第37章:痛みを伴う冷たさ
アリニアは、ヴェイルの肩にそっとマントをかけ直した。
少しでも彼の体温を逃さぬよう、慎重に布を整える。
彼女の吐息は、白く、儚い雲となって冷たい空気に溶けていく。
空気は、すでに常識を超えるほどの寒さだった。
真っ白な雪が、静かに森を覆っていた。
それは、まるでヴェイルのマナが爆発した直後、ダンジョンそのものが凍りついたかのような光景だった。
「こんなの……普通じゃない……。このダンジョン、まるで彼に反応してるみたい……でも、どうして……?」
アリニアの呟きは、焚き火の小さな炎にかき消されそうなほど微かだった。
彼女は膝をつき、辛うじて集めた凍っていない枝を使って火を灯していた。
パチパチと静かに燃えるその音だけが、この静寂の空間に命を与えているようだった。
ヴェイルを見る。
短い呼吸、疲労に満ちた顔、動けば砕けそうな体。
彼女の胸を、名も知らぬ不安が満たしていく。
「……彼は、いったい何者なの……? どうして、こんな力を……。私には、何も……教えてくれなかったのに……」
今まで積み重ねてきた日々が、当たり前に思っていたことが、音もなく崩れ去っていく感覚。
ヴェイルの寝顔を見つめたあと、アリニアは視線をそらした。
胸の奥に差し込む距離感が、彼女を戸惑わせていた。
終わりのない空間――
闇だけが支配するその場所に、ヴェイルは横たわっていた。
彼の瞳は、どこまでも続く闇をただ見つめていた。
空気は重く、呼吸をすることさえ困難に感じる。
どこにも、光はなかった。
音も、感覚も、存在すら曖昧になるような、完全なる虚無。
「アリニア……アリニアが……俺を待ってる……。立たなきゃ……」
かすれるような声が、闇の中に消えていく。
想いは確かにそこにあるのに、体は動かなかった。
指を動かそうとする。腕を。だが、まるで全身が鎖で縛られているように、何一つ応えてくれなかった。
絶望と焦燥が、冷たい波となって彼を飲み込んでいく。
記憶が、断片的に蘇る。
ゆっくりと迫ってくるシルヴォイド。
必死に戦うアリニア。
――そして、その背中をただ見つめていた、自分。
「……またかよ……俺は、また……足手まといでしかないのか……。どうすれば……どうすれば、変われるんだ……」
その言葉に、虚無が反応するように揺らめいた。
暗闇が息を潜め、まるでヴェイルの心の奥を覗き込んでいるかのようだった。
思考すら奪ってくるこの空間に、彼はゆっくりと沈み込んでいく――
――そのとき。
かすかな光が、闇の中に浮かんだ。
ろうそくの炎のように頼りないが、確かにそこにある。
ゆらゆらと揺れるその光は、次第に温もりを帯び始める。
まるで、彼の凍りついた心に語りかけるかのように。
そして、そのぬくもりが、ゆっくりと彼の身体を包み込んでいく。
冷たさに蝕まれていた感覚が、少しずつ戻ってくる。
「……なんだ……このあたたかさは……」
それは、再び歩き出すための、わずかな灯だった。
まぶたの裏を突き破るような光が、次第に強さを増していく。
ヴェイルは思わず目を細めた。
心臓の鼓動が早まり、胸の奥で何かがざわめく。
ようやく目を開けると――
そこには、見覚えのある光景が広がっていた。
雪を纏った巨大な木々の枝が、頭上に広がっている。
淡く揺れる焚き火の光が、冷え切った空気をほんのりと温めていた。
アリニアが、すぐ傍らに座っていた。
静かに、炎を見つめながら何かを調理している。
その横顔は穏やかでありながら、どこか沈んだ影を宿していた。
周囲は、不思議なほど静かだった。
刺すような冷気の中にあって、それでもどこか安らぎすら感じさせる空気が流れていた。
「……ん……」
ヴェイルは目元をこすり、意識の霧を振り払おうとした。
体を起こそうとした瞬間――
「……ッ……!」
鋭い痛みが、全身を駆け抜ける。
筋肉が悲鳴を上げ、関節という関節が拒絶するように動きを拒んだ。
思わず、呻き声が漏れた。
その音に反応するように、アリニアが顔を上げた。
耳がぴくりと動き、目が彼を捉える。
その視線には、安堵と――戸惑いの色が入り混じっていた。
「やっと……目を覚ましたのね」
アリニアは静かに言った。
