第34章:花咲く森にて
アリニアとヴェイルは、まだ息を整えきれないまま、重苦しい闇の中を進むことにした。
だが――
ほんの一歩を踏み出したその瞬間、柔らかな光がふわりと現れた。
それは静かに彼らの方へ漂い、足元に続く階段を照らし出す。
周囲の闇とは対照的な、優しく穏やかな光だった。
呼吸するかのように脈打つ小さな光球は、目の前にふわりと留まり、
その仄かな明かりは、進むのに必要なだけの道を照らしていた。
アリニアとヴェイルは顔を見合わせ、困惑の色を浮かべる。
「また妙なもんが……このダンジョン、どこまで俺を驚かせりゃ気が済むんだよ……」
ヴェイルが警戒を滲ませつつ、ぼやく。
彼はその癒やしを誘うような光に惹かれるように、ゆっくりと手を伸ばしかけた。
「ちびオオカミ、触っちゃダメ!」
アリニアがぴしゃりと強い口調で言い、素早く彼の手首を掴んだ。
その眼差しは鋭く、まるで小さな子どもを叱るような真剣さだった。
ヴェイルは顔をしかめながら、そっと手を引っ込める。
「……ああ、わかってるって。」
そのときだった。
光球がふるりと震えると、静かに後退しながら階段を下っていった。
まるで「ついてこい」と言っているかのように。
アリニアは眉をひそめ、まだ疑念を抱きつつも、先へ進み始める。
ヴェイルも黙ってその後に続いた。
「精霊……かもしれない。森にはよく現れるけど、ここは……ダンジョンの中なのに。」
アリニアが呟く。思索に沈んだような声音だった。
ヴェイルは光球を見つめたまま、少しだけ眉を上げる。
「精霊ね……そうかもな。だが、このダンジョンじゃ何が出ても驚かねぇな。」
彼の声には皮肉と、ほんのわずかな興味が混ざっていた。
慎重に階段を下るにつれ、光球の光は徐々に強まり、
その光に照らされた壁は、石であるはずなのに、どこか自然の温もりを帯びて見えた。
石壁が、まるで木の肌のように変わっていく――
そう思えた。
そして階段の終わりにたどり着いた瞬間、二人の足はぴたりと止まった。
そこには――
目を疑うような光景が広がっていた。
まばゆいほどの緑が、視界いっぱいに広がる。
密やかな命のざわめきを帯びた深い森が、柔らかな陽光に照らされていた。
葉の隙間から注ぐ光は温かく、草原は鮮やかな緑に染まり、
色とりどりの花々が一面に咲き乱れていた。
頭上には、どこまでも広がる青空。
薄雲がゆっくりと流れ、どこか現実味すら帯びている。
まるで――ここだけ別の世界のようだった。
「……夢、か?」
ヴェイルが呆然とした表情で、ぽつりと呟く。
その眼差しは、信じられないほどの光景に完全に奪われていた。
アリニアはぴくりと耳を動かし、深く息を吸い込む。
朝露と、満開の花の香りが肺の奥まで染み渡っていく。
「夢じゃない。これは現実よ。……私たちは、まだダンジョンの中にいる。」
その声は静かだが、確かな重みがあった。
「本気かよ……どう見てもダンジョンじゃねぇぞ、これ。」
ヴェイルは彼女の方を見て、信じられないといった顔をする。
アリニアは小さく頷きながら、改めて辺りを見渡した。
その眼差しは、警戒と好奇心の狭間にあった。
「外の環境を完全に再現する特殊なダンジョン……稀に、そういう構造を持つものもあるって聞いたことがある。でも、実際に出会うなんて……滅多にないわ。」
アリニアは考えを巡らせながら静かにそう言い、ゆっくりとヴェイルの方へ向き直った。
彼の視線と交差する。
「だから、こんなダンジョンの話を一度も聞いたことがなかったのね。これまで見てきたものも十分おかしかったけど……これはもう、次元が違うわ。」
その声には冷静さの中に、抑えきれない好奇心が混じっていた。
