第38章:審判の神殿
降りるごとに、階段の周囲は変わり始めていた。
最初はごつごつとした岩肌だった壁が、次第に滑らかで人工的なものへと姿を変えていく。
経年によって刻まれた亀裂とひび割れが、自然と人為の境を曖昧にしながら――
二人は、重々しい沈黙の中、ひたすら足を進めていた。
空気はどこか重く、張り詰めている。
まるでこの空間そのものが、彼らを見つめ、試しているかのようだった。
そして、階段の終わりにたどり着いたとき――
二人の前に、巨大な石の扉が現れた。
アリニアは一歩前に出ると、冷たく無機質な扉にそっと手を添えた。
表面には、見たことのない文様が刻まれている。
彼女は眉をひそめながら、ゆっくりとその扉を押した。
ギィィ――
鈍く、低い音を立てて、扉がゆっくりと開く。
その先に広がっていたのは――予想を遥かに超える荘厳な光景だった。
白い大理石で統一された内部。
そこに金と銀の脈が走り、天井は高く、美しく弧を描いてそびえている。
その天井には、神聖さを感じさせる複雑な文様がびっしりと彫り込まれていた。
壁を彩るフレスコ画は、まるで忘れ去られた神話の断片のように――
遥か昔の物語を、静かに語っていた。
アリニアは細めた目で、それらの絵を見つめた。
そして、静かに呟いた。
「……この壁画……女神様……? どうしてここに……? 女神は、ダンジョンなんて創らないはずなのに……」
背筋に、ゾクリと寒気が走る。
この地に、こんな神聖な存在が描かれていること自体がおかしかった。
アリニアは、無意識にヴェイルの方へ視線を送る。
彼は黙って彼女を見つめていた。好奇心と、どこか不安を孕んだ眼差しで。
「……何かわかるのか?」
彼の問いに、アリニアは首を横に振った。
「……わからない。でも、これは……“普通じゃない”」
その返答は、冷たく断ち切るような響きを持っていた。
そして――
壁画の中央に刻まれた一文が、二人の視線を引きつける。
美しい曲線で構成された、完璧な文字列。
《審判の神殿》
その言葉を読んだ瞬間、アリニアの胸が締めつけられるように痛んだ。
その名に聞き覚えはなかった。
壁に描かれた神の姿も、この場所も――
どんな記録にも、どんな伝承にも存在していない。
まるで、世界から切り離された“存在しないはずの空間”。
「審判の神殿……聞いたことあるか?」
ヴェイルが問いかける。
アリニアは無言で首を振ったが、その表情には明らかな動揺が浮かんでいた。
ヴェイルはゆっくりと、部屋の中央へと足を踏み入れる。
そこには――奇妙な模様が刻まれた、大理石の床が広がっていた。
三つの円が、完璧な精度で重なり合っている。
手前の第一円には、等間隔に石柱が並んでいた。
それぞれが規則的に区切られ、見事なまでの対称性を成している。
第二円は、第一円とその石柱たちによって隔てられ、奇妙な“境界”を生み出していた。
それは、何かを拒み、何かを許すための“線”のように見えた。
そして――
第三円。
その空間に、彼の目が奪われた。
空中に浮かぶ、いくつもの結晶。
ゆっくりと、滑らかに回転しながら、円の縁をなぞるように漂っている。
紺碧の輝きを放つその光は、幻想的でありながら、どこか冷たい。
天井からの光も、魔力の流れも感じられない。
なのに、空間全体が“呼吸するような静寂”に満たされていた。
それはまるで――
“何か”が、この神殿でずっと目覚めるのを待っていたかのようだった。
《……ありえない……これほどの精度、王都の職人たちでも到底作れない……》
アリニアは、無言のまま床に片膝をついた。
そして指先で、円の滑らかな表面をそっとなぞる。
ザラつき一つない、完璧な仕上がり。
彼女がこれまでに見てきた遺跡や神殿――そのどれとも異なる感触だった。
ヴェイルもその隣にしゃがみ込み、目を輝かせながら言った。
「ってことはさ……ここに来たの、俺たちが初めてってことじゃない?」
