第40章:紫の湖
階段を下るたびに、空気の湿り気が一層濃くなっていく。
濡れた石の匂いが空間を満たし、閉ざされた空気が漂っていた。
不快ではないが、重く、沈むような気配――何世紀も封じられていた場所に足を踏み入れたかのような錯覚が、アリニアを先に襲った。
後ろでは、ヴェイルが気だるげに歩いていた。
視線は床に落ちたまま、思考の海に沈んでいる。
――意味なんて、あるのか?
裁きの間の試練すら突破できなかったのに……
心の中で苦々しく呟いた彼の手には、短剣の柄が力強く握られていた。
その指先の緊張が、今の心情を物語っている。
敗北は重くのしかかり、進むたびに道は険しく、不確かなものになっていく。
過去の勝利は霞み、目の前の困難だけが色濃く立ちはだかっていた。
アリニアは何も言わなかった。
彼に視線すら向けず、変わらぬ足取りで淡々と進み続ける。
だが、彼女には分かっていた。
足音のわずかな乱れ、呼吸の深さ――彼の内に渦巻く葛藤を、確かに感じ取っていた。
湿気に腐食された重い扉の前で、アリニアは足を止めた。
片手をそっと扉に置き、何の苦もなくそれを押し開ける。
そして――その光景に、二人は言葉を失った。
そこには、巨大な洞窟が広がっていた。
遥か高く、到底届かぬ位置に空いた自然の穴から、月光が差し込んでいた。
満月の白銀の光が濡れた岩肌を照らし、現実とは思えぬ幻想を描き出していた。
だが、二人の息を止めさせたのは――その中央に広がる湖だった。
完璧に静止し、鏡のような水面。
音もなく、ただそこに在るだけで心を奪う、美しくも不気味な存在。
その水は、赤かった。
深く、鮮やかで、月の光を受けてなお脈動するような赤。
揺らめく光が表面に映り込むたびに、現実の輪郭が薄れていくようだった。
美しさと恐怖が同居する、非現実の光景。
ヴェイルは、足を止めた。
背筋に冷たいものが走る。
「……そんな、馬鹿な……」
彼は呟いたまま、動けなくなる。
その湖――
それは彼の記憶の奥に潜む、あの悪夢を呼び起こした。
森で見た、あの夢。
血のような湖に沈んでいく、自身を呑み込んでいくあの感覚。
違う場所だと分かっている。
でも、理屈では抗えない恐怖が、確かにそこにあった。
「ちびオオカミ?」
アリニアの声が静かに響く。
無機質でありながらも、観察するような抑揚。
ヴェイルは微かに肩を跳ねさせ、すぐに視線を逸らした。
「……綺麗だ。けど……不気味だな。」
どこか空虚な声音で、そう答えた。
だがアリニアには分かっていた。
その一言の裏に隠された、彼の動揺を。
しばらく彼を見つめた後、アリニアは再び前を向いた。
その瞳が、ゆっくりと洞窟の全体を見渡す。
岩壁には緑の苔が張り付き、天井から滴る水が絶え間なく流れ落ちている。
足元には澄んだ水たまりが点在し、青い光を宿していた。
その美しさは、中心に佇む紅の湖と対照的で――
あまりにも、異質だった。
ヴェイルは頭を振り、心にこびりついた不安を払いのけた。
洞窟の中を見渡し、出口になりそうな場所を探す。
だが、そこには何もなかった。
唯一見えるのは、大規模な崩落によって塞がれた通路の痕跡だけ。
「……ちょっと、休んでもいいか?」
そう言って、ヴェイルは眉をひそめた。
アリニアはゆっくりと首を横に振った。
「ダメ。」
即答だった。
「なんでさ? どうせ行き場もないだろ、ここ。」
ヴェイルが不満げに言い返すと――
「森のこと、もう忘れたの? ちびオオカミ。
どうやって終わったか、改めて言わなきゃダメ?」
アリニアの声は静かだったが、その視線は鋭く、威圧感すらあった。
その一言で、ヴェイルの脳裏にあの光景が甦る。
静かな草原、偽りの安らぎ――その直後に襲ってきた、あの恐怖。
「ここでは、何もかもが“静かすぎる”のよ。」
それは、ほとんど囁くような声だった。
沈黙が場を支配する。
空気が重い。
ヴェイルは、再び紅い湖へと視線を向けた。
不安が胸を締めつける。
「……ここには、何かがいる。」
張り詰めた声で、ヴェイルは呟いた。
確信があった。
この場所の空気が、異常だった。
洞窟の壁を伝う水音が、心臓の鼓動と同調するように響いてくる。
ヴェイルはその圧を吐息で追い払い、湖のそばにある岩に向かって歩いた。
