第44章:限界のその先へ
ヴェイルは止まることなく動き続けていた。
地中から迫る怪物の攻撃をかわしつつ、上空のコルヴァロスの注意を引きつける。
その一つひとつの動きは、次第に大きな負担となっていたが――
立ち止まるわけにはいかなかった。
彼はちらりと視線を横に向ける。
水面の様子を探るように、ハイドレオンの姿を追った。
……だが、あの水棲の魔物は、再び水中へと潜っていた。
ヴェイルは息を荒げながら目を細める。
「何を……仕掛けてるつもりだ……?」
警戒を滲ませながら、小さく呟く。
もし、さらに強大な攻撃のために力を溜めているとすれば――
考えるだけで背筋が凍った。
彼はすぐに視線を移し、アリニアの姿を探す。
そして――
その光景に、一瞬、思考が止まった。
アリニアは岩の上に腰を下ろし、静かにブーツとタイツを脱いでいた。
それを横に並べて置くと、無表情な顔のまま――だが、瞳の奥には、かすかな躊躇があった。
彼女は知っていた。
それを行えば、代償が待っていることを。
その後に襲ってくる、耐えがたいほどの疲労も。
けれど、空も地も海さえも支配する敵を前にして――
他に選択肢など、残されていなかった。
唯一、対抗できる可能性。
それは、彼女が隠し続けてきた“それ”だった。
アリニアは静かに半身を起こし、低く構える。
膝を曲げ、両手を地につき、いつでも跳び出せるように――
だが、彼女は動かなかった。
目を閉じ、沈黙のまま、ただ一点に集中していた。
「アリニア……?」
ヴェイルが警戒を滲ませながら呼びかける。
だが、返事はなかった。
彼女の意識は、もはや外の世界にはなかった。
聴覚も、視覚も、自ら断ち切った。
彼女は全ての感覚を閉ざし、ただ一つ――
己の魔力の流れだけに、意識を研ぎ澄ませていた。
心臓の奥へ、魔力を送り込む。
脈拍が早まる。さらに、さらに速く。
迷いは、すでに捨てた。
余計な思考は、すべて排除する。
深く、深く、集中する。
意識の底に沈むようにして――ただ、自分だけの世界へ。
一方、ヴェイルは必死に攻撃を避け続けていた。
コルヴァロスの稲妻を横転してかわし、地中の怪物が弾き飛ばした岩石が頬をかすめる。
反撃に移ろうとしたその時――
全身に、ぞわりとした戦慄が走った。
何かが……変わった。
その“変化”は、彼だけの感覚ではなかった。
上空で羽ばたいていたコルヴァロスが、ふとその動きを止めた。
わずかに翼をたたみ、警戒するように空中で旋回する。
地から這い出た怪物も、そのまま地中へ戻ろうとはせず、じっと様子を伺っていた。
そして――
ハイドレオンが、突如として水面を割って現れる。
長くしなやかな首を揺らしながら、何かを恐れるように波打つ動き。
その目は、すべて――
ただ一人の少女へと向けられていた。
アリニア。
「……っ」
ヴェイルも思わず息を呑んだ。
彼女の周囲に、魔力の奔流が渦巻いていた。
それは目に見えないにもかかわらず、確かに感じ取れる“圧”。
体の内に収まるはずの魔力が、制御を超えて、外へと溢れ出していた。
野性のような、荒々しい力。
空間そのものが、彼女の気配に震えていた。
だが――
ヴェイルの目を奪ったのは、何よりもその“姿”だった。
アリニアの爪は、通常よりも長く鋭く伸びていた。
その先端に走る金属のような光沢が、明らかにこれまでとは異なる力を物語っている。
