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氷結の夜明けの果て (R16)  作者: Wolfy-UG6
プロローグ - 第2巻:ダンジョンの影 Pt.1
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第32章:第四の試練――嗅覚

階段を下るたびに、アリニアの表情にわずかな違和感が現れ始めた。

鼻先がぴくりと震え、口元にはかすかな嫌悪の色が浮かぶ。


彼女の耳が、ゆっくりと伏せられていく。

その動きは、不快感の強まりを如実に物語っていた。

そして彼女は片手で鼻を覆い、何かから身を守るように空気を遮ろうとした。


「どうした、アリニア?」


様子に気づいたヴェイルが、不安そうに声をかける。


アリニアは振り向き、苦しげに顔をしかめながら答えた。


「……臭いの。ひどいわ……どんどん強くなってきてる……」


その声はくぐもり、呼吸さえ辛そうだった。


ヴェイルは眉をひそめる。

だが、今のところ――自分には何も感じられない。


(全然……分からない。……でも、彼女の嗅覚の方が鋭いってことか……?)


疑問を抱きながらも、二人は階段をさらに進む。

そして――最下層にたどり着いた時。


ふわり、と。


ヴェイルの鼻にも、かすかな刺激が届いた。


「……ああ、これか。確かに……嫌な臭いだな。」


鼻をつまみながら呟いたが、アリニアの様子はそれどころではなかった。

耳は完全に寝ていて、鼻を強くつまみ、息を止めるようにして耐えている。


階段の終点にある扉の前に立ち、ヴェイルはアリニアに目をやる。

そして、慎重にその扉を開いた――


ぶわっ。


空気が一気に吹き出し、先ほどまでの臭いとは比べ物にならない悪臭が二人を包み込む。


「……うっ!」


ヴェイルは思わず後ずさりし、顔をしかめながら手で鼻を覆う。


アリニアは、その場でふらついた。


「……だめ……意識が……遠のく……」


消え入りそうな声でそう呟くと、彼女はヴェイルの肩に身を預けた。


「ちびオオカミ……ここは……あなたが……なんとかするしか、ない……」


その声は微かで、もはや正確に届いているかどうかも怪しいほどだった。


ヴェイルは彼女の身体を支えながら、思考を巡らせる。


(マズい……これは……本当に限界かも。

こんな状態じゃ、まともに動けるわけがない。

この臭い……一体、何なんだ?)


「なんだこれ……?」


誰にともなく、独り言のように漏らす。


「……硫黄……それと……花の匂い……他にも、いろいろ混じってる……

全部混ざると……耐えられない……」


アリニアの言葉は、途切れがちで、息も絶え絶えだった。


二人は部屋の中へと進む。

ヴェイルはアリニアの体を支えながら、一歩一歩慎重に歩を進めた。


部屋は広い。だが、妙に――空っぽだった。

床は滑らかで、壁には奇妙な矩形の切れ込みがいくつも並んでいる。

その一つ一つの隣には、正方形の穴が開いていた。


部屋の中央には、巨大な器のようなものがあった。

まるで何かを注ぎ入れられるような、不可思議な構造。


「……なんだここ……装飾も、説明も、何もない……。

これで何をしろって言うんだよ……」


ヴェイルは壁を見渡しながら、思わず呟いた。


二人は、部屋の中央にある大きな器に近づいていった。

その周囲の空気に混じって、新たな香りが漂い始める。


今までの不快な悪臭とはまるで違い――

それは甘く、柔らかな芳香だった。

まるでカラメルを溶かしたバニラのような、濃厚で香ばしい甘さ。


「……少し、いい匂い……」


アリニアが、かすかに微笑みながら呟いた。

その表情からは、わずかに緊張が和らいでいるのが分かる。

だが、その甘い香りでさえ、彼女にとっては強すぎる。

完全に安心できる状態ではなかった。


二人は器の中を覗き込む。

中には、黄色みがかった液体が満ちており、そこからあの甘い香りが立ち昇っている。


「これが……原因か? どうして、ここだけ匂いが全然違うんだ……?」


ヴェイルは不思議そうに呟く。

そして、アリニアの方を見やる。


「……大丈夫か?」


アリニアは目を潤ませながら、微かに首を縦に振った。


「……平気よ。でも……時間がない……ちびオオカミ、急いで……」


その声は弱々しくも、どこか必死さを含んでいた。


ヴェイルは再び周囲に目を走らせる。

器の周囲、そして壁の装置の形状を確認しながら、何か手がかりを探した。

だが――部屋は何も語らない。


(……匂いと、壁の穴……何か繋がりがあるはずだ……でも、それが何だ?)