その無邪気な言葉に、アリニアはぴしゃりと冷たく言い返した。
「これは遊びじゃないの、ちびオオカミ。この場所は……これまでの“すべて”を超えてる」
言葉に込められた切迫感が、空気を刺すように張り詰めさせた。
彼女は立ち上がり、警戒の眼差しを空間全体に走らせる。
この神殿に“偶然”はなかった。
一つひとつの装飾、一段ごとの床材さえ、意図と意味に満ちている。
静寂は続く。
ただ、自分たちの足音だけが、かすかに反響していた。
ヴェイルはそんなアリニアの横顔を見つめた。
彼女の中に、今まで見たことのない“迷い”がある。
それが、彼の心をざわつかせた。
「……進んでも……大丈夫かな?」
そう問う彼の声に、アリニアは短く答えなかった。
代わりに、静かにダガーに手を添える。
そして、呟いた。
「……審判……」
重たく沈む声。
そして、ヴェイルを見つめながら、きっぱりと言い切った。
「行くわよ。……私の側から離れないで。無茶は絶対にしないこと」
鋭い声だった。
その命令に、ヴェイルは真剣な面持ちで頷いた。
遊びではない。
今の彼にも、それがわかった。
そして二人は、慎重に足を運び、中央の円へと向かっていく。
その時――
空気が、震えた。
ヴゥゥゥ……
鈍く、低く響く音が、空間に満ちていく。
結晶が微かに振動し、まるで共鳴するように淡く輝き始める。
不思議な旋律が、空気を震わせ、心臓の鼓動と重なっていくようだった。
そして――
部屋の奥、巨大な影が、視界に入った。
「……!」
そこに立っていたのは――
威厳すら感じさせる、巨大な彫像だった。
両の腕で大きな戦槌を抱え、動くことなく沈黙している。
その磨き上げられた大理石の肉体には、銀のラインが細かく走っていた。
まるで血管のように、装甲の曲線に沿って彫り込まれている。
その関節部には、円形の機構が何層にも重なり、回転構造のような意匠が施されていた。
まるで、いつでも動き出せる――そんな錯覚を与える完璧な構造。
アリニアとヴェイルは、無言で視線を交わす。
荘厳な美しさが、逆に不気味だった。
どこを見ても完璧な構造、それがむしろ“不自然”だった。
この神殿は――ただの遺構ではない。
“何か”が、ここに息づいている。
「……これ、動くと思う?」
ヴェイルが、息を呑むように尋ねた。
アリニアは、視線を外さずに答えた。
「わからない。でも、油断は禁物よ」
その言葉が終わった直後。
――カチン。
金属の打ち合わさる、乾いた音が響いた。
空気が、凍りつく。
その一音が、すべての始まりだった。
乾いた音が、空間を貫いた。
ヴェイルはビクリと身を震わせた。
宙に浮いていた結晶が、ピタリとその回転を止める。
静寂が戻った――いや、それ以上に“重たい”静寂だった。
さっきまで鳴っていた振動音の方が、まだ気が紛れていたかもしれない。
彼は思わず足元を見る。
何か踏んだのか? 仕掛けがあったのか?
だが――何もなかった。
不安に駆られたヴェイルは、助けを求めるようにアリニアを見た。
「……今の、俺……? なんか触っちゃった……?」
「――柱を見て」
アリニアの声は鋭く、容赦がなかった。
彼女の視線の先には、円を取り囲む巨大な石柱たちがあった。
その表面が、かすかに揺れ動いている。
「……っ」
次の瞬間、柱たちが――動き始めた。
ゴゴゴゴゴ……!
床の下から伝わる重低音。
隠された歯車のような構造が軋む音とともに、それぞれの柱がゆっくりと回転を始める。
その動きに合わせて、柱の側面から細い隙間が現れ、そこからぼんやりとした淡い光が漏れ出していた。
胸騒ぎが、加速する。
ヴェイルは無意識のうちにアリニアのそばへ寄った。
背筋に走る緊張が、彼の本能に警鐘を鳴らしていた。
「……動くか?」
息を潜めるようにそう言った次の瞬間――
一つの柱が、突如として停止した。
――カチン!
