第32章:第四の試練――嗅覚
階段を下るたびに、アリニアの表情にわずかな違和感が現れ始めた。
鼻先がぴくりと震え、口元にはかすかな嫌悪の色が浮かぶ。
彼女の耳が、ゆっくりと伏せられていく。
その動きは、不快感の強まりを如実に物語っていた。
そして彼女は片手で鼻を覆い、何かから身を守るように空気を遮ろうとした。
「どうした、アリニア?」
様子に気づいたヴェイルが、不安そうに声をかける。
アリニアは振り向き、苦しげに顔をしかめながら答えた。
「……臭いの。ひどいわ……どんどん強くなってきてる……」
その声はくぐもり、呼吸さえ辛そうだった。
ヴェイルは眉をひそめる。
だが、今のところ――自分には何も感じられない。
(全然……分からない。……でも、彼女の嗅覚の方が鋭いってことか……?)
疑問を抱きながらも、二人は階段をさらに進む。
そして――最下層にたどり着いた時。
ふわり、と。
ヴェイルの鼻にも、かすかな刺激が届いた。
「……ああ、これか。確かに……嫌な臭いだな。」
鼻をつまみながら呟いたが、アリニアの様子はそれどころではなかった。
耳は完全に寝ていて、鼻を強くつまみ、息を止めるようにして耐えている。
階段の終点にある扉の前に立ち、ヴェイルはアリニアに目をやる。
そして、慎重にその扉を開いた――
ぶわっ。
空気が一気に吹き出し、先ほどまでの臭いとは比べ物にならない悪臭が二人を包み込む。
「……うっ!」
ヴェイルは思わず後ずさりし、顔をしかめながら手で鼻を覆う。
アリニアは、その場でふらついた。
「……だめ……意識が……遠のく……」
消え入りそうな声でそう呟くと、彼女はヴェイルの肩に身を預けた。
「ちびオオカミ……ここは……あなたが……なんとかするしか、ない……」
その声は微かで、もはや正確に届いているかどうかも怪しいほどだった。
ヴェイルは彼女の身体を支えながら、思考を巡らせる。
(マズい……これは……本当に限界かも。
こんな状態じゃ、まともに動けるわけがない。
この臭い……一体、何なんだ?)
「なんだこれ……?」
誰にともなく、独り言のように漏らす。
「……硫黄……それと……花の匂い……他にも、いろいろ混じってる……
全部混ざると……耐えられない……」
アリニアの言葉は、途切れがちで、息も絶え絶えだった。
二人は部屋の中へと進む。
ヴェイルはアリニアの体を支えながら、一歩一歩慎重に歩を進めた。
部屋は広い。だが、妙に――空っぽだった。
床は滑らかで、壁には奇妙な矩形の切れ込みがいくつも並んでいる。
その一つ一つの隣には、正方形の穴が開いていた。
部屋の中央には、巨大な器のようなものがあった。
まるで何かを注ぎ入れられるような、不可思議な構造。
「……なんだここ……装飾も、説明も、何もない……。
これで何をしろって言うんだよ……」
ヴェイルは壁を見渡しながら、思わず呟いた。
二人は、部屋の中央にある大きな器に近づいていった。
その周囲の空気に混じって、新たな香りが漂い始める。
今までの不快な悪臭とはまるで違い――
それは甘く、柔らかな芳香だった。
まるでカラメルを溶かしたバニラのような、濃厚で香ばしい甘さ。
「……少し、いい匂い……」
アリニアが、かすかに微笑みながら呟いた。
その表情からは、わずかに緊張が和らいでいるのが分かる。
だが、その甘い香りでさえ、彼女にとっては強すぎる。
完全に安心できる状態ではなかった。
二人は器の中を覗き込む。
中には、黄色みがかった液体が満ちており、そこからあの甘い香りが立ち昇っている。
「これが……原因か? どうして、ここだけ匂いが全然違うんだ……?」
ヴェイルは不思議そうに呟く。
そして、アリニアの方を見やる。
「……大丈夫か?」
アリニアは目を潤ませながら、微かに首を縦に振った。
「……平気よ。でも……時間がない……ちびオオカミ、急いで……」
その声は弱々しくも、どこか必死さを含んでいた。
ヴェイルは再び周囲に目を走らせる。
器の周囲、そして壁の装置の形状を確認しながら、何か手がかりを探した。
だが――部屋は何も語らない。
(……匂いと、壁の穴……何か繋がりがあるはずだ……でも、それが何だ?)
