第36章:感情の重み
ヴェイルとアリニアは、背中合わせに立っていた。
互いに呼吸を荒げながら、全身の筋肉を緊張させ、目の前に迫る敵に意識を集中させる。
一体のシルヴォイドが前に出た。
その節だらけの枝が、不気味に揺れながら、じわじわと距離を詰めてくる。
その後ろにも、同様の怪物たちがゆっくりと進み、森の床に長く暗い影を落としていた。
「……アリニア、これ……逃げた方がいいんじゃ……?」
不安げに呟きながら、ヴェイルは森の奥へと視線を向ける。
が、アリニアは首を横に振った。
その表情は、迷いのない“覚悟”に満ちていた。
「だめよ、ちびオオカミ。進むためには――戦うしかない。」
言葉と同時に、彼女の体が跳ねる。
一直線に、最前列のシルヴォイドへと飛び込んだ。
爪が閃き、怪物の幹を掠める。
樹皮に浅い傷が走る――が、反応はない。
それは痛みすら感じていないかのように、無反応だった。
アリニアはすぐに身を引いた。
素早く距離を取り、ヴェイルの隣へと戻る。
「……想像以上に硬い……。魔法で試してみて、私が時間を稼ぐ!」
短く言い放ち、再び前線へと駆け戻る。
ヴェイルは即座に頷き、ナイフをしまい、両手を前に出して魔力の流れを整え始めた。
森の小川の音が、彼の意識を支えてくれる。
豊富な水がある――それは彼にとって、大きな助けとなる要素だった。
両手の間に、水が集まり、球体を成す。
陽の光を受けてきらめく水球は、確かな形を持ち始めていた。
「……これで、いけるか……?」
自らの風の魔力を加えようとする。
それによって、水を刃のように鋭く変えることができるはずだった。
――だが。
水は、ただの水のまま。
どうしても風と混ざり合わず、彼の意志に応えない。
一方、アリニアは相手の攻撃をギリギリで回避し続けていた。
一体一体の動きは遅い。
だが、数が多く、そしてその硬質な身体は圧倒的な威圧感を放っていた。
空を裂くような枝の一撃。
それを紙一重で避け、着地のたびに呼吸が荒くなる。
「ヴェイル! 早くして! 長くはもたない!」
怒鳴るような声。
だが、それは彼女の信頼でもあった。
ヴェイルは唇を噛んだ。
だがその集中は、ふとした瞬間に崩れた。
――あの夢。
あの声。
自分の弱さを、無価値さを突きつけてきた“あれ”。
《……なんで今、それを思い出す……!》
かぶりを振る。
雑念を振り払う。
「……集中しろ……今は“ここ”なんだよ、ヴェイル……!」
気合いを込め、再び水球を放つ。
勢いよく、シルヴォイドの胸部へ――
だが。
――バシャッ。
派手に水飛沫が飛ぶだけで、怪物はびくともしない。
木の幹が濡れただけ。
傷どころか、反応すら返ってこない。
「……クソッ、効かない……!」
ヴェイルの声が震える。
その隣へ、再び戻ってきたアリニア。
肩で息をしながら、耳を伏せて息を整えている。
敵は――まだ、一歩も引いていない。
「場所、代わって。今度は私がやる。」
アリニアの声は、冷たく鋭かった。
返事を待つこともなく、彼女はヴェイルの前に立ち塞がり、深く息を吸い込んだ。
その瞳には、獣のような鋭さが宿っていた。
「彼はまだ“元素”を形にできない……なら、私が見せるしかない。」
アリニアはそう心の中で呟きながら、そっと片手を小川に向けた。
ヴェイルはすぐに一歩下がり、彼女に道を譲った。
彼女の横顔を見つめながら、胸に熱い感情がこみ上げる。
尊敬。
そして――悔しさ。
(……俺も、やらなきゃ。今すぐにでも……!)