脚も腕も、よりしなやかで引き締まり、骨格そのものが別の形へと適応しているかのようだった。
背中はわずかに丸まり、獣のように低く構えたその姿は、いつでも跳びかかれる“狩人”そのもの。
口元、鼻の周囲には細く繊細なヒゲが現れていた。
それは空気の流れを感じ取り、わずかな変化すら逃さずに捉えていた。
だが――
最も衝撃的だったのは、その“目”だった。
彼女がゆっくりと顔を上げ、目を開いたその瞬間――
瞳孔が縦に細く縮まり、虹彩は眩いほどの金色に染まっていた。
ほとんど白目が見えないほどに瞳が開かれ、異様なほどの集中力が宿っている。
まるで、獲物を捉えた猛獣の目。
その輝きは、理性ではなく本能を支配するものだった。
瞬き一つせず、ただじっと――分析する。
アリニアの尻尾が空を切るように素早く揺れ、重心の微調整を伝える。
耳はわずかに動き、遠くで落ちた水滴の音、風が木々を揺らす音、地中の魔物の爪が岩を引っかく音――
すべてを聞き分けていた。
ヴェイルは無意識に息を呑んだ。
これまでにも、アリニアが研ぎ澄まされた動きで戦う姿は何度も見てきた。
だが、今の彼女は――
違う。
根本から、何かが。
そのとき――アリニアの金色の目が、空に浮かぶコルヴァロスを捉えた。
その瞬間、コルヴァロスの体がぴくりと震える。
空中でホバリングしていたその翼が、不自然に揺れた。
……本能が、告げていた。
〈このままでは、殺される〉
突き動かされるように、コルヴァロスは稲妻を撃ち放つ。
その標的は、アリニア――
だが。
雷光が地面に届く前に、彼女の姿はすでに消えていた。
一閃。
閃光よりも速く、アリニアは岩を蹴って跳び上がる。
その動きはまるで空気すら裂くようで――
コルヴァロスが何が起こったか理解する前に、鋭い爪がその胴体を貫いた。
風を切るような音と共に、アリニアはそのまま体をひねり、コルヴァロスを地上へと叩きつける。
――ドゴンッ!!
乾いた音と共に、巨大な岩にコルヴァロスの体が激突する。
骨の砕ける音が辺りに響き、血しぶきが飛ぶ。
羽も翼も、もはや動かない。
力なく地面に落ちたその体からは、もう気配すら感じられなかった。
一瞬で、一体。
アリニアは敵の数を、文字通り削ったのだ。
ヴェイルはその光景を目の当たりにしながらも、動けなかった。
視線を向けるより早く――
彼女は、次の敵へと向かっていた。
地中の怪物は、その破壊の一部始終を見ていた。
アリニアの視線が自分に向けられた瞬間、反射的に体を固くし、恐怖に突き動かされて地面に爪を突き立てる。
逃げるために。
掘り進み、姿を消すために――
だが、それすらも――遅かった。
アリニアが跳ぶ。
空気が裂ける音と共に、巨体へと飛びかかり、尾を掴む。
「逃がすもんですかッ!!」
苦悶の声を上げながら、彼女は両腕に力を込める。
獣の巨体が激しく暴れるが、それでも彼女は引き上げる。
――ズズッ!
土が飛び散り、巨大な体が空へと持ち上げられた。
「せめて空で受けなさい!」
アリニアは全身を捻りながら、そのまま敵を地面へと叩きつける。
大地が揺れ、衝撃で怪物の体が跳ねる。
だが――
彼女は止まらなかった。
稲妻のような跳躍と共に、アリニアはその巨体へと襲いかかる。
鋭く伸びた爪が、石の甲殻を切り裂こうと唸りを上げる。
――ギギギィッ!!
