第31章:侵すことなき岩のごとく
石像が突如として赤く光り出した。
ひび割れた表面を、まるで燃え上がる血管のように真紅の筋が這い回り、脈打つように脈動している。
その目が、炎を灯したようにぎらりと輝いたかと思うと――
次の瞬間、ヴェイルの方へと首を向けた。彼は、うっかりと踏み込んでしまった床の上に、まだ立ち尽くしていた。
その異変にいち早く気づいたアリニアは、すぐさま石像の背後にある巨大な扉に目を向けた。
扉の上部に刻まれていた最初の紋章が、かすかに光を帯びているのを見て取る。
「動いた……。全部の床を起動すれば、この扉が開くってことね……」
彼女は安堵したように呟いたが、それを遮るように――
ドンッ!!!
轟音が洞窟内に鳴り響く。
石像が一歩、前に踏み出したのだ。
その巨大な足が地面を砕き、周囲の石を粉々に吹き飛ばす。
手に持つ槍が地面を打ちつけられ、まるで戦槌のような衝撃が走った。
「ちびオオカミっ! 急いで、全部の床を踏みなさいっ! 紋章を見て! ちゃんと反応してるわよ!」
アリニアは叫びながら、扉上の光る紋章を指差す。
だが、その目線はすぐに石像へと戻された。
彼女は迷うことなく駆け出す。
その巨大な敵の注意を、自らに引きつけるために――
石像の一歩ごとに地面は揺れ、轟音とともに亀裂が走っていく。
「急いでっ! 床が壊されたら、ここから出られなくなるわよ!!」
彼女は怒鳴りながら全力で走り、ついに石像の目前に迫った。
そして――跳ぶ。
その巨足に向かって飛びかかり、鋭く伸びた爪が閃光を放つ。
ガキィンッ!!
岩肌と爪が擦れ合い、火花が散った。
だが、その表面はまるで金属のように硬い。
「……まるで鎧よ……。それでも、止めなきゃ……!」
悔しげに唸りながらも、アリニアは体勢を立て直し、再び構える。
一方その頃、ヴェイルは壁の模様を凝視していた。
目を凝らし、次に光らせるべき紋章を見つけ出す。
複雑な線が刻まれたその模様は、先ほどのとは別のものだった。
(……道順が変わってる……! アリニアが通った場所じゃ、もう通用しない……)
彼は意識を集中させ、周囲の床を睨むように見渡す。
そして――見つけた。
左手側、わずかに奥まった場所に、目的の紋章が刻まれた床があった。
ヴェイルはすぐさま駆け出し、勢いよくその床に飛び乗る。
ピシィッ――
真紅の光が床面を走り、上の扉に刻まれた紋章の輝きが一段と強くなる。
(……よしっ!)
ほっとしたのも束の間――
「続けてっ、ちびオオカミ! 休む暇なんてないわよ!!」
アリニアの声が再び響いた。
その声は、ただの檄ではない。
迫る脅威と、わずかな希望を繋ぐ、決死の叫びだった。
石像の足が振り下ろされる直前――
アリニアは軽やかに跳び上がり、かろうじてその一撃を避けた。
彼女がいた場所を、巨大な足が粉砕し、床は見るも無惨に砕け散った。
「床が……壊されたら終わりだ……!」
ヴェイルは強張った声で呟いた。
彼の視線は再び壁へ向けられ、複雑に刻まれた模様の中から、次の紋章を必死に探し始める。
一方でアリニアは、石像の注意を引き続けるために奔走していた。
それが、床への接近を阻む唯一の手段だった。
ゴォオオォンッ!!
石像が持ち上げた槍が、再び地面を叩きつける。
耳をつんざく轟音と共に、地面が砕け散る。
その直前までアリニアが立っていた場所だった。
ヴェイルは思わずその光景に目を奪われる。
濛々と舞い上がる粉塵が視界を覆い、彼の心に不安が広がっていく。
「アリニア! 大丈夫かっ!?」
叫んだその声に、応えるように響いたのは――
「動きなさいよ、ちびオオカミっ!! このままじゃ、あたしがミンチになるっ!!」
怒鳴るような声だった。
だが、それは確かに、彼女の力強い生の証だった。
歯を食いしばり、ヴェイルは壁の模様に再び視線を戻す。
そして――見つけた。
(あれだ……!)
床の少し先、刻まれた紋章と一致するパネルが見える。
彼は即座に駆け出し、跳び乗った。
床が赤く輝き、扉上の紋章が新たに光を放つ。
だが――
その瞬間、強烈な衝撃が背後から襲いかかった。
石像の槍が地面に叩きつけられ、広がった衝撃波が彼の足元を揺らしたのだ。
体勢を崩したヴェイルは、次の瞬間、隣のパネルに倒れ込んでしまう。
――カチッ。
機械的で不吉な音が空間に響き渡る。
直後、黒く鋭い杭が走る閃光のごとく飛び出し、通路を横切った。
ゴシュッ!!