そのとき、最も近くにいたシルヴォイドが、軋む音と共に一歩踏み出した。
まるで牙を剥くように枝がざわめき、次の瞬間には襲いかかってくるであろう気配を放っている。
「……やるしかない……今は、それしかないんだ!」
ヴェイルは走り出した。
怪物の真正面へと。
筋肉に力を込め、全身を盾にしてアリニアの準備時間を稼ぐ。
枝の動きを見極め、刃のように突き出された木の腕をかろうじてかわしながら、ナイフを構える。
その間にも、アリニアは集中していた。
呼吸を整え、水に語りかけるように意識を向ける。
すると、水面が震え、空気の流れすら変わっていくのが分かる。
大きく膨らんだ水球が形成される。
それは先ほどヴェイルが作ったものとは比較にならない。
滑らかで、美しく、そして何より――密度が違う。
「これに懸けるしかない……!」
その水球が変化していく。
長く、細く、鋭く――
まるで氷の矢のような水の槍。
その間にも、ヴェイルはかろうじて持ちこたえていた。
迫る枝をかわし、隙を見てナイフを突き出す。
だが――
「くそっ、全然効かないっ……!」
幹に深く突き刺したはずの刃が、ただ木片を弾き飛ばすだけ。
傷一つ、致命傷には至らない。
そして。
ズシャッ――!
音を立てて、一本の枝が彼の肩をかすめる。
鋭い痛みとともに、空気が切り裂かれる感覚。
「ヴェイルッ!!」
アリニアの叫び声。
その声が背中を押す。
瞬時に身を投げ出し、地面に転がる。
直後、彼の背後で空気が爆ぜるような音が響いた。
――バシュッ!!!
アリニアの放った水の槍が、轟音とともにシルヴォイドを貫く。
その一撃は見事な直撃だった。
木の胴体に、ぽっかりと空洞が空く。
「やったか……!?」
ヴェイルは地面から身を起こしながら、思わず微笑んだ。
だが――その笑みは、すぐに凍りついた。
目の前の怪物が、ゆっくりと、だが確かに起き上がったのだ。
胸に空いた穴の中で、木の繊維がうごめく。
もつれた枝と幹が絡まり、あっという間にその傷口を塞いでいく。
まるで再生するかのように。
「再生する……嘘だろ……!」
ヴェイルの呟きには、明らかな恐怖が滲んでいた。
アリニアは、額から流れる汗を拭うこともなく、その場で膝をつきかけていた。
呼吸が乱れ、魔力の消耗が限界に近づいているのが見て取れる。
彼女ほどの力をもってしても、この一撃で終わらなかった。
その事実が、ふたりの心をさらに重くする。
「……火属性の魔術師でもいれば……」
アリニアが、苛立ちを隠さずに唸った。
彼女は知っていた。
水は、この手の相手に適していない。
だが、いま使えるものはそれしかない。
彼女の頭はフル回転していた。
何か、打開策を――
「再生が早すぎる……こっちの攻撃が通じない……!」
その呟きは、自分への怒りとも焦りとも取れる声だった。
そのとき、ヴェイルが息を切らしながら彼女の元へ戻ってきた。
左腕を押さえ、傷の痛みに顔をしかめながらも、その足取りは崩れそうで崩れない。
右足がわずかに震えていたが、それを見せまいと必死だった。
「なあ……いい作戦があるなら今がそのときだぞ……俺はもう、思いつかない……」
冗談めかした口調だったが、声には疲れが滲んでいた。
アリニアはその様子を一瞬見て、心の奥で何かが揺れた。
だが、すぐに視線を前へ戻し、冷静な声で言う。
「休んで。次は私が一体潰してみる。弱点がどこかにあるはず。」
彼女の呼吸は荒く、額には汗がにじんでいる。
それでも、諦める気配はなかった。
「……他の階層みたいに、仕掛けとか謎解きの類じゃないのか?」
ヴェイルが眉をひそめて尋ねる。
アリニアは、はっきりと首を振った。
「違う。今回は……“戦い”よ。純粋な実力勝負。」
言葉の端々に、強い決意が込められていた。
ヴェイルはため息をついた。
頭を使う余地すらない――ただ、戦って、生き残る。
「……こりゃ本気でヤバいな……」
その言葉と同時に、シルヴォイドたちがまた一歩近づいてくる。
重く、止まることのない足音。
その無機質な音が、心を削っていく。
アリニアの目が細まり、獣の本能が警鐘を鳴らす。
彼女は一息つき、枝の一撃を横へ飛んでかわす。
