第41章:脅威なる閃光
その白く虚ろな瞳が、ふたりを見据えた瞬間――
見えない“圧”が、肩にのしかかってきた。
アリニアは、すぐにそれを見極めた。
「グラヴァローン……」
苛立ちを隠さず、低く唸るように呟いた。
あまりにも耐久力が高く、石のような身体を持つこの魔獣。
通常の攻撃ではほとんど傷一つつかない。
彼女はそれをよく知っていた。
「時間と体力の無駄ね……」
歯を食いしばりながら、アリニアは吐き捨てた。
だが、次の瞬間――
直感が鋭く警鐘を鳴らす。
暗闇の中、何かが動いた。
黒い閃光が、岩の間を駆け抜ける。
風のように――否、それよりも速く。
一瞬視界に映ったと思えば、次にはもう違う場所へと移っていた。
まるで、目の錯覚のような“存在”。
「……今の、何だ……?」
ヴェイルが緊張した声で呟く。
その影は音もなく跳躍し、ふたりの背後へと回り込んだ。
捕食者――その動きに迷いはなかった。
アリニアとヴェイルは同時に振り返る。
そこで動きを止めた“それ”は――
狼でも、猫でも、犬でもない。
だが、そのどれにも似ていた。
細身の身体としなやかな筋肉。
鋭さと力強さを併せ持つ、野生の象徴。
その被毛は厚く、光を浴びるとわずかに艶を放っていた。
背中は漆黒、腹と脚は茶褐色――
まるでこの闇の世界に溶け込むような色彩。
それが、奴の「狩り」のために最適化されていることを物語っていた。
長くしなやかな尾が、空気を切るように揺れる。
大きく尖った耳が、微細な音すら逃さず拾う。
広く力強い足裏には、鋭く湾曲した爪。
一度掴んだら、二度と逃がさない“狩人”の証。
だが――最も異様なのは、その顔だった。
どこか穏やかで、無害そうなその表情。
従順そうで、無垢ですらある。
まるで、人に慣れた大型の動物――
……だが、それは“仮面”だ。
「魔獣……? いや、ただの獣……?」
ヴェイルは、判断に迷いながら呟く。
だが、アリニアの目は鋭く光っていた。
その表情は一変し、冷たい緊張が瞳に宿る。
「……フリリスが、ここに?」
低く、刺すような声で言った。
その名を口にした瞬間、洞窟の空気がわずかに揺れる。
「フリ……何?」
ヴェイルは眉をひそめ、聞き返す。
アリニアは彼を見やり、冷ややかな目で静かに答えた。
「この場所にいるはずがない存在よ。」
言葉に感情はなかった。
ただ、冷たく、断定するように。
ヴェイルはその意図を測りかねていたが、何かを問おうとして口を開く。
だが、その前に――
アリニアが片手を上げた。
短く、だが絶対的な“制止”の動き。
「ここを生き延びたら、教えてやる。」
その言葉に、ヴェイルはそれ以上何も言えなかった。
今は、聞くべき時ではない。
それだけは、はっきりと分かった。
彼はわずかに後退し、視線をふたたび二体の魔物へ向ける。
石の怪物、グラヴァローン。
そして、異常なまでの速度を持つフリリス。
「……攻撃が効かないやつと、目で追えないやつ。
最悪の組み合わせじゃねぇか……」
息を呑みながら、ヴェイルは呟いた。
足元の空気すら張り詰めていく中、
二人は、静かに、確実に、戦いの刻を迎えようとしていた。
ヴェイルは短剣をしっかりと握り直し、アリニアの方へ視線を向けた。
「俺がグラヴァローンを引き受ける。」
迷いのない声だった。
アリニアは片眉を上げた。
「こいつが本当に“速い”っていうなら……
それを止められるのは、お前しかいないだろ?」
口元にわずかな笑みを浮かべながら、ヴェイルは続ける。
アリニアは即座に返事をしなかった。
だが、ヴェイルの判断には一理あった。
力任せのスタイルでは、あの影のような速さに対応できない。
追いつけず、翻弄されるだけだろう。
彼女は頷いた。
「……無茶だけはするな。」
低く、だが確かな声音でそう言った。
ヴェイルは口元を緩める。
「俺がヘマするように見えるか?」
「できるとは思ってる。
でも、“できる”ことと“安全”は、別よ。」
冷静に、しかし柔らかい芯を持った声だった。
ヴェイルはそれ以上何も言わず、静かに左へと動いた。
洞窟の空間を斜めに進みながら、グラヴァローンとの距離を詰める。
フリリスの視線がヴェイルを捉え、尾がゆっくりと揺れる。
だが、ヴェイルはそれに目を向けることはなかった。
集中するのは、石の巨体。
その構造、動き、反応――
隙を探るには、見極めるしかない。
……その時だった。
音もなく、空気を裂くように“それ”が動いた。
フリリスが――飛んだ。
全くの無音、そして無警告。
次の瞬間には、ヴェイルの目前に迫っていた。
「速っ――!?」
声にならない悲鳴が漏れた。
だが、その間に――
鋭い銀の閃きが、ヴェイルとフリリスの間に割り込んだ。
アリニアだった。
短剣を逆手に構えたまま、正面からその一撃を受け止める。
爪を振り下ろすフリリスの前足と、アリニアの刃が激突する。
ガキンッ!!