その声には、ほっとしたような温もりがあった。
ヴェイルはゆっくりと息を吸い込んだ。
雪に覆われた小さな空き地、凍りついた小川、そして純白の世界――
これは……夢なんかじゃない。
「……何が、起きたんだ……?」
かすれた声で問いかける。
アリニアはしばらく沈黙したまま、炎をじっと見つめていた。
やがて、その唇がわずかに動き、呟く。
「――本当のあなたは、誰なの……ちびオオカミ……?」
「……え?」
ヴェイルは目を見開いた。
その声、その言葉の響きに、何かが違うと感じた。
彼女の視線は彼を見ていなかった。
まるで――自分の心に問いかけるような、そんな瞳。
すぐに、彼女は首を振り、目をそらした。
「……なんでもないわ」
そう言ったが、彼にはわかっていた。
それは――「なんでもない」では済まされない空気だった。
額に手を当てる。
じんと痛む頭を押さえながら、必死に思い出そうとする。
シルヴォイド。
戦い。
アリニアの叫び――
そして、その先は――真っ白な、空白。
「……なにも、思い出せない……」
そう呟いた自分の声が、やけに遠く聞こえた。
身体を無理に起こそうとするたびに、全身から抗議のような痛みが走る。
それでも彼は問いを繰り返した。
「……何が、あったんだ……?」
再び尋ねたその声に、アリニアは迷いを滲ませながらも顔を上げた。
彼女の視線は一度森の奥へと泳ぎ、そして再び、ヴェイルに向けられる。
その瞳の奥に――確かな“恐れ”と、“確信”が宿っていた。
「全部……全部、あなたのせいよ、ちびオオカミ」
その言葉は、静かに――けれど鋭く、彼の胸を突いた。
ヴェイルの動きが止まる。
目を見開き、震える視線で周囲を見渡した。
木々の枝。
地面に積もった雪。
凍りついた空気に反射する、細やかな霜のきらめき――
彼は、首を振った。
信じられない、と言うように。
「……俺が? そんな……わけ、ない……」
かすれた言葉が、唇からこぼれた。
けれど、アリニアの瞳は、彼を真っ直ぐに見つめていた。
アリニアは静かにうなずいた。
その瞳は、彼らを取り囲む白い世界をじっと見つめている。
「そうよ……あなたは、覚えていないのね?」
低く、けれど揺るぎない声で、アリニアは確認するように言った。
ヴェイルはすぐに答えられなかった。
戸惑いが表情に浮かび、彼はゆっくりと震える手を見下ろした。
まるで、そこに何か――答えがあるかのように。
《本人ですら記憶にないってことは……こんな力、一体どれほど危険なの……?》
アリニアの胸に、不安が静かに渦巻く。
彼女は再び目を逸らし、炎の奥に視線を落とした。
焚き火の揺らめきが、彼女の瞳に淡く映る。
二人の間に、奇妙な沈黙が落ちる。
その静けさを破るように、アリニアが口を開いた。
「……どうやって、そんなことができたの? 水と風を融合させて、森全体を凍らせるなんて……そんなの、並大抵のマナ量じゃ無理よ。しかもあなた、普段は基本魔法を数回使っただけでヘトヘトになるのに」
その問いかけは、冷静さを保ちながらも――戸惑いに満ちていた。
ヴェイルは彼女の目を見つめ返す。
だが、そこに答えはなかった。
彼自身も理解していなかった。
「……僕も、わからない。そんな力があるなんて……自分でも知らなかった」
その声は、かすれ気味で、どこか遠くを見ているようだった。
彼は小さく頭を振る。
「……わかりたいよ、アリニア。僕自身も、何が起きたのか……知りたい」
彼の視線が、雪に覆われた地面に落ちる。
膝に添えた手は、怪我の痛みを忘れるほどに強く握りしめられていた。
「君が危険な目に遭ってるのを見て……悔しかった。何もできなかった自分が情けなかった。それで――突然、何もかもが真っ暗になって……その後は、何も覚えていないんだ」
ヴェイルの声は、低く、震えていた。
「動こうとした。でも、体が言うことを聞かなかった。まるで……誰かが僕を閉じ込めて、代わりに動いていたみたいに」
静かに、アリニアはその言葉を受け止めていた。
淡い青の瞳が、ゆらめく炎の中で揺れている。
その耳が、感情に反応するようにピクリと震えた。
ほんのりと頬が染まり、彼女は顔を背ける。
――それって、私のために……?