しなやかな跳躍、鋭い動作――ヴェイルの胸が強く打ち鳴った。
《……俺は……遅い……足りない……!》
自分を責める声が、頭の中をよぎる。
その間に、アリニアは一本の大木を蹴って加速。
まるで矢のように、最も近いシルヴォイドへ飛び込んだ。
爪が展開され、鋭く輝く。
乾いた音を立てて、相手の幹に深々と突き刺さる。
だが――
「……やっぱり、ダメ……っ」
アリニアが息を呑む。
目の前の怪物は、まったく反応を示さなかった。
まるで痛みなど存在しないかのように、じっと立ったまま。
「クッ……!」
彼女は爪を引き抜こうとする。
が――抜けない。
樹皮が、まるで生きているように彼女の爪を“飲み込む”。
《……マズい……!》
アリニアの視線が動く。
周囲には、いつの間にか他のシルヴォイドたちが集まり始めていた。
その枝が、ゆっくりと彼女に向けて伸びてくる。
罠のように、絡みつくように。
「……まずい……っ!」
喉の奥から、焦りの声が漏れた。
一方その頃――
ヴェイルは、ただ立ち尽くしていた。
目の前で繰り広げられる光景に、心が締めつけられる。
アリニアの素早さも、力も――自分には届かない。
その“差”が、彼の心を静かに、だが確実に蝕んでいた。
夢の中で聞いた、あの声がよみがえる。
――役立たず。
――弱い。
「……なんで……俺は……こんなに無力なんだ……!」
呻くような声と共に、意識がぐらついた。
――そして。
世界が、闇に染まる。
視界が完全に黒に覆われ、音も気配も消えた世界。
その中に、一つだけ浮かぶ顔があった。
アリニア。
あの、皮肉っぽい笑み。
あの、鋭くて真っすぐな目。
だが――
その姿が、遠ざかっていく。
影の中へと、ゆっくりと消えていくように。
***
その頃、アリニアは必死に爪を引き抜こうとしていた。
だが、幹が生きているようにそれを絡め取り、びくともしない。
そのときだった。
ぞわり――
背筋に冷気が走った。
風が――変わった。
小川の水が、微細な粒となって舞い上がる。
空気に乗って拡散し、あたり一帯を冷たい霧で包み込む。
「……なに、これ……?」
耳がピンと立ち、全神経が警鐘を鳴らす。
アリニアが振り返ると――
そこにいたのは、ヴェイルだった。
静かに立ち尽くしている。
その目は、いつもの彼ではなかった。
透き通るような蒼――いや、光を放つほど鮮やかな輝き。
まるで意識がそこにないような、虚ろな眼差し。
その身体からは、ぞくりとするような魔力の波が溢れ出していた。
空気が震える。
周囲の空間が歪む。
「ちびオオカミ!! やめてっ!!」
アリニアは叫んだ。
だが、ヴェイルには届かない。
彼女の胸が、強く痛んだ。
涙が、知らぬ間に目に滲む。
「お願い……! やめて……っ! それじゃ、魔力が尽きる……!」
泣きそうな声で、必死に叫ぶ。
けれど、ヴェイルは一歩も動かない。
その意識は、現実にはいなかった。
風が巻き起こる。
さらに冷たく、鋭く――
霧が凍りつき、アリニアの喉に焼けるような痛みをもたらす。
呼吸するたび、肺が凍りそうな錯覚に襲われた。
ヴェイルの魔力が、完全に制御を失っている。
その暴走が、空気そのものを支配し始めていた。
「これは……もう、暴走レベルじゃない……!」
アリニアは歯を食いしばり、力を込める。
爪を引き抜こうと必死にあがく。
今、彼を止めなければ。
このままでは、ヴェイルの身体が持たない――いや、それどころか命すら危ない。
だが、周囲のシルヴォイドたちも、様子が変わっていた。
明らかに動きが鈍くなっている。
この寒気――
霧の中で、その身体が凍え始めている。
枝の動きがぎこちなくなり、足元は凍った草に滑るように。
だが、それでも動きを止めない。
まるで、止まるという選択肢を持たないかのように。
アリニアは、泣きそうな表情でヴェイルを見上げた。
耳が、焦燥と寒気でぴたりと伏せられる。
「ちびオオカミ……お願い、戻ってきて……」
その呟きは、祈りにも似ていた。
足元の草に、うっすらと霜が降り始める。
小川の水も、少しずつ氷へと変わっていく。
ヴェイルは、自分でも気づかぬまま――
限界を越え始めていた。
風が、最後の咆哮を上げた。
次の瞬間――
ドンッ!!