焦りが胸を締めつける中、アリニアの視線が器から壁へと移動する。
彼女の目に入ったのは、部屋の反対側に並ぶ複数の扉。
それぞれには、奇妙な枠が取り付けられていた。
彼女はふらつきながら、その方へと足を向ける。
しかし――
ぷわっ、と。
再びあの悪臭が襲いかかり、彼女の身体はぴたりと止まった。
足元が揺れ、頭がぼんやりとする。
「これじゃ……近づけない……何もできないじゃない……」
歯ぎしりするような声で、アリニアは吐き捨てた。
苛立ち、そして悔しさが入り混じった吐息が漏れる。
彼女はヴェイルに視線を送った。
「ちびオオカミ……あの枠のところの“穴”を、調べて……お願い……」
その声には、かすかな懇願が滲んでいた。
「分かった。」
ヴェイルは頷き、すぐに行動に移る。
彼女の代わりに、自分がやるしかない。それが当然のことのように。
一つ目の穴へ近づくと――
強烈な臭いが鼻を突いた。
「うっ……これは……硫黄と……炭……? 鍛冶場の火事みたいな……」
思わず顔をしかめながら、鼻をつまんで中を覗く。
中には小さな鉢のようなものがあり、黒く粘ついた液体がふつふつと泡立っていた。
その下では、小さな火が揺れている。
すぐに顔を背け、呼吸を整える。
だが、臭いは鼻の奥にこびりついたままだった。
次の穴に向かう。
こちらの匂いは、先ほどよりはましだった。
暖かい松脂のような香りが、空気に漂っている。
「こっちは……松……? ああ、加熱された樹脂だな……」
中を覗くと、ねっとりとした液体が加熱されているのが見える。
同じように、小さな火がその下で灯っていた。
彼は軽く息を吐きながら、次の穴へと歩を進める――
「……全部の穴に、違う液体がある……でも、なぜだ?」
ヴェイルは小さく呟きながら、探索を続けた。
ある穴からは、バニラのように甘い香り。
また別の穴からは、ライラックの花のような華やかな芳香。
だが最後の穴からは――
金属のような鋭く刺す臭いが、鼻を焼くように立ち上っていた。
彼はアリニアの方へ視線を向けた。
彼女はまだ、器の傍で彼の動きを見守っている。
「全部の穴に、小さな鉢があって、液体が加熱されてる。
しかも、それぞれ全部違う匂いだ……でも、何をしろっていうんだ……」
肩をすくめながら戻ろうとすると、アリニアが手招きして彼を呼び寄せた。
ヴェイルが近づくと、彼女はポーチから小さなガラス瓶を取り出す。
その動きはまだ不安定だったが、先ほどよりも幾分落ち着いた様子だった。
「……平気か?」
心配そうに声をかけるヴェイルに、彼女は弱々しくも頷いて答える。
「マシよ……でも、早く終わらせた方がいい……」
そう言うと、彼女は迷いなく瓶を器の液体へと沈めた。
黄色い液体が瓶に入り始めた瞬間――
――ゴウン。
部屋全体に、重々しい音が響いた。
壁の一つ、切り込みがあった場所がガシャンと音を立てて開き、黒く口を開ける。
「……どうせ、出口じゃないんだろ? ここがそういう場所じゃないって、もう分かってるさ……」
ヴェイルは苦笑しながら呟いた。
扉の奥から吹き出した空気が、強烈な臭いを運んでくる。
硫黄と炭の匂い――
まさに先ほどの穴で嗅いだあの刺激臭だった。
ヴェイルは咄嗟に短剣を抜き、全神経を集中させる。
あのバニラの香りでさえかき消されるほどの、濃密な匂いが鼻腔を襲った。
――ギャアアアッ!!
