第42章:偽りの終焉
グラヴァローンは、地面に頭を叩きつけた。
巨大な角が岩盤に深く突き刺さり、鈍く重い音が洞窟中に響き渡る。
グッ、と力を込めると、岩盤から大きな塊が引きちぎられ、砕けた破片が四方に散った。
そして咆哮と共に、それをヴェイルめがけて豪快に投げつけてきた。
「クソッ……!」
ヴェイルは息を呑み、咄嗟に身を投げ出した。
地面を転がりながら岩陰へと飛び込む。
間一髪だった。
直後、轟音。
巨大な岩塊が壁に衝突し、爆発するように砕け散る。
破片が四方八方へ飛び、灰色の砂煙が視界を覆った。
ヴェイルは岩陰で身を伏せたまま、乱れる呼吸をなんとか整えようとしていた。
全身が悲鳴を上げている。筋肉は重く、痛みは鋭い。
背後では、グラヴァローンのうめき声が響いていた。
折れた脚がその巨体を支えきれず、地面には黒々とした血が滲み出していた。
ほんの少し動いただけで、洞窟全体が揺れる――だが、もはや進むことは叶わない。
その頃。
アリニアはついに、フリリスを圧倒し始めていた。
潰れた片目――そこにできた盲点を、彼女は逃さなかった。
短剣を収め、鋭い爪を再び起動させる。
「動きは速い……でも、それだけじゃ足りないわ」
囁くように言い放ち、アリニアは攻勢に転じた。
フリリスが跳躍すると、彼女はそれを追う。
その身の軽さが、怪物の速度を上回る精度で追随していた。
鋭く放たれた爪は、次々とフリリスの体を切り裂いていく。
脇腹、脚、次第にその動きが鈍っていく。
低く唸りながら、フリリスは後退した。
だが、まだ終わっていなかった。
残された執念。
それが、最後の賭けに出る。
岩場の間に身を滑り込ませ、射程外へ逃れようとした。
……だが、アリニアがそれを見逃すはずがなかった。
岩を蹴って飛翔。
流れるような動きで、彼女は空を裂いた。
そして――
そのまま、フリリスの背中に着地した。
「終わりよ」
静かに、しかし鋭く告げる。
次の瞬間、彼女の爪がフリリスの頭部に深々と突き刺さった。
フリリスは激しく痙攣し、空を引っかくように前足を振り回したが……
やがて、力を失い、崩れ落ちた。
その瞳から、光が消える。
アリニアはその背から身を離し、荒い息を吐いた。
そして、ヴェイルの姿を探して顔を上げる。
――まだ、戦っている。
グラヴァローンは致命的な傷を負いながらも、なお立ち上がろうとしていた。
ヴェイルは、飛び交う瓦礫を避けながら、着実に距離を詰めていく。
岩陰から岩陰へと身を移し、間合いを縮め――
そして、ついに手を伸ばした。
風が彼の呼びかけに応えた。
突風がヴェイルの周囲に渦を巻き、舞い上がった塵を巻き込みながら、激しく唸りを上げる。
彼の視線は、氷で覆われたもう一本の脚へと向けられていた。
「……砕けろ……ッ!」
息を荒げながらも、彼の声には揺るぎない意志が宿っていた。
指先から放たれた魔力が、怒涛の勢いで解き放たれる。
――ドンッ!!
衝撃波が大地を叩きつける。
直後、骨を砕くような音が響き――
グラヴァローンの後脚が、爆ぜるように砕け散った。
濃い血が吹き上がり、岩を真紅に染める。
「――ギャアアアアァァァ!!」
絶叫が洞窟に響き渡る。
怪物の巨体が震え、激痛に耐えきれずに身体をよじらせた。
鉄のような血の匂いが、空気を満たしていく。
グラヴァローンは、なおも角を地面に突き刺そうとした。
最後の意地。
だが――
その身体は、もうついてこなかった。
力が、抜けていく。
巨躯がゆっくりと崩れ、怒りに満ちていた瞳から、ついに光が失われた。
ヴェイルは、よろけながらも立ち上がる。
膝に手をつき、肩を上下させながら、苦しげに息を吐いた。
「……クソ……なんだよ……この戦い……」
かすれた笑みと共に、そう呟く。
目を上げると、アリニアの姿があった。
彼女は、なおもフリリスの亡骸の上に立ち、周囲を警戒している。
「そっちは終わったか? もう一匹いるなら譲るぞ……」
冗談交じりに言いながら、ヴェイルは口元を歪めて笑った。
アリニアは数秒間彼を見つめ、無言で爪を仕舞った。
そして、冷静な声で返す。
「……よく喋るわね。まだエネルギーが残ってるの?」
「……あは……マズいな、これ……」
ヴェイルは小さく笑いかけたが、その瞬間、ぐらりと視界が傾く。
「……っと……ちょっと、座る……」
彼は近くの岩に腰を下ろした。
