第43章:岩陰の脅威
アリニアは、すっと構えを取った。
ヴェイルもダガーを握り直し、戦意を取り戻す。
その視線が交わった一瞬、アリニアは冷たく命じた。
「ハイドレオンは任せる。私がコルヴァロスを引き受ける」
その口調には一切の迷いがなかった。
「……なあ、本気で言ってんのか?」
ヴェイルは、視線をモンスターたちへ向けたまま、顔をしかめた。
「どの魔獣も、いちいち名前が言いにくいんだよな……俺たち、なんか呪われてないか?」
軽口を叩きつつも、緊張は拭えない。
アリニアは応えず、そのまま跳び上がった。
宙に舞い上がる彼女を追うように、コルヴァロスが唸りながら飛翔する。
ヴェイルは視線をハイドレオンに戻すと、拳を強く握りしめた。
「……あんなのと戦えって、マジかよ……」
呟いた直後だった。
水棲の怪物の口元に、青白い球体が浮かび上がる。
次の瞬間――それは牙の隙間から発射された。
「っのやろう!」
ヴェイルは怒鳴りながら、風を纏って横へ飛び退く。
地面を転がり、即座に立ち上がる。
その直後、背後で岩が爆ぜ、無数の破片が宙を舞った。
「……マジかよ……」
砕け散った岩の破片を見つめながら、ヴェイルは呆然と息を漏らした。
そして視線を移す。
――ハイドレオンは再び水中へと身を滑らせていた。
ヴェイルはごくりと唾を飲み、ダガーを握り直す。
そのころ、アリニアは空中の猛禽と激しく交戦していた。
翼を広げて飛翔するコルヴァロスは、羽ばたくたびに雷撃を放ち、
その動きはまるで乱れのない稲妻。
アリニアは咄嗟に回避するが、放たれる閃光に反応が追いつかない。
「……チッ」
小さく舌打ちをした瞬間――
コルヴァロスが急降下してきた。
回避が間に合わず、鋭いくちばしがアリニアの腕を切り裂く。
銀の閃光が閃き、細い傷から血がにじむ。
「ッ……く……」
痛みは一瞬。
だが、疲労がすでに身体を蝕んでいた。
反応が鈍る。
持久力が削られる。
「……イライラするわね……」
荒い息の合間に、低く唸るように吐き捨てる。
コルヴァロスは再び上昇し、静かに次の一撃を狙っていた。
アリニアは体勢を整え、わずかに目を細めながら、その軌道を読み取ろうとする。
一方その頃――
ヴェイルは連続する回避行動により、すでに息が上がっていた。
ハイドレオンは水弾を放ちつつ、尾を使った広範囲の薙ぎ払いを繰り返す。
攻撃の合間がなさすぎて、反撃の隙がない。
「……しつこいな……こいつ……」
後方へ跳ねるように退避しながら、ヴェイルは歯を食いしばる。
このままでは埒が明かない。
「……なあ、出てこないか? いい加減、水の中は飽きただろ?」
だが、返答はなかった。
ハイドレオンの身体は、深い水の中を泳ぐように滑り、姿を消していく。
視界から外れたその気配が、まるで不穏な予兆のように周囲に広がる。
ヴェイルはアリニアへ視線を向けた。
彼女は未だにコルヴァロスとの死闘を繰り広げている。
「……やっかいだな、こりゃ……」
疲労、魔力、集中力――
どれも限界が近い。
このままでは長く持たない。
アリニアも、すでに攻め込まれている様子だった。
このままでは共倒れだ。
彼女の視線は、上空を飛ぶコルヴァロスの動きに集中している。
その動きの法則――雷撃の後に必ず降下する――
そこに一瞬の隙があるかもしれない。
……が、その時だった。
足元が震える。
地面の奥深くから、鈍い振動が走った。
「っ……!?」
ヴェイルが驚き、顔を上げる。
同時に、アリニアも異変に気づく。
その隙を見逃すハイドレオンではなかった。
「――っ!」
風を切るような音と共に、尾が襲いかかる。
ヴェイルの回避が間に合わなかった。
「がっ……!?」
尾が直撃し、彼の身体は宙を舞った。
そして背後の岩へ叩きつけられる。
鈍い衝撃音と共に、岩が砕ける。
「ぐっ……くそっ……」
ヴェイルは、うめきながら地に崩れ落ちた。
衝撃で、視界がぐらついた。
口の中に血の味が広がり、ヴェイルは呻きながら岩に手をついて身を起こそうとする。
同時刻――
アリニアの足元で、地面が不気味にひび割れていた。
彼女は一瞬の迷いも見せなかった。
鋭く身を翻し、脇へ跳躍する。
直後――
地面が爆ぜた。
岩が砕け、塵が舞い、凄まじい爆音と共に巨大な影が地底から現れる。
それは――
全身を岩のような外殻で覆った、巨大な爬虫類だった。
その表面には赤く光る筋が走り、まるで脈打つ血管のように明滅している。
二足で立ち上がったその姿は、腕に長く分厚い爪を携え、
大地すら引き裂く威力を秘めていた。
尾には棘が並び、地を引き裂くように振られている。
喉元の赤く光る脈動は、まるで魚の鰓のように絶えず脈打っていた。
その顎は、細長く丸みを帯びながらも異常なほど大きく開き、