重い金属音と共に、その中心に開口部が出現。
そこから――
黄金の光が、溢れ出した。
「伏せて! ちびオオカミ!」
アリニアの怒鳴り声と同時に、彼女の手がヴェイルの襟を掴んだ。
思い切り横へと投げ飛ばす。
直後――
ヴシュッ――!!!
一筋の純白の光が、唸りを上げて走った。
空間を切り裂くように一直線に飛び、部屋の反対側にある柱へと命中する。
その瞬間、部屋全体が閃光に包まれた。
ヴェイルとアリニアの影が、床に歪んで投げ出される。
ヴェイルは地面を転がり、息を荒げながら体を起こした。
再び、柱がゆっくりと回転を再開するのが見えた――
だが、その時。
もう一つの柱が、音を立てて止まる。
今度は――開口部が、二つ。
「集中して!」
アリニアが叫ぶ。
その声に、ヴェイルは条件反射のように意識を研ぎ澄ませる。
最初の開口部から放たれた光線が、彼の横をかすめるように通り過ぎた。
熱が肌を刺し、汗が滲む。
まるで触れずとも焼かれるような感覚――
ヴェイルは転がるように後退した。
その直後、もう一つの開口部から放たれた光が、空中の結晶に命中する。
バチン!
光が砕けた。
爆ぜるように無数の光線が飛び散り、空間を乱れたレーザーが跳ね回る。
アリニアとヴェイルは、反射的に床に伏せた。
直後――彼らのすぐ上を、数本の光が斬り裂いていく。
「絶対に触れちゃダメよ! あれは……当たれば即死よ!」
アリニアの声は怒気混じりの命令だった。
だが、そこには恐れや焦りではなく――冷徹な確信があった。
ヴェイルの鼓動が、耳の奥で暴れまわる。
逃げ場のない空間。
どこに跳ねるか予測できない光。
「ッ……クソ……!」
彼の目に映るのは、四方八方に反射しながら暴れ狂う光線群。
滑らかな大理石の床、壁、柱――
どれもが鏡のように反射を引き起こし、攻撃の角度と範囲を拡大させていた。
ここは“審判の神殿”。
その名の通り、試す者すべてに対し、“生”と“死”を突きつけてくる場だった。
《……ここで死ぬ……? いや、ダメだ……集中しろ……!》
ヴェイルは心の中で叫びながら、汗を拭う余裕もなく地を這った。
熱線はなおも空間を斜めに走り、予測不能な軌道であちこちを貫いていた。
額には冷や汗が浮かび、指先が震える。
だが、それでも彼の視線は、動かないままの“あれ”を捉えていた。
――あの巨像が持つ、巨大な戦槌。
まるでいつでも振り下ろされるかのような、沈黙の威圧。
アリニアはその間も冷静だった。
柱の回転を見据え、規則性を見出そうとしていた。
《……必ず、パターンがある。動きに法則性があるはず……それを見つける前に……潰されるわけにはいかない……》
「……どうすれば……?」
ヴェイルが息を切らしながら問いかけた。
アリニアの声は短く、鋭かった。
「進むわよ。低姿勢を保って、私の合図を待って。……それと、余計なことはしないこと」
それは命令だった。
彼女の目には、一切の迷いがなかった。
光線は彼らのすぐそばをかすめ、肌を焼くような熱が流れていく。
その中で、アリニアは動かずに観察を続けていた。
そして――
一筋の光が、ふっと消える。
対応する柱が、動きを止めたまま、再起動しない。
「……!」
沈黙が訪れる。
まるで、神殿そのものが“間”を取っているようだった。
「……ついてきて」
アリニアは小さな声でそう告げる。
その声に、ヴェイルは不安げな表情で尋ね返す。
「……今の、何か見えたのか?」
アリニアは頷き、床を指差した。
第一の円、その表面は滑らかで、どこにも焼け焦げた痕がない。
「この円……一度も熱線が通ってない。つまりここなら、安全に動ける可能性が高い」
確信に満ちた声音だった。
ヴェイルは息を飲み、小さく頷く。
二人は身を低く保ったまま、慎重に、冷たい大理石の上を滑るように進んだ。
