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氷結の夜明けの果て (R16)  作者: Wolfy-UG6
プロローグ - 第3巻:ダンジョンの影 Pt.2
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第40章:紫の湖

階段を下るたびに、空気の湿り気が一層濃くなっていく。

濡れた石の匂いが空間を満たし、閉ざされた空気が漂っていた。

不快ではないが、重く、沈むような気配――何世紀も封じられていた場所に足を踏み入れたかのような錯覚が、アリニアを先に襲った。


後ろでは、ヴェイルが気だるげに歩いていた。

視線は床に落ちたまま、思考の海に沈んでいる。


――意味なんて、あるのか?

裁きの間の試練すら突破できなかったのに……


心の中で苦々しく呟いた彼の手には、短剣の柄が力強く握られていた。

その指先の緊張が、今の心情を物語っている。

敗北は重くのしかかり、進むたびに道は険しく、不確かなものになっていく。

過去の勝利は霞み、目の前の困難だけが色濃く立ちはだかっていた。


アリニアは何も言わなかった。

彼に視線すら向けず、変わらぬ足取りで淡々と進み続ける。

だが、彼女には分かっていた。

足音のわずかな乱れ、呼吸の深さ――彼の内に渦巻く葛藤を、確かに感じ取っていた。


湿気に腐食された重い扉の前で、アリニアは足を止めた。

片手をそっと扉に置き、何の苦もなくそれを押し開ける。


そして――その光景に、二人は言葉を失った。


そこには、巨大な洞窟が広がっていた。

遥か高く、到底届かぬ位置に空いた自然の穴から、月光が差し込んでいた。

満月の白銀の光が濡れた岩肌を照らし、現実とは思えぬ幻想を描き出していた。


だが、二人の息を止めさせたのは――その中央に広がる湖だった。


完璧に静止し、鏡のような水面。

音もなく、ただそこに在るだけで心を奪う、美しくも不気味な存在。


その水は、赤かった。


深く、鮮やかで、月の光を受けてなお脈動するような赤。

揺らめく光が表面に映り込むたびに、現実の輪郭が薄れていくようだった。

美しさと恐怖が同居する、非現実の光景。


ヴェイルは、足を止めた。

背筋に冷たいものが走る。


「……そんな、馬鹿な……」

彼は呟いたまま、動けなくなる。


その湖――

それは彼の記憶の奥に潜む、あの悪夢を呼び起こした。

森で見た、あの夢。

血のような湖に沈んでいく、自身を呑み込んでいくあの感覚。


違う場所だと分かっている。

でも、理屈では抗えない恐怖が、確かにそこにあった。


「ちびオオカミ?」

アリニアの声が静かに響く。

無機質でありながらも、観察するような抑揚。


ヴェイルは微かに肩を跳ねさせ、すぐに視線を逸らした。


「……綺麗だ。けど……不気味だな。」

どこか空虚な声音で、そう答えた。


だがアリニアには分かっていた。

その一言の裏に隠された、彼の動揺を。


しばらく彼を見つめた後、アリニアは再び前を向いた。

その瞳が、ゆっくりと洞窟の全体を見渡す。


岩壁には緑の苔が張り付き、天井から滴る水が絶え間なく流れ落ちている。

足元には澄んだ水たまりが点在し、青い光を宿していた。


その美しさは、中心に佇む紅の湖と対照的で――

あまりにも、異質だった。


ヴェイルは頭を振り、心にこびりついた不安を払いのけた。

洞窟の中を見渡し、出口になりそうな場所を探す。

だが、そこには何もなかった。

唯一見えるのは、大規模な崩落によって塞がれた通路の痕跡だけ。


「……ちょっと、休んでもいいか?」

そう言って、ヴェイルは眉をひそめた。


アリニアはゆっくりと首を横に振った。


「ダメ。」


即答だった。


「なんでさ? どうせ行き場もないだろ、ここ。」


ヴェイルが不満げに言い返すと――


「森のこと、もう忘れたの? ちびオオカミ。

どうやって終わったか、改めて言わなきゃダメ?」


アリニアの声は静かだったが、その視線は鋭く、威圧感すらあった。


その一言で、ヴェイルの脳裏にあの光景が甦る。

静かな草原、偽りの安らぎ――その直後に襲ってきた、あの恐怖。


「ここでは、何もかもが“静かすぎる”のよ。」


それは、ほとんど囁くような声だった。


沈黙が場を支配する。

空気が重い。

ヴェイルは、再び紅い湖へと視線を向けた。

不安が胸を締めつける。


「……ここには、何かがいる。」


張り詰めた声で、ヴェイルは呟いた。


確信があった。

この場所の空気が、異常だった。