内部には太く鋭い牙が無数に並んでいた。
「……最悪ね」
アリニアは低く呟く。
その目は、瞬時に理解していた。
――この爪は、戦うためのものじゃない。掘るためのものだ。
地中を自在に這い回る、真の捕食者。
迷うことなく、アリニアは距離を詰め、剣を振り下ろす。
岩板の隙間を狙った一撃――
だが。
その怪物は、瞬時に地面へ爪を突き立てた。
そして、一瞬で――
地中へと姿を消した。
残されたのは、ぽっかりと空いた穴だけ。
「チッ……!」
舌打ちと共に、彼女はすぐに警戒を強めた。
――だが、次の瞬間。
雷が落ちた。
コルヴァロスの雷撃が、彼女の脚に命中する。
激しい閃光が視界を焼き、布が裂け、焦げた臭いが立ち昇る。
「くっ……!」
焼け爛れた皮膚に、痛みが鋭く走る。
三体の魔獣――
彼らの体力は、すでに限界に近づいていた。
そして、攻撃が徐々に通り始めている。
……もう、待てない。
ヴェイルはようやく身体を起こし、視線をハイドレオンに向ける。
だが――その時、地面が揺れた。
「……やべぇ……」
ヴェイルの目が見開かれる。
さっきアリニアを襲った地中の怪物の動きを、朦朧とした意識の中でも捉えていた。
今度は――自分の番だ。
「っ、くそっ!!」
咄嗟に横へ跳び、風を纏って転がる。
その瞬間、彼がいた場所の地面が裂けた。
――ドンッ!!
地面を突き破って、再びあの怪物が現れる。
砂塵が舞い上がり、地鳴りが周囲を包む。
しかし、その姿は一瞬。
現れた次の瞬間には、また地中へと潜り、姿を消した。
「冗談だろ……っ!」
ヴェイルは荒く息を吐きながら、怒鳴るように叫ぶ。
足元が、もはや安全とは言えない。
次にどこから来るか分からない“地の死神”。
しかも、自分にはハイドレオンもいる。
これでは、何もできない。
視線をアリニアへ向ける。
彼女は、なおも空中の猛禽と戦っていた。
「アリニアっ! ハイドレオンには近づけねえ!
おまけに地面から化け物が飛び出してくるとか、さすがに無理だって!」
叫びが洞窟内に響く。
アリニアも、事態の深刻さを理解していた。
剣を握る手に力を込め、短く応じる。
「分かってる。でも限界が近い。早く、なんとかしないと……!」
冷静なようでいて、その声には焦りがにじんでいた。
空、水中、地中。
三方向からの脅威。
どう動けばいい。
どうすれば互いを守れる。
傷は深く、体は重い。
だが――ここで倒れれば、相手に背を向けることになる。
それは、死と同義。
いや、それ以上に――
――もう一人を、独りにしてしまう。
これまでに戦ってきたどの魔獣よりも――
こいつらは、ずっと手強い。
そう思わざるを得なかった。
まるで彼らの限界を見透かしているかのように、
最も嫌なタイミングで、最も的確に攻め込んでくる。
アリニアは歯を食いしばった。
魔力の使い方、距離の取り方、攻撃の連携……
まるで“狙って”いるかのようだった。
これは、袋小路だ。
一方、ヴェイルはというと――
ハイドレオンの注意を引きつけながら、
地中の怪物の不規則な奇襲を、なんとか回避していた。
幸い、この地面は岩が多く、攻撃の前に振動が伝わる。
その“気配”を感じ取って、ギリギリのところで避けているに過ぎない。
また一度、地中からの襲撃。
ヴェイルは横へ転がり、砂塵を浴びながら体勢を立て直す。
そのとき、視線の先――
地面に、拳大の石。
彼はそれを無意識に拾い上げる。
「……どうせ失うもんなんて、ないしな」
自嘲気味に呟くと、残った魔力を手に込める。
腕を引き、全力で石を投げた。
放つ瞬間、魔力の流れを一気に解放し、
まるで投石器から放たれたように、弾丸となって空を裂いた。
狙いはハイドレオン――
だが。
石は、その厚い鱗に弾かれ、虚しく水面へと落ちた。
「……は?」
目を見開いたヴェイルは、呆然とその光景を見つめた。
「嘘だろ……なんなんだよ、これ……!」
当然、致命傷になるとは思っていなかった。
だが、かすり傷すら与えられないとは。
――あの鱗は、あまりにも分厚すぎた。
どんなに速度を乗せても、この程度の石では貫けない。
焦りが、怒りに変わる。
無力感が、喉元を締めつける。
避けてばかり。
攻めることもできず、ただ、消耗していく。
身体は痛み、筋肉が軋む。
呼吸が、どんどん浅くなる。
アリニアもまた、限界が近づいていた。
普段なら冷静に立ち回る彼女も、今回は違った。
もう、“出し惜しみ”している場合じゃない。
嫌でも、力を出し切るしかない。
そうしなければ――
死ぬ。
アリニアは、ヴェイルへと視線を向けた。
その目は冷たく、決意に満ちていた。
「ハイドレオンは放っておきなさい。コルヴァロスの相手をして」
ヴェイルは驚いたように瞬きをする。
「……は? マジで言ってる?