重たい足取りで腰を下ろす。
冷たく、ざらついた石の感触が掌に伝わってくる。
彼は乱れた髪をかき上げながら、再び思考の渦へと沈んでいく――
“裁きの間”での敗北が、いまだに頭から離れなかった。
その様子を立ったまま見つめるアリニア。
やや呆れたように、吐き捨てる。
「今、休憩? 本気で言ってるの?」
ヴェイルは顔を上げ、その目線の先に彼女の冷たい視線を見た。
次の叱責が来ると分かっていながら、反論はできない。
「気を抜けば、死ぬって……あの声が言ってたでしょ。
ここで一瞬でも隙を見せたら、それだけで終わりよ。」
アリニアの声は低く、しかし強い意志が込められていた。
ヴェイルは肩をすくめ、ため息をつきながら立ち上がる。
「分かってるよ……でも、何をすればいいんだ?」
疲れ切った声でそう言いながら、彼は再び周囲を見渡す。
広大な洞窟に出口らしきものはない。
湿った石、崩れた岩、そして不気味に広がる紅の湖――
どれもが不穏さを孕んでいた。
ヴェイルは注意深く水辺へと近づいた。
足音が石の床にわずかに響く。
一歩進むごとに、躊躇いが増していく。
だが、それ以上に彼の背を押したのは――抑えきれない好奇心だった。
湖の縁に立ち、身を乗り出す。
透き通るような水面。
だが、底は見えない。
ヴェイルはその深みに目を向けた。
そこに映った自分の顔――
それは、どこか違っていた。
顔つきは険しく、瞳の色は深く沈み、まるで別人のようだった。
わずかに動いた瞬間、映る影がズレて見えた。
“自分自身”が“自分”を見ていたような、奇妙な感覚。
ぞわり、と背筋を這い上がる違和感。
彼は一歩、後ずさった。
「……今のは、なんだ……?」
警戒心を露わにしながら、そう呟いた。
アリニアは距離を保ったまま、無言で彼を観察していた。
「……どうすればいいと思う?」
ヴェイルは水面から視線を外さずに、問う。
アリニアは腕を組み、深く息をつく。
「分からない。
でも一つだけ確かなのは――
このダンジョンは、今まで私が知ってるどんな構造とも違う。」
その言葉には、重みがあった。
洞窟には、再び静寂が満ちる。
だがそれは、ただの静けさではなかった。
不吉な前兆のように、肌にまとわりついてくる沈黙だった。
アリニアの目がわずかに細められる。
《……そして、これで終わりだとは思えない。》
警戒心を滲ませながら、彼女は心の中でそう呟いた。
ヴェイルは小さく頷いた。
「分かってる。……でもさ、進めば進むほど、手に負えなくなってきてる。
俺に……こんな状況、どうやって乗り越えろってんだよ……」
どこか苦い声音でそう言いかけたが――
ふと、言葉が途切れる。
アリニアが片眉を上げ、その微妙な変化を見逃さなかった。
「……そもそも、なんで俺がここにいるのかすら、分かってねぇのに。」
今度の声は、低く、呟くようなものだった。
アリニアは、すぐには返事をしなかった。
ヴェイルが彼女の後をついてきたのは事実。
それについて、深く問うたことはなかった。
だが、彼がこうして言葉にしたのは、初めてだった。
それでも、彼女は問い返さなかった。
無理に聞き出す性分ではない。
話したくなった時に話せばいい――それが、アリニアの流儀だった。
視線を外し、洞窟の暗がりの奥に、何もない一点を見つめる。
その沈黙を破ったのは、ヴェイルだった。
「……アリニア。ちょっと来てくれ。」
突然の声に、彼女は顔を上げた。
ヴェイルは湖の縁に膝をついたまま、異様な集中力を見せていた。
アリニアは慎重に近づく。
視線は常に周囲を払い、警戒を解かない。
「何が見えるの?」
鋭い声音で尋ねる。
ヴェイルは水面を指差した。
「よく見てみろ。……湖の底を。」
その言葉に、アリニアは目を細めた。
赤く濁った水の奥を見つめる。
最初はただの影と光の揺らめきにしか見えなかった。
だが、視線を深く潜らせるほどに、表情が険しくなっていく。
巨大な“何か”が、そこにあった。
水が視界を歪ませ、輪郭までは判然としない。
だが、それは確かに存在していた。
あまりにも大きく、あまりにも不穏な“影”。
「……黒い塊。……でかすぎる。」
アリニアは低く、緊張を帯びた声で言った。
その目に浮かんだ嫌悪感は隠しきれない。