岩を割る、耳をつんざくような音が響いた。
ヴェイルは思わず歯を食いしばる。
その破壊音が、あまりに凄まじくて、鼓膜が震える。
そして――
ついに、その防御を誇る殻が砕けた。
アリニアの手が、怪物の首元へと深く突き刺さる。
さらに脚が腹部を貫き、肉と骨を一気に切り裂いた。
「ギャアアアアアァッ!!!」
悲鳴が、夜の空気を裂いた。
凄絶な断末魔――
それは耳に焼き付き、魂に突き刺さるほどの絶叫だった。
怪物の体がびくりと震え、
次の瞬間には、重力に引かれるように崩れ落ちる。
その巨体が、最後の力を失いながら地面に沈む。
がくりと首が垂れ、舌がだらりと顎の隙間からはみ出す。
土煙が静かに舞い、
やがて、その命が完全に消えたことを告げるように――
戦場に、沈黙が訪れた。
……誰も、動かなかった。
ヴェイルも、呼吸を忘れたかのように立ち尽くす。
視線は、アリニアに釘付けだった。
口を開きかけたが、声が出ない。
彼の中で、何かが崩れた。
いま目の前にいる彼女は――
彼の知るアリニアではなかった。
冷静で理性的な戦士。
常に周囲を見渡し、仲間を守る判断力を持つリーダー。
その姿は、どこにもなかった。
そこにいたのは――
獣。
圧倒的な力で、全てをねじ伏せる野生の化身。
手加減も、慈悲も、理屈すらも存在しない存在。
ヴェイルは、震えた。
出会ってから初めて――
アリニアが、怖いと感じた。
「…………」
言葉が、出ない。
だが――
終わってはいなかった。
ハイドレオンは、まだ生きていた。
そして、あの化け物もまた――
理解していた。
〈このままでは、自分が“狩られる”〉
水面が泡立ち始める。
ヴェイルが気づいたときには、すでに魔力が集中していた。
だが、今回は違った。
口の中ではない。
背中、背びれの間――
そこに、水の塊が現れていた。
球体。
それは今までとは比べ物にならないほど巨大だった。
しかも、まだ成長し続けている。
「くそっ……!」
ハイドレオンが叫ぶように咆哮する。
そして――
「ッ……うわああっ!!」
超音波のような轟音が空間を貫いた。
骨の奥まで響くような振動。
ヴェイルは耳をふさぎ、膝をつきかける。
そして、ついに放たれる。
巨大な水球が――彼らの元へと撃ち出された。
だが、アリニアの反応は瞬間だった。
「ヴェイルッ!!」
その声が届くより早く、
彼女の腕がヴェイルの腹を抱え上げる。
体が宙に浮き、空気が音を失う。
加速の圧力で世界が引き裂かれ、風が鼓膜を切るように鳴る。
――ドォオオオン!!
水球が地面に激突した瞬間、全てが吹き飛んだ。
土、岩、遺骸、血、すべて。
凄まじい衝撃波が爆風のように広がり、戦場を呑み込んでいく。
一瞬で、全てが水に沈んだ。
ハイドレオンは、理解していた。
〈接近させてはならない〉
〈近づかれれば、殺される〉
だから今度は――撃ち続けた。
今度は小さな水球。
それを口内で生成し、即座に撃ち放つ。
撃つ。
そしてまた撃つ。
連射。
途切れることのない、暴力の雨。
だが――
アリニアは、止まらなかった。
跳ぶ。
翻る。
ねじる。
避ける。
重力を無視するような動きで、すべての弾を避け続けた。
その速度は――もはや人間ではなかった。
ヴェイルは、彼女に抱えられたまま、
目の前の光景を理解できずにいた。
加速のたびに内臓が揺れ、視界がぶれる。
思考も混濁し、吐き気すら襲う。
けれど――
それ以上に、彼を突き動かす“何か”があった。
〈……俺のこと、わかってる……〉
ヴェイルは混乱したまま、そう感じていた。
だが、本当に――安全なのか?
もし、このまま彼女が制御を失ったら?
もし、その爪が、自分に向けられたとしたら……?
〈もう、あれがアリニアじゃなかったら……?〉
思考が渦巻く。
確信が持てない。
そこにいるのが、“彼女”なのか、それとも何か別の存在なのか――
そんなときだった。
「手を貸して。今すぐ。」
彼女の声が、風を切り裂いて届いた。
「……!」
戦いの最中――あの圧倒的な速度の中で、
アリニアはヴェイルに向かって言葉をかけていた。
まるで、当然のように“信頼”している声で。
ヴェイルは思わず小さく身を震わせ、
ぐっと奥歯を噛みしめる。
不安は、まだ消えていなかった。
彼女が“本当にアリニアなのか”という疑念は、心の奥に根を張ったままだった。
〈でも……それでも、今は――〉
「長くは保たない。このままじゃ、チャンスはこれだけ。」
アリニアの声が、少し苛立ちを帯びて続いた。
ヴェイルは深く息を吸い込む。
彼女が正しい。
自分も限界だった。
彼女だって、いつ崩れてもおかしくない。
「わかった……何をすればいい?」
弱々しく、しかし腹を括ったように、ヴェイルは応じた。
「両手に魔力を集中させて。できる限り、強く。」
彼女の声は簡潔で、無駄がなかった。
「……は? 魔力を集中って……俺の魔力じゃ届かないぞ?」
困惑しながら問い返す。
「私はあそこまで跳べない。だから、あなたが飛ばすの。」
間髪入れず、即答。
「……は?」
頭が真っ白になる。
「私が跳んだら、すぐに押し上げて。
あなたはその場に残るから、すぐ手を放して。」
その説明も、迷いなく鋭い。
ヴェイルは唖然としたまま、動けなかった。
――リスクは大きすぎた。
タイミングを誤れば、彼女を水の中に叩き落としてしまう。
力加減を誤れば、あの巨大な顎の真正面に――
けれど、選択肢はなかった。
ハイドレオンは、すでに怒涛の攻撃を再開していた。
近づけさせまいと、無数の水弾を放ち続けている。
時間がない。
ヴェイルは拳を強く握りしめ、奥歯を噛みしめた。
「……マジで……頼むぞ……」
唇を震わせながら、低く呟く。
彼は両手を地面に向け、そっと目を閉じる。
魔力を集める。
できるだけ深く、できるだけ強く。
掌の奥で、力が震えた。
集中するほどに、呼吸が荒くなる。
やがて――
「……準備完了だ……!」
息を切らしながら、そう告げた。
アリニアは小さくうなずくと、足元の岩の上に跳び上がる。
全身を沈み込ませ、弓のように体をたわませる。
そして――
跳ぶ!