ヴェイルは、まだ状況を受け止めきれずに、傷ついた腕をそっと撫でながらため息をついた。
「どれだけ綺麗だろうと……この腕が痛んでる限り、危険な場所ってことだけは忘れようがねぇな……」
疲れの滲んだ口調で、彼はぼそりと呟いた。
アリニアは風景から目を離し、ヴェイルに視線を戻す。
彼の顔に浮かぶ痛みを読み取って、わずかに眉をひそめた。
「その話はあと。今は……治療を優先しましょ。」
柔らかいけれど、反論を許さない強さを帯びた声だった。
そのとき、彼女の耳がぴくりと動く。
風の音に紛れて、どこからか水のせせらぎが聞こえてきた。
静かで穏やか――それでも確かに、そこにある命の流れ。
「……水の音。あっちよ。」
アリニアは指を差し、静かに歩き出した。
ヴェイルも黙って彼女の後を追う。
木々の間に響く、優しい水音。
それを道標のように頼りながら、二人は慎重に進んでいく。
先導していた光球は、ふわりと葉の隙間に消えていった。
まるで、その役目を終えたかのように。
やがて、彼らは透き通るような小川にたどり着いた。
澄んだ水がゆっくりと流れ、周囲の草花の色彩を映し出している。
木漏れ日が優しく差し込み、その場の空気すらも柔らかく包み込んでいた。
ヴェイルはふうっと息を吐きながら、ふかふかした草の上に腰を下ろした。
痛む腕をなでながら、心なしか安堵したように表情を緩める。
「ここがクソみてぇなダンジョンじゃなかったら……今頃寝ちまってるかもな……」
気が抜けたように、彼はぽつりと呟いた。
アリニアは水辺にしゃがみ込み、横目で彼を見やると、ふっと微笑む。
「ほんと、ちびオオカミは変なとこで優先順位つけるわよね。」
その言い方はどこか呆れ混じりで、けれどどこか柔らかかった。
ヴェイルは疲れた顔のまま小さく笑い、水に手を触れる。
「罠かもしれねぇけどさ……今だけは、全部忘れたくなる。」
冷たい水の感触が、火照った指先を冷やしていく。
アリニアは辺りに警戒の目を向けていた。
どれだけ美しい光景でも、決して油断はしない。
「できすぎてるのよね、全部……このダンジョン、今まで何一つ楽させてくれなかったのに。」
そう呟いたアリニアの言葉には、明確な警戒心が込められていた。
その視線を感じ取ったヴェイルが、片眉を上げて尋ねる。
「なぁ、たまには気を抜くとか、できないのか?」
その問いかけには軽さがありつつも、ほんの少しだけ本気が混ざっていた。
「ダンジョンの中よ、ちびオオカミ。どんなに静かでも、どんなに綺麗でも……死はすぐそこにある。」
アリニアはため息混じりにそう言った。
その言葉の背後には、これまでの経験と、それを乗り越えてきた覚悟が滲んでいた。
ヴェイルは視線を上げ、人工の空をぼんやりと見つめていた。
その横で、アリニアが膝をつき、治療の準備を始める。
彼女はそっとヴェイルの脚の包帯を解き、傷口を露わにした。
それは――
カタクシスの爪によって刻まれた傷。
すでに出血は止まっていたが、無理な行動と休息不足のせいで腫れがひどくなっていた。
アリニアは真剣な表情で傷を観察する。
その耳がわずかに揺れ、集中していることを物語っていた。
彼女は半分ほど使い切った小さな瓶を取り出す。
それだけ、ダンジョンの中でどれほど傷を負ってきたかがわかる。
布に数滴の透明な液体を染み込ませ、ゆっくりと傷に当てた。
「……っ!」
ヴェイルは思わず肩をすくめ、歯を食いしばった。
「これ、十年受け続けても絶対慣れねぇ気がする……」
痛みに顔を歪めながら、ぼやく。
アリニアは顔を上げずに、口元に小さな笑みを浮かべたまま、淡々と処置を続ける。
「戦士のはずなのに、泣き言が多いわね、ちびオオカミ。」