硬質な音が洞窟内に響く。
アリニアの筋肉が強く収縮し、足元の石を踏み割る勢いで衝撃を受け止める。
フリリスは彼女の眼を見た。
その目には、氷のように冷たい知性が宿っていた。
次の瞬間、身を引くように跳び退く。
一瞬の閃光のように、元の暗がりへと消える。
ヴェイルは息を吐いた。
肩に残る緊張が、じわじわと抜けていく。
《……遊ばれてる。完全に……》
それが悔しくてたまらなかった。
だが――次の異変が、それを遮った。
重く、鈍い音が背後から響く。
振り返ると、グラヴァローンが大きく息を吸い込んでいた。
牙の間から、熱い蒸気が漏れ出す。
洞窟の空気が一瞬にして熱を帯びる。
ゆっくりと、巨体が頭を下げる。
「……何を……しようとしてる……?」
全身が警戒で硬直する。
答えは、すぐに明らかになった。
グラヴァローンが、ゆっくりと巨大な前脚を持ち上げる。
地を裂くような重さ。
その爪が、わずかに床にめり込む。
《……来る!》
身構えた瞬間――
ズドォォン!!
凄まじい衝撃が洞窟を揺らす。
地面が割れた。
一瞬にして足元が崩れ、亀裂がヴェイルの足元を襲う。
身体が傾く。
バランスが崩れ、岩の上に倒れ込む。
「っ……クソッ!」
頭の中で警告が鳴り響く。
さっきの一撃は、ただの“踏みつけ”ではなかった。
大地ごと揺るがす、崩壊の咆哮――
必死に立ち上がろうとするヴェイル。
だが――
ドガアァァン!!
次の瞬間、グラヴァローンが突進してきた。
地響きと共に迫るその巨体に、反応が追いつかない――!
反応する間もなかった。
ヴェイルはとっさに身を投げ出し、ギリギリのタイミングで横へと転がる。
揺れでまだ足元がふらつく中、岩の上を滑るように回避する。
その直後――
グラヴァローンの巨体が、轟音と共に岩壁に激突した。
ズガアァァン!!
巨大な石が粉々に砕け、破片が四方に飛び散る。
ヴェイルは顔をしかめた。
《……あと一秒遅れてたら……》
身を起こしながら、息を切らせて立ち上がる。
その頃、アリニアもまた、熾烈な戦いの最中にあった。
フリリスは止まらない。
黒と茶の影が渦のように彼女の周囲を回り、次々と攻撃を繰り出してくる。
一撃を防いだ瞬間には、すでに次の爪が迫っている。
アリニアは爪を受け流し、すかさず後退して牙を避ける。
《……速すぎる。》
額に汗が滲む。
肺は熱を持ち、呼吸が荒くなる。
持久戦になれば、分が悪い。
視線を走らせるが、ヴェイルの様子までは確認できない。
《……このままじゃ、やるしか……》
頭に浮かんだ選択肢を、彼女は即座に振り払う。
《……今はまだ、ダメ。あれを使うには代償が大きすぎる。》
別の方法を探さなければ――
一方、ヴェイルの方も追い詰められていた。
グラヴァローンは遅い。
だが、その一撃一撃が“地震”そのものだった。
呼吸を整える余裕もなく、ただ避け続けるしかない。
そのたびに地が揺れ、岩が裂ける。
再び振り下ろされた前脚を、ギリギリでかわす。
が、その動きに限界が近づいていた。
その時だった。
グラヴァローンの動きが――止まった。
突進の勢いをそのままに、ピタリと足を止める。
「……え?」
ヴェイルも思わず足を止めた。
視線を下げる。
自分が立っているのは――湖の際だった。
グラヴァローンは、その水面を凝視していた。
異様な緊張をはらんだまま、微動だにしない。
《……水を、避けてる?》
ヴェイルの中で、閃きが走る。
息を整える暇もなく、両手を前に突き出した。
マナが腕を駆け抜け、掌に集まっていく。
湖の水が揺れ動き、ゆっくりと宙へと持ち上がる。
手のひらの上、赤い水が球となり、光を反射する。
可能な限り大きく――限界まで引き出す。
疲労が、体に重くのしかかる。
視界が揺れ、一瞬だけ意識が遠のきかける。
「……もう少し……持ってくれ……」
かすれた声で、自分に言い聞かせる。
巨大な水球が完成した。
ヴェイルは、思い切り腕を振った。
――シュバァッ!