焦りが胸を締めつける中、アリニアの視線が器から壁へと移動する。


彼女の目に入ったのは、部屋の反対側に並ぶ複数の扉。

それぞれには、奇妙な枠が取り付けられていた。


彼女はふらつきながら、その方へと足を向ける。

しかし――


ぷわっ、と。


再びあの悪臭が襲いかかり、彼女の身体はぴたりと止まった。

足元が揺れ、頭がぼんやりとする。


「これじゃ……近づけない……何もできないじゃない……」


歯ぎしりするような声で、アリニアは吐き捨てた。

苛立ち、そして悔しさが入り混じった吐息が漏れる。


彼女はヴェイルに視線を送った。


「ちびオオカミ……あの枠のところの“穴”を、調べて……お願い……」


その声には、かすかな懇願が滲んでいた。


「分かった。」


ヴェイルは頷き、すぐに行動に移る。

彼女の代わりに、自分がやるしかない。それが当然のことのように。


一つ目の穴へ近づくと――

強烈な臭いが鼻を突いた。


「うっ……これは……硫黄と……炭……? 鍛冶場の火事みたいな……」


思わず顔をしかめながら、鼻をつまんで中を覗く。

中には小さな鉢のようなものがあり、黒く粘ついた液体がふつふつと泡立っていた。

その下では、小さな火が揺れている。


すぐに顔を背け、呼吸を整える。

だが、臭いは鼻の奥にこびりついたままだった。


次の穴に向かう。

こちらの匂いは、先ほどよりはましだった。

暖かい松脂のような香りが、空気に漂っている。


「こっちは……松……? ああ、加熱された樹脂だな……」


中を覗くと、ねっとりとした液体が加熱されているのが見える。

同じように、小さな火がその下で灯っていた。


彼は軽く息を吐きながら、次の穴へと歩を進める――


「……全部の穴に、違う液体がある……でも、なぜだ?」


ヴェイルは小さく呟きながら、探索を続けた。


ある穴からは、バニラのように甘い香り。

また別の穴からは、ライラックの花のような華やかな芳香。

だが最後の穴からは――

金属のような鋭く刺す臭いが、鼻を焼くように立ち上っていた。


彼はアリニアの方へ視線を向けた。

彼女はまだ、器の傍で彼の動きを見守っている。


「全部の穴に、小さな鉢があって、液体が加熱されてる。

しかも、それぞれ全部違う匂いだ……でも、何をしろっていうんだ……」


肩をすくめながら戻ろうとすると、アリニアが手招きして彼を呼び寄せた。


ヴェイルが近づくと、彼女はポーチから小さなガラス瓶を取り出す。

その動きはまだ不安定だったが、先ほどよりも幾分落ち着いた様子だった。


「……平気か?」


心配そうに声をかけるヴェイルに、彼女は弱々しくも頷いて答える。


「マシよ……でも、早く終わらせた方がいい……」


そう言うと、彼女は迷いなく瓶を器の液体へと沈めた。

黄色い液体が瓶に入り始めた瞬間――


――ゴウン。


部屋全体に、重々しい音が響いた。


壁の一つ、切り込みがあった場所がガシャンと音を立てて開き、黒く口を開ける。


「……どうせ、出口じゃないんだろ? ここがそういう場所じゃないって、もう分かってるさ……」


ヴェイルは苦笑しながら呟いた。


扉の奥から吹き出した空気が、強烈な臭いを運んでくる。

硫黄と炭の匂い――

まさに先ほどの穴で嗅いだあの刺激臭だった。


ヴェイルは咄嗟に短剣を抜き、全神経を集中させる。

あのバニラの香りでさえかき消されるほどの、濃密な匂いが鼻腔を襲った。


――ギャアアアッ!!