《どうして……どうして、私のことでそこまで……? そんなに深い関係でもないのに……私なんかのために……?》
心の奥に、柔らかな熱が広がっていく。
その温かさを打ち消すように、アリニアは息を吐いた。
体を起こし、背筋を伸ばして声を放つ。
「……とにかく、体を温めなさい。まだ進まなきゃならないんだから」
その声は、少しだけ強く。
けれど――そのすぐ後に。
「……ありがとう」
ほとんど聞き取れないほどの、微かなささやきが、唇から漏れた。
それは、確かに本心からの――感謝だった。
ヴェイルは、何も聞こえていないかのように、思考に沈んでいた。
けれど――
アリニアの声に滲んだその“本物の想い”は、ほんの一瞬、彼の表情をやわらげた。
だが、その笑みの奥。
彼女の瞳には、一瞬だけ鋭い光が宿った。
――何かがおかしい。
ここに来てから、ずっと胸に引っかかっていた疑問。
どうしてギルドは、こんな危険なダンジョンに彼女を送り込んだのか。
ここのレベルは明らかに常識外れだった。
偶然のはずがない。
彼女は黙ったまま、小さな鍋から湯気の立つ液体を二つのカップに注いだ。
そこから立ちのぼる香りは、ほんのりと甘く、どこか懐かしい。
キャラメルとバニラが混ざったようなその香りが、冷え切った空気の中で温かさを運んでくる。
アリニアは一つのカップをヴェイルに差し出した。
彼は少し戸惑いながらもそれを受け取り、眉をひそめた。
「……この匂い、あの“香りの部屋”にあった容器と同じじゃないか? 本当に飲めるのか……?」
怪訝そうに言うヴェイルに、アリニアは片眉を上げた。
そして――何も言わず、自分のカップに口をつけた。
ゆっくりと飲むその仕草は、まるでわざとらしいほどに満足げだった。
「冷たい状態で拾ったけど……熱に反応して、こうなるみたい。このダンジョンでは、“与えられたもの”をどう使うかを学ばなきゃいけないのよ」
淡々とした声だったが、その言葉には深い経験に裏打ちされた実感がこもっていた。
ヴェイルは一瞬、彼女の顔をじっと見つめ――そして、渋々一口飲んでみた。
「……意外と、悪くないな。甘いし……なんか、体の中がじんわり温まる」
彼は驚いたように呟いた。
全身に染み渡るようなその温もりが、消耗しきった体を少しずつ癒していく。
アリニアは、その反応をちらりと横目で見た。
唇の端に、ごくわずかな笑みが浮かぶ。
頭の片隅では、ギルドの不審な命令についての疑念が消えぬままだったが――
今だけは、目の前の静かなひとときを優先することにした。
二人は、言葉少なにそのカップを飲み干した。
炎の温もりと、飲み物の優しい甘さが、少しずつ心と身体の緊張をほどいていく。
アリニアは空になったカップを丁寧に片付けながら、ふとヴェイルに視線を送った。
「立てそう? ちびオオカミ」
その声は冷静だったが、その裏には確かな観察と気遣いが滲んでいた。
ヴェイルは小さく息を吐き、ゆっくりと足を動かしてみる。
脚の感覚はまだ鈍く、筋肉が悲鳴を上げたが――なんとか立ち上がることに成功する。
少しぐらつきながらも、彼は片眉を上げてニッと笑った。
「見た目よりは、頑丈だからさ」
アリニアはしばらく彼を見つめ――そして静かに頷いた。