轟音と共に、極寒の爆風が一帯を飲み込んだ。
空気が引き裂かれ、強烈な突風があらゆるものを薙ぎ倒す。
枝はなぎ倒され、塵が舞い上がり、水の粒が宙を踊る。
小川の水面が、見る間に凍りついた。
完璧な氷の鏡となり、光を反射するその白銀は、森を飲み込むように広がっていく。
かつて緑が覆っていたその場所には――
いまや、白と静寂しか存在しない。
シルヴォイドたちは、完全に凍りついていた。
幹に薄い氷の膜が張り、かつての強靭な樹皮は冷気に封じられていた。
その空虚な眼窩に宿る光が、かすかに震えている。
まるで、何かが閉じ込められたかのように。
アリニアは、まだ信じられないように立ち尽くしていた。
けれど、ふとある違和感に気づく。
寒くない。
凍てつく世界に立っているはずなのに、体は震えていない。
「……なに、これ……。この温もり……まさか……」
その目が、無意識にヴェイルへ向いた。
そこにいる彼が、確かに自分を守っていた。
無意識のままに。
だが――いま考えるべきは、それではない。
「……今しかない……!」
集中し直す。
爪の感覚に意識を向ける。
凍った幹から、小さな亀裂が走る。
パキパキと、音を立てながら割れていく。
アリニアは力を込め、一気に引き抜いた。
バキィッ!!
鋭い音と共に、彼女の爪が自由になる。
同時に、シルヴォイドの身体が砕けた。
氷の彫刻が割れるように、粉々になり、地面に舞い落ちる。
「……やれる!」
目の奥に宿る、闘志の光。
そのまま彼女は跳んだ。
目の前の敵へと。
氷と化した森の中を縦横無尽に駆け、次々と敵を粉砕していく。
爪が振るわれるたび、白銀の粉が舞う。
破片が光を弾き、まるで星屑のように空間を照らす。
疲労は、確かに身体を蝕んでいた。
けれど、止まらない。
止まるわけにはいかない。
「ちびオオカミ……!」
視線の先には、依然として動かぬヴェイル。
その瞳に宿る青い輝きが――揺らいでいる。
今にも、消えそうな炎のように。
「お願い……踏ん張って……!」
最後のシルヴォイドを切り裂き、氷の霧へと還す。
周囲には、砕け散った氷の破片が、まるで宝石のように散らばっていた。
アリニアは、すぐに振り返る。
「……ちびオオカミ……!」
彼の瞳に宿る光が――
――ふっと、消えた。
「ちびオオカミィッ!!」
叫んだ瞬間、彼の体が崩れ落ちる。
まるで糸の切れた人形のように。
氷の地面へと、冷たく倒れた。
「くっ――!」
迷うことなく、彼女は駆け出す。
足元が滑る。
転びそうになる。
けれど止まらない。
寒さが――戻ってくる。
あの温もりが、離れていく。
ヴェイルが放っていた魔力の余波が消え、現実が戻ってくる。
牙のように鋭い冷気が、彼女の肌に突き刺さる。
でも、それすら構っていられなかった。
彼の元へ――
ただ、それだけだった。
アリニアはヴェイルの隣にひざまずいた。
呼吸が荒い。
胸が上下に激しく揺れ、鼓動が耳元でうるさく響く。
震える手を、そっと彼の口元へ――
あたたかい息が、かすかに手のひらに触れた。
「……生きてる……」
安堵に、全身の力が抜けそうになる。
冷え切った彼の額に、そっと手を添える。
眉をひそめるその顔には、極限まで使い果たされた疲労の痕が刻まれていた。
「……また、限界を超えて……。ほんと、なんでいつもこうなのよ……」
心の中で、呆れるように、でも優しく呟く。
雪が彼の髪に降り積もっている。
アリニアはそれをそっと払いながら、目を細めた。
見渡せば、辺りは静寂に包まれていた。
シルヴォイドはすべて砕け散り、氷と光の粒だけが地面に残っている。
「……少し、休んでなさい」
優しくそう囁き、アリニアはヴェイルの体をそっと抱き寄せる。
彼の頭を、自分の膝に預けるようにして。
手を肩に添え、静かに息を整える。
目は、まだ凍てつく地平線の先を見据えたまま。
敵は倒した。
でも、これは――
ほんの、一時の安らぎにすぎない。
このダンジョンには、まだ何が待ち受けているか分からない。
そして今度は――
何をすれば正解かすら、見当もつかない。
でも、それでも。
彼を守る。
この命に代えても。
そう、心に誓った。