ヴェイルはちらりと彼女を見た後、ためらいがちに言った。
「……近くで確認してみた方がいいかもな。」
真剣な表情ではあったが、どこか好奇心も混じっていた。
アリニアは、即座に彼を睨む。
「やめた方がいい。」
言葉に一切の揺らぎはなかった。
ヴェイルは眉をひそめる。
「でも、もしかしたら出口かもしれないだろ?」
「……それが墓穴だったら、どうするの?」
鋭い語気で、アリニアが切り返す。
再び、沈黙が落ちた。
ヴェイルは唇をかみ、視線を湖に戻した。
彼女の言うことはもっともだ。
だが、ここに留まっていても、何も変わらない。
この湖の下にある“それ”が、ただの岩であるはずがない。
本能が、そう告げていた。
思考に沈みかけたその瞬間――
寒気が、首筋を撫でた。
ヴェイルは一歩後ろに下がり、頭を振ってその感覚を振り払う。
そして、洞窟の一角にある大きな岩のそばへと歩き、腰を下ろした。
分からない。
何一つ、理解できない。
この湖も、異様な静けさも、空気に混じる得体の知れぬ“重み”も。
何かが違う。
何かが、間違っている。
考えなければ――
この先に進むには、答えを見つけるしかない。
アリニアは水辺に立ったまま、赤く染まる湖面を見つめていた。
だが、その瞳はもはや目の前の景色を捉えてはいなかった。
思考は彷徨っていた。
このダンジョンの試練、そこから浮かび上がる真実。
そして、ヴェイルという存在。
無謀で、無防備で、それでいてどこか……まっすぐな。
彼女の眉間に、わずかな皺が寄る。
《……この迷宮は、私たちを弄んでる。
理屈なんて、通じない。》
苛立ちと警戒が混じった思考が、胸の奥で渦巻く。
一方、ヴェイルは岩に体を預けながらも、ふと違和感に気づいた。
石の冷たさ――そのはずが、温もりがあった。
「……ん?」
眉をひそめ、手のひらを滑らせる。
ごつごつとした岩肌。
だが、そこに宿る熱は明らかに異質だった。
《中から……何かの“熱”が伝わってくる……?》
アリニアを振り返り、声をかける。
「なあ、この岩……変だ。熱い。」
アリニアは視線だけで彼を捉えた。
水面から目を離さずにいたが、その言葉にわずかに警戒を強めた。
だが、ヴェイルがそう言い終えるより先に――
石が震えた。
「……まさか……」
声が途切れる。
岩の隙間から、白い蒸気が噴き出す。
驚いたように手を引き、思わず一歩下がる。
「下がって、今すぐ。」
アリニアの声が鋭く響く。
ヴェイルは即座に従った。
そして、次の瞬間――
その「岩」が、動き始めた。
ゴゴゴッ……という低い音と共に、岩が開き、形を変えていく。
まるで装甲のように、重厚な岩の板が持ち上がる。
まず現れたのは、しなる尾。
先端は棘のように尖り、ゆっくりと揺れながら重心を測るように動いていた。
続いて現れたのは――胴体。
筋肉のように隆起する岩の塊が、地面を揺らしながら姿を現す。
ただの岩ではない。
それは、“擬態”だった。
巨躯の後脚が地を叩く。
鋭く湾曲した爪が、四本前方に、一つだけ内側へと向けられていた。
何かを掴み、砕くための形。
前足もまた巨大。
全身を揺らしながら、そいつはゆっくりと立ち上がった。
ガラガラ……バキン……
岩が軋む音と共に、頭部が現れる。
ヴェイルは息を飲んだ。
漆黒の角が、二本。
まるで黒曜石の槍のように湾曲しながら天を指す。
顎の下には、鋭利な岩刃が二枚――斜めに突き出していた。
だが、最も異様だったのは――その瞳。
純白のスリット状の眼。
瞳孔も虹彩もなく、ただ“冷たい存在感”だけがそこにあった。
そして、口が開く。
ゴリッ、という音と共に、岩をも噛み砕けそうな巨大な牙が露わになる。
ヴェイルは即座に立ち上がり、腰の短剣に手をかけた。
アリニアも一歩横へ跳び、流れるような動きで狼の爪を展開する。
その怪物は、一つずつ岩の節を鳴らしながら動いた。
身体の節々には無数の亀裂が走っている。
だが、それは欠損ではなかった。
“しなやかさ”を持たせるための構造――まるで、岩でできた蛇のようだった。
ヴェイルは唾を飲み込む。
《こんな岩の塊、普通の武器でどう戦えってんだよ……!?》
怪物が、僅かに顔を持ち上げた。
――静寂。
息苦しいほどの沈黙の中で、そいつは――
深く、息を吸い込んだ。