息を整えようとするが、胸の奥はまだ焼けるように熱かった。
周囲には、倒れ伏した二体の怪物たち。
動かぬ骸が空気に重苦しい沈黙をもたらしていた。
だが――
違和感があった。
終わったはずなのに、どこか不自然。
それは、アリニアも同じだった。
彼女は警戒の眼差しを屍へ向け、そして何も言わず、ヴェイルの隣に腰を下ろした。
……彼もまた、感じている。
この静寂の裏に潜む、得体の知れない“何か”。
「……体調は?」
感情を抑えた声で、アリニアが尋ねた。
ヴェイルはわずかに顔を上げる。
「平気さ……ちょっと、球に力入れすぎただけ……」
答えながらも、その声はかすれていた。
アリニアは彼を見つめたまま、ふっと微かに笑った。
その表情には、ほんのわずかだが、安堵の色が滲んでいた。
だが、その一瞬の静寂を――
裂くような叫びが、空気を震わせた。
甲高く、鋭く、耳を刺す咆哮。
石壁を伝い、洞窟全体がわずかに揺れた。
ヴェイルとアリニアは、反射的に顔を上げる。
月明かりが、一瞬、闇に遮られた。
空を裂く黒い影。
漆黒の翼を広げた巨大な鳥が、彼らの頭上を舞った。
その翼は、まるで黒曜石の刃のように空気を斬り裂く。
風に乗って、数枚の羽根が散る。
そのうちの一枚が、ゆらりと舞い落ち――
――ヴェイルの肩に、ふわりと着地した。
月光に照らされながら、その羽根は不気味なまでの光を放っていた。
「……マジかよ……」
ヴェイルは、呆れたように息を吐いた。
鳥は、激しく翼を広げる。
乾いた風が唸りを上げて吹き荒れ、砂を巻き上げた。
月に照らされた爪は鋭く、巨大な鉤爪のように輝いている。
灰色がかった鉤状のくちばし――それは、砕くための武器。
そして、紅い双眸が彼らを真っ直ぐに捉えていた。
まるで、すべてを見透かすかのように。
その尾は長く、風に乗ってたゆたうように揺れ、飛翔するその姿をより威圧的に映していた。
威厳に満ち、そして――殺意を孕んだ存在。
しかし、反応するより早く、別の異変が起きた。
水面が、揺れた。
静かだった湖に、微かな波紋が広がっていく。
やがてそれは渦を描くように強まり、中心から何かが姿を現す。
静かに、しかし確実に。
現れたのは――巨大な蛇だった。
その身体はしなやかで、同時に圧倒的な威圧感を放っていた。
水を滑らせながら現れたその鱗の装甲は、美しくも恐ろしく。
腹部を守る銀の三角鱗は、まるで盾のように光を反射し、
背中から頭部にかけての澄んだ蒼は、清流を思わせる美しさを纏っていた。
深い蒼の瞳が、ヴェイルとアリニアを見据える。
その眼光は静かで冷たく、まるで月明かりを内包したかのように輝いていた。
その両目を囲うように鱗の装飾が伸び、
その先には半透明の膜がゆらめく、白い筋の入った薄いひれ。
優雅な形状をした複数のひれが空気の中で漂い、
その美しさは、神秘的でありながらも恐怖を呼び起こした。
尾の先には大きく分かれた二枚のひれ。
背中を走る柔らかな鰭は、まさに水を切るために存在していた。
アリニアは動けなかった。
数瞬前までの余裕は消え、その表情に緊張と恐れが宿っていた。
「……どうした?」
異変に気づいたヴェイルが、低く問いかける。
アリニアは目を逸らすことなく、静かに息を吸った。
「――あれらは、私たちの相手じゃない」
重い声だった。
「……は?」
ヴェイルは目を細め、思考が追いつかず口を開く。
「見たことはない。でも……噂が本当なら、あれらを倒すには、パーティ全体が必要よ」
アリニアの言葉が、鋭く空気を切った。
――沈黙。
そしてそれを破ったのは、二体の咆哮だった。
光が閃く。
直後、二人は同時に跳ねるように横へと飛んだ。
――ズドン!
地面が爆ぜ、強烈な閃光が洞窟を照らし出す。
振動が壁を伝い、空間を揺らす。
アリニアは素早く体勢を立て直す。
全身が緊張し、耳がピンと張っていた。
ヴェイルは地面に伏せたまま、頭上の怪鳥を睨む。
その翼はゆるやかに風を切りながら、空中で静止していた。
紅の眼が、まっすぐ彼らを射抜く。
ゾクリ――
背筋に走る、鋭い寒気。
「……マズいな……」
ヴェイルはかすれた声で呟いた。
風はさらに強まり、湖の水面は荒れ始めていた。
体力は底を突いている。
既に、限界は超えていた。
だが――
今、彼らはまた立たねばならない。
生きるために。
――自分を超えるために。