水球が一直線に飛ぶ。
グラヴァローンの身体に直撃する。
バシャアアアッ!!
水が爆ぜ、無数の粒が石の隙間に染み込む。
岩の裂け目を伝い、内部へと浸透していく。
その瞬間――
「――ギアアアアアァァア!!」
洞窟中に、地を割くような絶叫が響き渡った。
グラヴァローンの動きが止まる。
そして、天井まで揺るがすような咆哮がこだまする。
あまりの衝撃に、フリリスですら動きを止めた。
静寂の中、ただその一声が響き渡る――
アリニアは再び襲いかかるフリリスの一撃を受け止めていた。
だが、その連続攻撃の中に――
わずかな“隙”が生まれた。
それは、一瞬。
だが、彼女にとっては十分だった。
――チャンス。
そう確信すると同時に、アリニアは重心を外す。
あえて避けず、攻撃の流れに身を任せる。
「……今!」
低く呟いた瞬間、身体が回転する。
刃が弧を描くように閃いた。
――ズバッ!
鋭く振るわれた短剣は、一直線にフリリスの左眼を裂いた。
「ギャアアアッ!!」
地を裂くような咆哮が洞窟中に響く。
フリリスは跳ねるように後退した。
激痛に暴れながら、左目からは黒い体液が流れ出す。
毛並みに染み込むその液体。
呼吸が荒くなり、残された一つの瞳が怒りに燃える。
だが――アリニアはすでに後退し、姿勢を立て直していた。
息は上がっていたが、動きは鋭さを失っていない。
同じ頃、ヴェイルもまた限界に近づいていた。
《……使いすぎた……》
マナを消耗しすぎた代償は、想像以上に重い。
視界が揺れ、全身が重い。
それでも、目を閉じ、呼吸を整える。
洞窟の天井の裂け目から、冷たい風が流れ込んでくる。
《……もう一度だけ……》
心の中で叫ぶように、残された力をかき集めた。
その手の中に、小さな風の球が生まれる。
回転し、唸りを上げながら膨れ上がる。
視界が歪みかける。
だが、踏みとどまる。
――放つ!
風球が一直線に飛ぶ。
グラヴァローンの前足――すでに水で濡れた関節部へと命中する。
ヒュバァァン!!
一瞬で、石が凍りつく。
「……ッ!」
グラヴァローンが再び叫び声を上げた。
凍結と痛みによって、その巨体が一瞬硬直する。
「……今しか、ない……!」
最後の力を脚に込める。
全身のマナを下肢に集中させ、地を蹴った。
ダガーを構え、一直線に跳躍。
――ガキィン!
刃が凍りついた関節を貫いた。
パキン……バキン……!
重たい音と共に、脚が砕け落ちる。
「グアアアァァア!!」
獣の咆哮が洞窟中に響き渡る。
バランスを失ったグラヴァローンの身体が、ゆっくりと、そして重く――
――ドシャアアァン!!
地響きと共に倒れ伏す。
砕けた石が飛び散り、砂塵が舞う。
ヴェイルは一歩退き、肩で息をする。
鼓動が耳を打つ。
呼吸が追いつかない。
その時――
「……ヴェイル、後ろ。」
低く、鋭く、アリニアの声が届いた。
一瞬で全身が凍りつく。
背後から――鈍い音。
《……まだ、終わってない……!》
ぎゅっと短剣を握り直す。
次なる脅威が、すぐそこに――