空気は熱で揺らぎ、呼吸するたびに肺が焼けるようだった。
そのとき――
アリニアがヴェイルを追い越そうとした瞬間。
彼が小さく手を後ろに差し出し、目を閉じながら囁いた。
「……ストップ、ストップ……ちょっと待って……!」
突然の制止に、アリニアは思わず眉をひそめた。
「何よ、ちびオオカミ?」
苛立ちを隠さずに囁く彼女に、ヴェイルは気まずそうに、自分の脚を指差した。
「……えっと……その、今……アリニアの脚、めっちゃ俺の顔のすぐ前で……その……いろいろ……」
しどろもどろに言う彼の言葉に、アリニアの頬が――ほんのりと、熱を帯びた。
集中していた彼女は、その“距離”に気づいてすらいなかった。
「……バカ。集中しなさい、アリニア……」
心の中で自分を叱るようにそう呟きながら、彼女はそっぽを向いた。
顔を背け、無言で頷く。
あくまで“平然”を装いながら――
その鼓動が、ほんの少し速くなっていることには、まだ気づかれたくなかった。
「……早く、行きなさい」
アリニアは短く、冷たくそう言い放った。
ヴェイルは頷くと、地を這うような低姿勢のまま前へ進んだ。
彼のすぐ後ろをアリニアが追い、足取りひとつ乱さず、その動きを見守る。
そして――
二人は、第一の円と第二の円の境界へと到達した。
その瞬間。
――カチン!
乾いた金属音が、空間を断ち切った。
「走って!!」
アリニアの叫びは鋭く、即座に行動へと繋がった。
次の瞬間――
すべての柱が一斉に、重く動き始めた。
バシュン! バシュン! バシュン!
眩い光の奔流が、柱の内部から溢れ出す。
構造の奥深くで脈動していた何かが、ついに解放された。
「くそっ――!!」
ヴェイルは叫びながら、立ち上がる。
二人は一気に駆け出し、近くの柱へと全力で走った。
大理石の床をブーツが叩く音が、鼓動と共鳴する。
そのとき――
部屋全体が、白に染まった。
強烈な閃光が、空間すべてを包み込んだ。
視界が焼け、思わず目を閉じる。
灼熱の光線が交錯し、爆音のように空気を裂いていく。
――間一髪。
二人は、巨大な柱の陰に飛び込んだ。
背中が冷たい石に触れ、息が荒くなっているのがわかる。
まるで自分の鼓動が、光の音に紛れて聞こえなくなるほどに激しい。
「……焼き殺される……! もうだめだろ、これ……!」
焦燥に駆られるヴェイルの声。
だが、アリニアは即座に返した。
「落ち着いて。……光は結晶に反射してる。柱の影を使えば、道は作れる」
彼女の声には、僅かながら冷静さが残っていた。
だが、その瞳には、確実に“限界”の色も浮かび始めていた。
アリニアは目を細めて、空間の動きを観察する。
空中の結晶が放つ光線は、無数に交錯し、刻一刻とその配置を変えている。
影の入り込む隙間はない。
動けば焼かれる。
それほどまでに、空間は“制圧”されていた。
「……ダメだ。完全に包囲されてる。影も、隙も……何もない……」
呟くように、アリニアが言った。
彼女の顔に浮かぶ焦り。
それは、これまで一度も見せなかった表情だった。
「ここに閉じ込めるための構造……動かせない……疲れさせて、反応を鈍らせて……ミスを待ってる……」
計算され尽くした絶望。
まさに“審判”と呼ぶにふさわしい空間だった。
ヴェイルは、その言葉の意味を理解した瞬間、全身が冷たくなった。
汗は滝のように流れ、熱と恐怖が混ざり合い、息が上がる。
「……どうすんだよ、これ……動けない……俺たち、終わり……?」
アリニアは答えなかった。
ただ、鋭い目で光の動きだけを見つめていた。
彼女の思考は、極限まで回転していた。
今、彼女にできるのは――“見つける”こと。
この完璧な地獄に、わずかでも存在する“抜け道”を。