洞窟の壁を伝う水音が、心臓の鼓動と同調するように響いてくる。


ヴェイルはその圧を吐息で追い払い、湖のそばにある岩に向かって歩いた。

重たい足取りで腰を下ろす。


冷たく、ざらついた石の感触が掌に伝わってくる。

彼は乱れた髪をかき上げながら、再び思考の渦へと沈んでいく――

“裁きの間”での敗北が、いまだに頭から離れなかった。


その様子を立ったまま見つめるアリニア。

やや呆れたように、吐き捨てる。


「今、休憩? 本気で言ってるの?」


ヴェイルは顔を上げ、その目線の先に彼女の冷たい視線を見た。

次の叱責が来ると分かっていながら、反論はできない。


「気を抜けば、死ぬって……あの声が言ってたでしょ。

ここで一瞬でも隙を見せたら、それだけで終わりよ。」


アリニアの声は低く、しかし強い意志が込められていた。


ヴェイルは肩をすくめ、ため息をつきながら立ち上がる。


「分かってるよ……でも、何をすればいいんだ?」


疲れ切った声でそう言いながら、彼は再び周囲を見渡す。

広大な洞窟に出口らしきものはない。

湿った石、崩れた岩、そして不気味に広がる紅の湖――

どれもが不穏さを孕んでいた。


ヴェイルは注意深く水辺へと近づいた。

足音が石の床にわずかに響く。


一歩進むごとに、躊躇いが増していく。

だが、それ以上に彼の背を押したのは――抑えきれない好奇心だった。


湖の縁に立ち、身を乗り出す。

透き通るような水面。

だが、底は見えない。

ヴェイルはその深みに目を向けた。


そこに映った自分の顔――

それは、どこか違っていた。


顔つきは険しく、瞳の色は深く沈み、まるで別人のようだった。

わずかに動いた瞬間、映る影がズレて見えた。

“自分自身”が“自分”を見ていたような、奇妙な感覚。


ぞわり、と背筋を這い上がる違和感。

彼は一歩、後ずさった。


「……今のは、なんだ……?」


警戒心を露わにしながら、そう呟いた。


アリニアは距離を保ったまま、無言で彼を観察していた。


「……どうすればいいと思う?」


ヴェイルは水面から視線を外さずに、問う。


アリニアは腕を組み、深く息をつく。


「分からない。

でも一つだけ確かなのは――

このダンジョンは、今まで私が知ってるどんな構造とも違う。」


その言葉には、重みがあった。


洞窟には、再び静寂が満ちる。

だがそれは、ただの静けさではなかった。

不吉な前兆のように、肌にまとわりついてくる沈黙だった。


アリニアの目がわずかに細められる。


《……そして、これで終わりだとは思えない。》


警戒心を滲ませながら、彼女は心の中でそう呟いた。


ヴェイルは小さく頷いた。


「分かってる。……でもさ、進めば進むほど、手に負えなくなってきてる。

俺に……こんな状況、どうやって乗り越えろってんだよ……」


どこか苦い声音でそう言いかけたが――


ふと、言葉が途切れる。


アリニアが片眉を上げ、その微妙な変化を見逃さなかった。


「……そもそも、なんで俺がここにいるのかすら、分かってねぇのに。」


今度の声は、低く、呟くようなものだった。


アリニアは、すぐには返事をしなかった。


ヴェイルが彼女の後をついてきたのは事実。

それについて、深く問うたことはなかった。

だが、彼がこうして言葉にしたのは、初めてだった。


それでも、彼女は問い返さなかった。

無理に聞き出す性分ではない。

話したくなった時に話せばいい――それが、アリニアの流儀だった。


視線を外し、洞窟の暗がりの奥に、何もない一点を見つめる。


その沈黙を破ったのは、ヴェイルだった。


「……アリニア。ちょっと来てくれ。」


突然の声に、彼女は顔を上げた。

ヴェイルは湖の縁に膝をついたまま、異様な集中力を見せていた。


アリニアは慎重に近づく。

視線は常に周囲を払い、警戒を解かない。


「何が見えるの?」


鋭い声音で尋ねる。


ヴェイルは水面を指差した。


「よく見てみろ。……湖の底を。」


その言葉に、アリニアは目を細めた。

赤く濁った水の奥を見つめる。


最初はただの影と光の揺らめきにしか見えなかった。

だが、視線を深く潜らせるほどに、表情が険しくなっていく。


巨大な“何か”が、そこにあった。


水が視界を歪ませ、輪郭までは判然としない。

だが、それは確かに存在していた。

あまりにも大きく、あまりにも不穏な“影”。


「……黒い塊。……でかすぎる。」


アリニアは低く、緊張を帯びた声で言った。


その目に浮かんだ嫌悪感は隠しきれない。