「今よ、ちびオオカミ!!」
ヴェイルは、ためらわずに魔力を解き放つ。
――ドンッ!!
爆発するような衝撃が大地を揺らし、土煙が吹き上がる。
風圧が地面をえぐり、音が空間を引き裂いた。
アリニアの体が、矢のように空へ――
ハイドレオンへと向かって放たれる。
その一瞬の間に、彼女の手がヴェイルを放した。
彼の体は地面に転がり、頭がぐるぐると回る。
視界が歪み、世界がぐらつく。
だが――
意識を無理やり引き戻し、顔を上げた。
その目が捉えたのは――
空を裂き、風を切り裂いて
アリニアがハイドレオンへと肉薄する、その姿だった。
アリニアの爪が、ハイドレオンの右目を貫いた。
その鋭い刃先は眼窩の奥深くまで達し、
同時に脚が喉元へと突き刺さる。
――バキィィンッ!!
重厚な鱗が砕ける、不気味な音が響いた。
あれほど堅牢だった装甲が、衝撃の凄まじさに耐えきれずに裂けたのだ。
「ギィアアアアアァァァ――ッ!!」
ハイドレオンの悲鳴が湖全体に響き渡る。
空気そのものを震わせるような、断末魔の咆哮。
巨大な尾が狂ったように辺りをなぎ払い、
岩を砕き、水を跳ね飛ばし、周囲のすべてを破壊していく。
だが――
アリニアは離さなかった。
その腕は、怪物の頭部をしっかりと押さえ込み、
爪を突き立てる。
額へ、頬へ、側頭部へ――
一点にとどまらず、容赦なく連打する。
「……ッ!!」
ハイドレオンの体がのたうち回る。
その長い胴体が水上で波打ち、尾は空を切り裂き続ける。
だが、アリニアの動きは止まらなかった。
爪がさらに深く沈み込む。
鱗を裂き、肉を断ち、骨に達するまで。
その度に、怪物の悲鳴が空に響いた。
もはや、逃れる術はなかった。
ハイドレオンはもがき続けた。
だが、アリニアはそれを上回った。
そして――
怪物の体が、がくりと崩れ落ちる。
喉奥から絞り出されたような呻き声と共に、
開いたままの口からはもう、音も息も漏れてこない。
巨大な頭がゆっくりと傾き、
最後の抵抗すら失って、地へと叩きつけられた。
――ドグンッ!!
大地が揺れる。
地面には深い亀裂が走り、
粉塵が巻き上がる。
衝撃で湖の水が押し上げられ、波が四方へと広がっていく。
岸にぶつかり、砕け、岩を洗い流す。
それはまるで、大地そのものが敗北を告げる“波紋”のようだった。
アリニアの体は、爆風に押されて宙に浮き、
そのまま地面を何度も転がる。
――ゴロッ、ゴロッ、ゴロッ。
やがて、その小さな体が地に伏し、静かに止まった。
……沈黙。
荒れ狂っていた湖も、
吠え続けていた風も、
今はただ静かだった。
戦いは――終わった。
すべての魔物は倒された。
だが――
その代償は、あまりにも重すぎた。