あいつ放置してたら、好きなだけ水弾撃ってくるだろ……」
だが、アリニアは構わず、鋭く言い放つ。
「来なさい、さっさと」
一切の妥協を許さない口調だった。
ヴェイルは言い返しかけたが――その目を見て、やめた。
あの目を見れば分かる。
何を言っても、変わらない。
「……ったく、分かったよ……」
文句を漏らしながらも、すぐに彼女のもとへ向かう。
その間にも、地中の揺れを察知し、身を翻しながら走った。
そして、彼女の隣にたどり着いた時には、
両手を膝につき、肩を大きく上下させていた。
「……で? ここまで来たけど……説明、してくれるよな?」
息を切らしながら、そう問う。
アリニアは一瞬だけ彼を見て、短く告げた。
「あなたが囮になるのよ」
「…………は?」
ヴェイルの眉が跳ね上がる。
「待て、ちょっと待て。今なんて……」
「囮になるの」
淡々と、だがはっきりと、彼女は繰り返した。
「おい、それって……俺が飛び回って、あいつらの注意を引きつけて、
その隙に――ってことか!?」
その瞬間、雷が落ちる。
ヴェイルは反射的に身を引き、その叫びは雷鳴にかき消された。
その視線が――
すべてを黙らせた。
ヴェイルは口をつぐみ、顎に力を込める。
そして、深く息を吸った。
「……長くはかからない。ほんの少しでいい。時間を稼いで」
アリニアの声は冷静でいて、どこか切迫していた。
ヴェイルは反射的に言い返しかけたが――
その目に映ったわずかな“影”が、言葉を止めた。
普段の彼女を知らない者なら、気づかないほどのわずかな揺らぎ。
しかし、ヴェイルには分かった。
「……おい、その“策”って、どういう意味だ?」
警戒を滲ませた声で尋ねる。
だが、アリニアは視線を外さずに答える。
その声から、わずかに力が抜けていた。
「……うまくいくかもしれない方法よ」
その言葉には、微かな哀しみが混じっていた。
それ以上は語らない。
空を裂く羽音。
足元を揺らす地鳴り。
ふたりの間に、重たい沈黙が流れる。
ヴェイルはアリニアを見つめる。
その表情から何かを読み取ろうとするが――
答えはなかった。
ただ、ひとつだけ確かだった。
――嫌な予感しかしない。
「……無茶すんなよ」
気づかれないように抑えたつもりの声には、不安がにじんでいた。
彼女の考えは分からない。
だが、それが普通の作戦ではないことだけは、確信していた。
アリニアは小さく顎を上げる。
「心配しないで。失敗したら、それまでよ。もう失うものなんてないし」
あまりに静かな、終わりの言葉。
ヴェイルは奥歯を噛み締めた。
握ったダガーに、さらに力がこもる。
――本当に、こんなのは嫌だ。
だが、他に選択肢はない。
彼は無言で頷くと、最後にアリニアを一瞥し、構えを取った。
「……分かったよ。あんたの策、信じるしかねぇな」
その呟きは、祈りにも似ていた。
アリニアは何も返さなかった。
ただ、敵の群れを睨みつけたまま。
静寂。
そして――
甲高い羽ばたきと共に、コルヴァロスが空を切り裂いた。
ヴェイルは深く息を吸い込む。
戦いは、終わっていない。
――ここからが、本番だ。