ヴェイルはちらりと彼女を見た後、ためらいがちに言った。


「……近くで確認してみた方がいいかもな。」


真剣な表情ではあったが、どこか好奇心も混じっていた。


アリニアは、即座に彼を睨む。


「やめた方がいい。」


言葉に一切の揺らぎはなかった。


ヴェイルは眉をひそめる。


「でも、もしかしたら出口かもしれないだろ?」


「……それが墓穴だったら、どうするの?」


鋭い語気で、アリニアが切り返す。


再び、沈黙が落ちた。


ヴェイルは唇をかみ、視線を湖に戻した。

彼女の言うことはもっともだ。

だが、ここに留まっていても、何も変わらない。


この湖の下にある“それ”が、ただの岩であるはずがない。

本能が、そう告げていた。


思考に沈みかけたその瞬間――

寒気が、首筋を撫でた。


ヴェイルは一歩後ろに下がり、頭を振ってその感覚を振り払う。

そして、洞窟の一角にある大きな岩のそばへと歩き、腰を下ろした。


分からない。

何一つ、理解できない。


この湖も、異様な静けさも、空気に混じる得体の知れぬ“重み”も。

何かが違う。

何かが、間違っている。


考えなければ――

この先に進むには、答えを見つけるしかない。


アリニアは水辺に立ったまま、赤く染まる湖面を見つめていた。

だが、その瞳はもはや目の前の景色を捉えてはいなかった。


思考は彷徨っていた。

このダンジョンの試練、そこから浮かび上がる真実。

そして、ヴェイルという存在。

無謀で、無防備で、それでいてどこか……まっすぐな。


彼女の眉間に、わずかな皺が寄る。


《……この迷宮は、私たちを弄んでる。

理屈なんて、通じない。》


苛立ちと警戒が混じった思考が、胸の奥で渦巻く。


一方、ヴェイルは岩に体を預けながらも、ふと違和感に気づいた。

石の冷たさ――そのはずが、温もりがあった。


「……ん?」


眉をひそめ、手のひらを滑らせる。

ごつごつとした岩肌。

だが、そこに宿る熱は明らかに異質だった。


《中から……何かの“熱”が伝わってくる……?》


アリニアを振り返り、声をかける。


「なあ、この岩……変だ。熱い。」


アリニアは視線だけで彼を捉えた。

水面から目を離さずにいたが、その言葉にわずかに警戒を強めた。


だが、ヴェイルがそう言い終えるより先に――

石が震えた。


「……まさか……」


声が途切れる。


岩の隙間から、白い蒸気が噴き出す。

驚いたように手を引き、思わず一歩下がる。


「下がって、今すぐ。」


アリニアの声が鋭く響く。


ヴェイルは即座に従った。


そして、次の瞬間――


その「岩」が、動き始めた。


ゴゴゴッ……という低い音と共に、岩が開き、形を変えていく。

まるで装甲のように、重厚な岩の板が持ち上がる。


まず現れたのは、しなる尾。

先端は棘のように尖り、ゆっくりと揺れながら重心を測るように動いていた。


続いて現れたのは――胴体。


筋肉のように隆起する岩の塊が、地面を揺らしながら姿を現す。

ただの岩ではない。

それは、“擬態”だった。


巨躯の後脚が地を叩く。

鋭く湾曲した爪が、四本前方に、一つだけ内側へと向けられていた。

何かを掴み、砕くための形。


前足もまた巨大。

全身を揺らしながら、そいつはゆっくりと立ち上がった。


ガラガラ……バキン……


岩が軋む音と共に、頭部が現れる。


ヴェイルは息を飲んだ。


漆黒の角が、二本。

まるで黒曜石の槍のように湾曲しながら天を指す。

顎の下には、鋭利な岩刃が二枚――斜めに突き出していた。


だが、最も異様だったのは――その瞳。


純白のスリット状の眼。

瞳孔も虹彩もなく、ただ“冷たい存在感”だけがそこにあった。


そして、口が開く。


ゴリッ、という音と共に、岩をも噛み砕けそうな巨大な牙が露わになる。


ヴェイルは即座に立ち上がり、腰の短剣に手をかけた。

アリニアも一歩横へ跳び、流れるような動きで狼の爪を展開する。


その怪物は、一つずつ岩の節を鳴らしながら動いた。

身体の節々には無数の亀裂が走っている。

だが、それは欠損ではなかった。

“しなやかさ”を持たせるための構造――まるで、岩でできた蛇のようだった。


ヴェイルは唾を飲み込む。


《こんな岩の塊、普通の武器でどう戦えってんだよ……!?》


怪物が、僅かに顔を持ち上げた。


――静寂。


息苦しいほどの沈黙の中で、そいつは――


深く、息を吸い込んだ。

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