不意に、耳を裂くような咆哮が部屋を震わせる。

その声は、獣とも、怪物ともつかない。

だが一つだけはっきりしていた――それは、敵意に満ちていた。


暗闇の奥――

赤い双眸が現れる。

地面に落ちる影が、ゆっくりと膨れ上がっていく。


そこから現れたのは――

巨大な猫科の異形だった。


その姿は、猫を思わせるフォルムをしていながらも、もはや別の存在だった。

常軌を逸した巨体。

濡れたように黒く光る皮膚は、どろりとした液体に覆われているようだった。


そして――

その身体中を這う黒い静脈が、まるで金属の液体のように光っている。

それらは、関節や背中に突き刺さった無数の刃と繋がっていた。


「……なんだ、あれは……」


ヴェイルは息を呑む。

短剣を構える手に、自然と力がこもる。


アリニアも、その怪物を見上げていた。

苦悶の表情を浮かべながらも、その瞳は鋭く、決意の色を帯びていた。


「……ちびオオカミ……お願い……今は……戦えない……」


その言葉には悔しさと、信頼が入り混じっていた。


「……任せろ。」


ヴェイルは答える。

視線は、ただ一つ――

怪物の紅い眼をまっすぐに捉えていた。


「……大丈夫だ、アリニア。絶対に、生きて帰る。」


ヴェイルはそう呟いた。

その声は決意に満ちていたが――

自分の耳には、どこか空虚に響いた。


(……本当に、そんな約束……守れるのか?

アイツを倒すだけじゃない。ここから出る方法も、見つけなきゃいけない……)


胸に渦巻く不安を抑え込むように、彼はアリニアの方を振り返る。

彼女はまだ、立つのもやっとという状態だった。

だが――


漂っていた強烈な硫黄と炭の臭いが、少しだけ和らいだ気がした。

代わりに、甘いバニラの香りがほんのりと戻ってくる。


その変化に気づいたのか、アリニアが顔を上げた。

そして、ヴェイルと目が合う。


「……ちびオオカミ。あれは“カタクシス”よ。

速くて、鋭い……油断しないで。」


彼女の声は弱かったが、語調は落ち着いていた。


「……速くて、鋭い……か。

なら、動きを止めるか、急所を突くしかない……」


ヴェイルは短剣を握り直し、状況を分析する。


そのとき――

アリニアの手が、そっと彼の肩に触れた。

彼はその感触に、思考を止めて彼女を見つめる。


「……扉の仕掛けは、私が調べる。

あなたはアイツを、引きつけて……頼んだわよ、ちびオオカミ。」


弱々しい言葉の中に、確かな意志があった。


(……信じてくれてる……俺に、任せてくれるんだ)


胸の奥に火が灯る。

彼は一つ、力強く頷いた。


カタクシスが、音もなく近づいてくる。

その鋭い爪が床をかすめ、耳障りな金属音を響かせる。


臭いが、再び濃くなる。

甘さを圧倒する、硫黄と炭の暴力的な臭気が、空気を支配する。


「おいっ! こっちだよっ!!」


ヴェイルは叫ぶと同時に駆け出した。

アリニアから遠ざかるように、モンスターを誘導する。


カタクシスの双眸が彼を捉えた――

次の瞬間、その巨体が音もなく滑るように走り出す。


(速いっ……!)


常人の目では追えないほどの動き。

ヴェイルは必死に足を動かし、距離を保とうとする。


「持ちこたえて……ちびオオカミ。絶対に、見つけ出すから……」


アリニアはそう誓いながら、中央の器と壁の扉へと目を移した。

あの加熱された液体と、中心の甘い香りの液体――

何か関連があるはず……。


ヴェイルはなおも走り続けていた。

彼の足音が床を叩くたびに、背後でモンスターの気配が迫る。


(このままじゃ、振り切れない……)


視線を巡らせると――

視界の端に、壁際の穴が映った。

あの、液体が煮えたぎっていた場所。


(……使えるかもしれない!)


ヴェイルの頭に、一つの作戦が閃く。


ヴェイルは、あの強烈な硫黄臭の漂う穴へと足を向けた。

かすかに嘔吐感を覚えるほどの臭いだったが――

彼はその場を動かず、じっと立ち尽くす。


(……ここまで来れば、アイツも反応するはず……)


彼の期待に応えるように、カタクシスの視線が動いた。

ゆっくりと、冷徹な赤い双眸がヴェイルを捉える。


その視線は、感情の一切を感じさせない。

ただ、計算された捕食者の目だった。


粘液を滴らせながら、異形は動きを止めた。

だが次の瞬間――


がしっ。


その前脚が地面を掴み、爪が床を抉る。

身体全体に力を込め、跳躍の構えを取った。


「……引きつけろ……アリニアが見つけるまで、耐えるんだ……!」


ヴェイルは低く呟き、足元をしっかりと固めた。

迫りくる殺意を正面から受け止める覚悟とともに――


カタクシスが、喉の奥で唸り声を漏らす。

地を這うような重い音が、部屋の空気を震わせた。


――その瞬間、すべてが動き出す。

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