「……出口が、あるって言ってくれよ……」
ヴェイルが搾り出すように呟いた。
その目に浮かぶ恐怖を、アリニアは無言で受け止めた。
だが、共鳴はしない。
――今は、彼女が崩れるわけにはいかなかった。
「集中して、ちびオオカミ。……パニックになるな。必ず“抜け道”はある」
その言葉は静かだったが、鋭く突き刺さるような力強さを帯びていた。
アリニアは一度、目を閉じた。
乱れる呼吸を抑え、鼓動の音に耳を澄ませる。
心臓の鼓動は、自分のものとは思えないほど激しく鳴っていた。
その鼓動が、周囲の光の脈動と共鳴しているようにも感じられた。
そして、目を開く。
視線はまっすぐに、目の前の柱へ。
《……このトラップが起動したのは、ちびオオカミが円を越えた瞬間。ということは、床に“反応装置”がある可能性が高い。もしくは、魔力感知のセンサー……?》
彼女は足元を見つめ、柱の基部へと視線を移した。
そこには、わずかに沈み込んだ溝が走っている。
目を凝らさなければ見逃すほどに細く、だが確かに存在していた。
《機構がある……起動の仕組みがあるなら、解除の仕組みもあるはず……》
彼女の集中力は、極限まで高まっていた。
一方で、ヴェイルは落ち着かずに、なおも交錯する熱線を見つめている。
呼吸は荒く、肌に浮かぶ汗が焼けるように熱い。
その恐怖が、彼を突き動かす。
「……じっとしてるだけなんて……無理だって……」
そう呟き、立ち上がろうとしたその瞬間。
アリニアが素早く手を上げ、低く命じた。
「動くな」
その一言は、まるで刃のようだった。
彼女は柱に手を伸ばし、手袋越しに彫刻の溝をなぞる。
細やかな模様の中に、わずかな違和感――微かな凹みを見つける。
その場所に、指先が触れた。
――カチン。
かすかな音がした。
その瞬間、彼女の体がぴたりと止まる。
目は結晶を見据えたまま、全身を硬直させる。
「な……何したんだ?」
不安そうに問いかけるヴェイルに、アリニアは冷静に答えた。
「……まだ、何も」
その答えが終わるより早く、熱線の唸りが再び空間を満たす。
光が踊るように部屋を走り、呼吸すら熱くなっていく。
そして――
――すべてが、止まった。
光が消えた。
ただの暗闇ではない。
光はある。だが、それは柔らかな、初めに彼らを包んだあの淡い光。
空気の中の熱はまだ残っているが、閃光のような威圧はない。
「……な、なんで……止まった……?」
ヴェイルは困惑しながらも息を整え、柱の陰から顔を出す。
だがその先にあったのは、先ほどまでの地獄とはまるで違う風景だった。
熱線は消え、結晶は静かにその輝きを落としている。
空気は未だに重く、衣服には汗が染み込んでいたが――死の気配は、いったん退いていた。
アリニアはゆっくりと立ち上がり、辺りを警戒する。
彼女の耳が、ぴくりと震える。
何かが“変わった”のだ。
それは、罠が解除されたという安堵ではなく――
「……私は、何もしていない」
静かに、そして不安げに彼女は言った。
その声が意味するのはただ一つ。
――沈黙は終わりではない。
嵐の前の“静けさ”であるということ。
「……動く? それとも……待つ?」
ヴェイルが不安げに問いかけた。
アリニアはすぐには答えなかった。
その視線は、部屋の中心で起きた“異変”に釘付けになっていた。
空間が、わずかに揺れていた。
まるで見えない波が空気を歪ませるかのように、空間が微かに“脈動”していた。
「……あれは……?」
床から浮かび上がったのは、蒼い光。
柔らかく、そして静かに立ち上る光柱が、床の大理石に反射して揺らめいていた。
その光は、しばらくその場に留まったのち――
何事もなかったかのように、すっと消えた。
「今の……なんだったんだ……?」
ヴェイルが囁くように言ったが、アリニアは答えず、じっと前を見据えていた。