ヴェイルは呆れたように目をそらし、言い返す代わりに肘を後ろにつき、体を軽く倒して風を浴びた。
頬に触れる風が、ほんの少しだけ心地よい。
アリニアは次に、琥珀色をした粘度の高い液体が入った別の瓶を取り出す。
慎重に指先に少量を取り、それを傷口に塗布する。
冷たさのあとに、じんわりと広がる温もり――
先ほどまでの痛みが、ふっと和らいでいった。
「……最初から、こっち使ってくれりゃよかったのに。」
ヴェイルは目を瞬かせ、不満げに言う。
アリニアはちらりと彼を見て、くすっと笑った。
「それは軽傷か、感染がないとき限定よ。腫れてたでしょ、ちゃんと先に消毒しないと意味がないわ。」
冷静かつ理路整然とした返答。
そこに、彼女なりの優しさも込められていた。
ヴェイルは小さくため息をつき、自分の脚に目をやる。
痛みはまだ残っていたが、だいぶ和らいでいた。
新しい包帯で丁寧に巻かれた脚を見て、彼は静かに頷いた。
アリニアは手際よく処置を終えると、次に彼の腕に手を伸ばした。
古びた包帯をほどき、露出した深い傷口に、彼女の表情がわずかに曇る。
(……無茶しすぎ。こんなこと、続けられるわけないのに)
心の中でそう呟き、アリニアは再び同じように治療を始めた。
「……っつ!」
鋭い消毒液の刺激に、またもやヴェイルが体を強張らせる。
「お前、絶対わざと強く擦ってるだろ……」
不満げに睨むヴェイルに対し、アリニアは真顔で答える。
「そんなわけないでしょ?」
わざとらしく無垢な表情を作って見せる彼女。
それが妙にあざとく、彼の眉がぴくりと動く。
アリニアはくすりと笑いながら、腕の処置を終えると、新しい包帯を巻き、ぎゅっと留めた。
そのまま、彼の隣に腰を下ろし、ほっと息をつく。
静寂。
小川のせせらぎが、森に柔らかな音を響かせていた。
まるで、今だけはダンジョンであることを忘れさせてくれるかのように。
ヴェイルは静かに目を閉じた。
吹き抜ける風が頬を撫で、疲れ切った身体から少しずつ緊張を奪っていく。
――幻でもいい。
そう思えるほど、この場所の感触は現実に近かった。
ダンジョンという現実を忘れ、ほんの一瞬だけでも、その温もりに身を委ねる。
「……これが死の罠じゃなけりゃ、もうちょい、ゆっくりしてたいな……」
穏やかに息を吐きながら、ヴェイルはそう呟いた。
一方のアリニアは、周囲に鋭い視線を走らせ続けていた。
目に見える敵も罠もなかったが、それが逆に不気味だった。
(静かすぎる……ここまでの道中、あれだけ厄介だったのに……)
アリニアの眉がわずかに寄る。
だが、どれほど警戒しても、この空間が与える癒やしは確かだった。
ふと、彼女は指先で足元の草をなぞる。
柔らかく、冷たく、生命の気配に満ちた感触。
それは、遠い記憶を呼び起こす。
「……懐かしい、な……」
ぽつりと、彼女の口からこぼれた小さな声。
ヴェイルが片目を開け、その言葉に耳を傾けた。
「お前、こんな場所に住んでたことあるのか?」
問いかけは素直な好奇心からだった。
アリニアは少しだけ首を傾け、遠くを見つめたまま答える。
「正確には違う。でも……私が育った森に、少しだけ似てるの。」
その声音はどこか優しく、けれど寂しげだった。
ヴェイルはしばらく彼女の表情を見つめ――そして、再び目を閉じた。
「……だったら、今のうちに味わっておけよ。どうせまた、現実が俺たちを引き戻してくる。」
その言葉に、アリニアは静かに目を細める。
彼の方を見つめ、そしてふっと微笑んだ。
だがその笑みは一瞬で消え、再び鋭い警戒心が瞳に戻る。
――それでも、心の奥底に残る疑念だけは、どうしても拭えなかった。
(このダンジョン……何かがおかしい。なぜ私が、ここに……?)