不意に、耳を裂くような咆哮が部屋を震わせる。
その声は、獣とも、怪物ともつかない。
だが一つだけはっきりしていた――それは、敵意に満ちていた。
暗闇の奥――
赤い双眸が現れる。
地面に落ちる影が、ゆっくりと膨れ上がっていく。
そこから現れたのは――
巨大な猫科の異形だった。
その姿は、猫を思わせるフォルムをしていながらも、もはや別の存在だった。
常軌を逸した巨体。
濡れたように黒く光る皮膚は、どろりとした液体に覆われているようだった。
そして――
その身体中を這う黒い静脈が、まるで金属の液体のように光っている。
それらは、関節や背中に突き刺さった無数の刃と繋がっていた。
「……なんだ、あれは……」
ヴェイルは息を呑む。
短剣を構える手に、自然と力がこもる。
アリニアも、その怪物を見上げていた。
苦悶の表情を浮かべながらも、その瞳は鋭く、決意の色を帯びていた。
「……ちびオオカミ……お願い……今は……戦えない……」
その言葉には悔しさと、信頼が入り混じっていた。
「……任せろ。」
ヴェイルは答える。
視線は、ただ一つ――
怪物の紅い眼をまっすぐに捉えていた。
「……大丈夫だ、アリニア。絶対に、生きて帰る。」
ヴェイルはそう呟いた。
その声は決意に満ちていたが――
自分の耳には、どこか空虚に響いた。
(……本当に、そんな約束……守れるのか?
アイツを倒すだけじゃない。ここから出る方法も、見つけなきゃいけない……)
胸に渦巻く不安を抑え込むように、彼はアリニアの方を振り返る。
彼女はまだ、立つのもやっとという状態だった。
だが――
漂っていた強烈な硫黄と炭の臭いが、少しだけ和らいだ気がした。
代わりに、甘いバニラの香りがほんのりと戻ってくる。
その変化に気づいたのか、アリニアが顔を上げた。
そして、ヴェイルと目が合う。
「……ちびオオカミ。あれは“カタクシス”よ。
速くて、鋭い……油断しないで。」
彼女の声は弱かったが、語調は落ち着いていた。
「……速くて、鋭い……か。
なら、動きを止めるか、急所を突くしかない……」
ヴェイルは短剣を握り直し、状況を分析する。
そのとき――
アリニアの手が、そっと彼の肩に触れた。
彼はその感触に、思考を止めて彼女を見つめる。
「……扉の仕掛けは、私が調べる。
あなたはアイツを、引きつけて……頼んだわよ、ちびオオカミ。」
弱々しい言葉の中に、確かな意志があった。
(……信じてくれてる……俺に、任せてくれるんだ)
胸の奥に火が灯る。
彼は一つ、力強く頷いた。
カタクシスが、音もなく近づいてくる。
その鋭い爪が床をかすめ、耳障りな金属音を響かせる。
臭いが、再び濃くなる。
甘さを圧倒する、硫黄と炭の暴力的な臭気が、空気を支配する。
「おいっ! こっちだよっ!!」
ヴェイルは叫ぶと同時に駆け出した。
アリニアから遠ざかるように、モンスターを誘導する。
カタクシスの双眸が彼を捉えた――
次の瞬間、その巨体が音もなく滑るように走り出す。
(速いっ……!)
常人の目では追えないほどの動き。
ヴェイルは必死に足を動かし、距離を保とうとする。
「持ちこたえて……ちびオオカミ。絶対に、見つけ出すから……」
アリニアはそう誓いながら、中央の器と壁の扉へと目を移した。
あの加熱された液体と、中心の甘い香りの液体――
何か関連があるはず……。
ヴェイルはなおも走り続けていた。
彼の足音が床を叩くたびに、背後でモンスターの気配が迫る。
(このままじゃ、振り切れない……)
視線を巡らせると――
視界の端に、壁際の穴が映った。
あの、液体が煮えたぎっていた場所。
(……使えるかもしれない!)
ヴェイルの頭に、一つの作戦が閃く。
ヴェイルは、あの強烈な硫黄臭の漂う穴へと足を向けた。
かすかに嘔吐感を覚えるほどの臭いだったが――
彼はその場を動かず、じっと立ち尽くす。
(……ここまで来れば、アイツも反応するはず……)
彼の期待に応えるように、カタクシスの視線が動いた。
ゆっくりと、冷徹な赤い双眸がヴェイルを捉える。
その視線は、感情の一切を感じさせない。
ただ、計算された捕食者の目だった。
粘液を滴らせながら、異形は動きを止めた。
だが次の瞬間――
がしっ。
その前脚が地面を掴み、爪が床を抉る。
身体全体に力を込め、跳躍の構えを取った。
「……引きつけろ……アリニアが見つけるまで、耐えるんだ……!」
ヴェイルは低く呟き、足元をしっかりと固めた。
迫りくる殺意を正面から受け止める覚悟とともに――
カタクシスが、喉の奥で唸り声を漏らす。
地を這うような重い音が、部屋の空気を震わせた。
――その瞬間、すべてが動き出す。