彼女の視線の先には、ひとつの“物体”が浮いていた。
蒼く光る、不思議な形状の箱。
完全な立方体ではなく、どこか“ずれている”ような、物理法則に逆らうような輪郭。
その輪郭線はかすかに震え、時折“存在そのもの”が揺らいで見える。
「……報酬、か。あるいは……別の罠……?」
アリニアは低く呟く。
手を抜けない状況にあることは、彼女が一番理解していた。
ゆっくりと、静かに立ち上がる。
そのまま足音ひとつ立てず、光の箱へと歩を進める。
腰のダガーに添えた指が、常に抜刀の準備をしていた。
彼女の目は一度も、それを逸らさない。
後方では、ヴェイルが少し遅れて彼女に続く。
だがその足取りには、わずかな戸惑いと警戒がにじんでいた。
「油断しないで、ちびオオカミ」
囁きに近い声。
それは、命を預け合う者同士の、無言の信頼でもあった。
二人は、箱の目前までたどり着いた。
アリニアは微動だにせず、周囲を観察する。
箱は、静かに、何の反応も見せずに浮いていた。
耳を澄ましても、音ひとつ聞こえない。
しかし、手を近づけた瞬間――
ほんの微かな、空気の震えが指先に伝わった。
アリニアは眉をひそめる。
「……ここまで“簡単”なんて、おかしいわ」
その声には、明確な警戒と不信が含まれていた。
ヴェイルも近づいてきて、箱の表面を見つめる。
その瞳には、どこか好奇心と警戒が混じっていた。
「……待つべきじゃない? こう……なんか、勝手に“やばいこと”起きる気がするんだけど……」
その提案に、アリニアはすぐに答えず、箱から目を離さずに沈黙を保つ。
静寂が、再び降りる。
今にも動き出しそうな空気の中で――
二人は、次の一歩を決めかねていた。
アリニアは答えなかった。
ただ、静かに手を伸ばし、蒼く揺れるその箱にそっと触れた。
指先が触れた瞬間――
空気が震えた。
波紋のように広がる振動が、部屋全体を包む。
そして――
――ゴォォォォン……
低く、重い音が床下から響き出す。
壁がわずかに揺れ、天井の装飾が微かに軋む。
それはまるで、“何か大きなもの”が目覚めた合図だった。
アリニアはすぐに手を引いた。
表情は険しく、視線は鋭さを増す。
「――下がって、ちびオオカミ」
その声に迷いはなかった。
だが、二人が一歩を踏み出すよりも早く――
箱から光が走った。
シュウゥゥ……
薄く、細く、だが止められないほど鋭く。
光の筋が床へと広がり、銀の装飾線へと入り込んでいく。
その光は、彫り込まれた模様をまるで生き物のように這い、部屋全体を走り抜けていった。
一瞬にして、あらゆる紋様が光を帯びる。
「……うわっ、これ……すげぇ……」
ヴェイルが思わず感嘆の息を漏らす。
だが、その声には不安が混ざっていた。
美しさと恐怖が同時に胸を締め付ける。
「……喜んでる場合じゃない」
アリニアの声は冷たく、沈んでいた。
光は、目的を持って進んでいた。
それは確実に――あの“像”へと向かっている。
紋様の輝きは、やがて台座の下へと集まり、そこから立ち上るように像を這い始めた。
足元。
脛。
膝。
腰へと、静かに、しかし確実に光が這い登っていく。
――ゴゴゴゴゴ……
空気が振動し始める。
深く、重く、低い音が、空間を支配する。
まるで数百年の眠りから、何かが目覚めようとしているようだった。
アリニアは即座に判断する。
「ちびオオカミ。行くわよ――今すぐに」
その一言で、ヴェイルの表情が引き締まる。
ようやく危機の“本質”を悟ったのだ。
「っ、わ、わかった!!」
もう、猶予はない。
光は“像”を包み、目覚めの準備を終えようとしていた。
二人はすぐにその場を離れ――
再び、未知なる試練へと走り出す。
――次なる“審判”が、動き始めていた。