その表情には、安堵と覚悟が混じっていた。
「よし。行くわよ。あと何階残ってるかわからないけど……これ以上、時間は無駄にできないから」
その声は、強く、確かだった。
二人はまた、前へと歩み出す。
雪の森を背にして――次なる試練へ。
アリニアが背中に荷を背負い直すのを、ヴェイルは黙って見送った。
彼は深く息を吸い、肩に残る疲労感を奥へと押し込む。
そして、その背中を追って歩き出した。
足元の草が、しっとりとした感触を取り戻しつつある。
白銀に染め上げられていた大地は、ヴェイルの魔力による凍結から少しずつ解放され、色彩を取り戻していた。
木々の合間を歩きながら、アリニアは周囲を見回した。
生気を取り戻す森の風景に、ふと口元をゆるめ――そして、からかうようにヴェイルへと視線を向けた。
「全部凍らせたわけじゃないみたいね」
その言葉は、冗談めいて軽やかだった。
ヴェイルは片眉を上げてから、わざとらしい不満顔を作った。
「次はもっと徹底的にやってみるよ」
乾いた口調で返すが、その声にはほんの少し笑みが混じっていた。
だが――
その軽口の余韻を断ち切るように、あの“光の球”が再び現れた。
ふわりと空中を舞い、二人の周囲を一周すると、ゆっくりと森の奥へと進み始める。
「また……あれか。……ついて来いってこと、なんだよな?」
ヴェイルは警戒心を滲ませつつ、小声で呟いた。
アリニアは黙ってそれを見つめる。
その目には、静かな集中が宿っていた。
《この場所……やっぱり普通じゃない。でも、あの光には“意志”がある。少なくとも、私たちを導こうとしてる……》
彼女は小さく頷くと、光の後を追い始めた。
ヴェイルも黙ってそれに続く。
歩を進めるごとに、森はますます“命”を取り戻していく。
花は色を取り戻し、小川は再び歌うようにせせらぎを響かせる。
ただ、その美しさとは裏腹に、二人の内に宿る緊張は完全には解けなかった。
しばらく進むと――
光の球は、ぽっかりと口を開けた洞窟の前でふわりと停止した。
そこだけ、明らかに“異質”だった。
色鮮やかな森とは対照的に、洞窟の入口は暗く、湿気を含んだ冷たい空気を吐き出している。
石の壁には苔がびっしりと生え、そこから水が滴り落ちていた。
壁に並ぶ小さな松明が、揺れる光を投げかけている。
その奥には、下へと続く螺旋階段。
どこまでも深く、光の届かない闇へと続いていた。
アリニアは入口の前で立ち止まり、腕を組んだ。
その視線は鋭く、洞窟の奥を見据えている。
「もう、戻れないのね」
低く呟いたその声には、覚悟が滲んでいた。
ヴェイルもまた、黙って闇を見つめた。
その奥に待ち受ける何かが、言い知れぬ不安を呼び起こす。
「……また、“知らない場所”への旅ってわけか」
その呟きは、覚悟とも諦めともつかない響きだった。
光の球は、二人の前でしばらく漂った後――
まるで「ここからは自分の出番ではない」とでも言うように、ふわりと舞い上がって、森の中へと消えていった。
アリニアとヴェイルは、最後に一度だけ目を合わせる。
そして、無言のまま、洞窟の中へと足を踏み入れた。
階段を下る彼らの足音だけが、静かに――深く、暗き底へと響いていった。
──それが、新たな“深層”への、始まりだった。