心の中で呟きながら、彼女は眉をひそめた。
違和感は拭えない。
ギルドの指令、出現する未知の魔物たち、そしてこの非現実的すぎる空間。
あらゆる要素が、彼女の経験から大きく外れていた。
(……こんな場所、私のランクで行くような場所じゃない)
静かに首を横に振り、不安を振り払おうとする。
だがその瞬間――
風が吹いた。
頬に当たる柔らかな風が、彼女の銀色の髪を優しく舞い上げる。
さらり、と風に揺れる髪。
その中で、彼女はそっと目を閉じた。
耳が風に揺れ、静かに震える。
ヴェイルは、その姿を黙って見ていた。
風に遊ばれる銀の髪。
木漏れ日の中で、それはまるで――
(……綺麗だ……)
不意に心がざわめき、ヴェイルは目を逸らした。
その頬に、うっすらと紅が差していることに気づき、彼は小さく舌打ちする。
(何を考えてる、俺は……)
だが、その光景は、心に焼きついて離れなかった。
小さなため息が漏れる。
風と草の香りが、それをそっと包み込んでいった。
この、束の間の平穏。
それが終わりを告げるのは、きっと――そう遠くない。
ヴェイルは再び目を閉じた。
頬を撫でる風は心地よく、肌を優しくくすぐる。
頭上から降り注ぐ陽のぬくもりが顔を暖め、
すぐそばを流れる小川の冷たい気配が、それと静かに交差していた。
緊張で固まっていた筋肉が次第に解けていき、
意識もまた、ゆっくりと深い眠りへと沈んでいく。
アリニアは彼の呼吸が徐々に整っていくのに気づき、ちらりと横目で見た。
「寝るには早いわよ、ちびオオカミ……」
くすっと笑いながら、小さく呟く。
無意識に眠りに落ちていく彼の顔は、いつもの険しさが抜け落ちていた。
まるで、ただの無防備な少年のように――
アリニアは小さく息を吐き、再び周囲へと視線を戻す。
警戒は、決して解けない。
(……罠かもしれない。この静けさが、本物のはずない)
彼女の耳が風を捉え、目は草木のわずかな揺れも見逃さない。
鳥の声一つ聞こえず、虫の羽音さえしない。
それが、むしろ不気味だった。
「どこに消えたのよ……あの光……」
誰にともなく、アリニアは囁いた。
あの道標のようだった光は、森の中に溶けるように消え去っていた。
彼女の目が再びヴェイルへと戻る。
彼はまだ、静かな寝息を立てていた。
その姿に、彼女はほんの一瞬だけ表情を緩める。
「ほんと、いつも無理ばかりして……」
小さな呟きは、風に流れて消えた。
迷いながらも、彼女は自分のマントを手に取り――そっと、彼の肩にかけた。
「……少しは、休みなさい。私が見張ってるから。」
その声は囁きにも満たないほど静かで、けれど確かな温もりがあった。
彼の顔をもう一度見つめ、
それから再び、森へと鋭い目を向ける。
この静けさがいつまで続くかなど、分かっていた。
いや――続かないことこそ、分かりきっていた。
風が再び吹き抜ける。
どこか花の香りを含んだその風は、穏やかで、優しくて――
それでも、彼女の耳と心は、気を抜くことなく張り詰めていた。
この平穏が、ほんの一瞬の幻に過ぎないことを、アリニアは誰よりも知っていたから。




