡れたブーツとタイツに視線を向けながら、
落ち着いた声で呟いた。
「……乾くまで待って、それから出発ね。」
ヴェイルは無言でうなずく。
休息は、長くは続かない。
このダンジョンは――
まだ、終わっていないのだから。
そして、彼の頭の中にはただ一つの疑問だけが残っていた。
〈……この先、俺たちを待ってるのは――何だ?〉