壁に突き刺さり、石を砕く衝撃が響く。
「な、なんだ今のはっ……!?」
ヴェイルは荒い息を吐きながら、目を見開いた。
今のは……罠だった。
彼の手足が震える。
あのまま少しでもタイミングが違っていれば――確実に串刺しになっていた。
アリニアは、依然として石像の猛攻と対峙していた。
巻き上がる砂塵と破片の中、彼女はなおも集中を切らさずに動いている。
「アリニアッ! 扉を確認してくれ! こっちからはもう見えないんだっ!!」
必死の声に、アリニアの耳がぴくりと反応する。
彼女はすぐさま振り返り、扉の上に目をやる。
「……光ってるわ。でも……赤いラインが増えてる……? ちょっと、ちびオオカミ! 何したのよっ!?」
彼女の声は、驚きと怒気を孕んでいた。
だが、その裏には確かな警戒が滲んでいた。
何かが――変わり始めている。
石像の足が、地面を薙ぐように襲いかかる――
アリニアは間一髪でその攻撃をかわし、爪を床に滑らせながら体勢を立て直した。
「踏んじゃったんだ! 衝撃で、間違った床をっ!」
ヴェイルは焦りながら叫ぶ。
「ちびオオカミ、こっちは全部受け持ってるのよ! ちゃんとしなさい、ここでは一つのミスが命取りなのよ!!」
苛立ちを露わにしたアリニアの声が、響いた。
彼女はすぐに石像から距離を取りつつ、必死に思考を巡らせる。
(あの赤い線……もしあれが別の意味を持ってるなら……私たち、本当に危ないかも……。
この像を床に近づけさせるわけにはいかない。何があっても……止めなきゃ……)
息を荒げながら、彼女は再び石像の前に立ちはだかる。
一方、ヴェイルは大きく息を吸い、震える呼吸を無理やり落ち着けた。
(集中しろ……もう、これ以上の失敗は許されない……)
彼は再び壁の模様に目を向ける。
視界がぶれそうになる中、必死に次の紋章を探し出す。
時間が伸びきったかのように、重苦しく、焦燥が全身を締め付ける。
やがて――
彼の目が、次の紋章を捉える。
床を見渡し、対応するパネルを発見するや否や、ためらわずに跳び出した。
着地と同時に、床が真紅の光を放つ。
扉の上に新たな紋章が灯る。
(よし、これで……)
彼の目は、再びアリニアへと向いた。
彼女はなおも石像の注意を引きつけていたが、その動きにはかつての鋭さが失われつつあった。
呼吸は荒く、肩が上下に揺れている。
(疲れてる……このままじゃ、もたない……)
「……急がなきゃ……!」
ヴェイルは唇を噛み締め、次の紋章を探す。
石像は、その巨体に似合わぬ速度で迫ってくる。
そのたびに地面が震え、石片が宙を舞う。
アリニアの足取りも、次第に鈍ってきていた。
(あと少し……あと少しだけ耐えてくれ……!)
アリニアもまた、必死に立っていた。
(もう少し……もう少しだけで……)
彼女は心の中で、何度も自分を鼓舞する。
だが、距離はどんどん縮まっていた。
石像の足をかすめるように攻撃をかわすと――
今度は、槍の先端が地面を抉りながら、自分の方へと滑ってくるのが見えた。
(……無理……避けられない――!)
視界が揺れる。
疲労した身体が、限界を迎えようとしていた。
巨大な武器の影が目前まで迫る――
そのとき、アリニアの胸を、一つの儚い想いがかすめた。
《ごめんね、ちびオオカミ……もう、これ以上は……耐えられない……》
そう呟くように心の中で詫びると、彼女は目を閉じた。
全てを受け入れる覚悟を、その瞬間に決めていた。
――ゴンッ!
金属がぶつかり合う、重々しい音が部屋中に鳴り響いた。
アリニアの瞼が、はっと見開かれる。
目の前の景色が、信じられない光景を映し出していた。
石像が――止まっていた。
その武器は、彼女の身体に触れる寸前で静止している。
ほんの数センチ、ほんの一瞬の差。
赤く脈打っていた石像の体表の光は、徐々にその輝きを失っていく。
やがて、赤い筋は完全に消え、岩肌に亀裂が走り始めた。
ぱき……ぱきぱき……
乾いた音と共に、巨大な石の巨体は崩れ、ただの岩と化した。
アリニアはその場で固まったまま、長い沈黙の後、ふうっと息を吐いた。
「……何が……今の……どうして止まったの……?」
呆然と呟いたその時、背後から急いで駆け寄る足音が響く。
そして――そっと、肩に手が添えられた。
「終わったよ、アリニア。……ちゃんと、やった。」
ヴェイルの声だった。
かすかに笑みを浮かべたその表情に、彼女はようやく正気を取り戻す。
見上げると、彼の顔が目の前にある。
彼女は息を整えながら、ふっと口元を緩めた。
「……やっとね、ちびオオカミ。
もう少し遅かったら、私が床全部踏みに行く羽目になるとこだったわ。」
からかうような口ぶりに、だがその声には確かな安堵が宿っていた。
疲労が全身を包む中でも、彼女の唇にはほのかな笑みが浮かぶ。
そして、その視線が、ゆっくりと部屋の奥――
巨大な扉へと向けられた。
――カチリ。
澄んだ、だが確かな金属音が空間に響く。
扉が、わずかに動いた。
鍵が、解除されたのだ。
二人の前に、新たな道が開かれようとしていた。
「……少し、休む?」
ヴェイルが尋ねた。
その声音には、ほんの少しの冗談と、確かな気遣いが混ざっていた。
「……いいえ。進みましょう。
どれだけ猶予があるかも分からないし、ここに長くいれば、それだけ弱るだけ。」
アリニアは落ち着いた声で、しかし迷いなく答えた。
二人は、ゆっくりと扉へと向かう。
ひび割れた床の上を、足音だけが静かに響いていた。
扉の向こうに待っていたのは、またしても下へと続く螺旋階段。
前の階層と同じように、深く、果てしなく、地下へと続いていた。
「……ま、いざってとき死んでも、もう地下だしな。
墓を掘る手間だけは省けるってもんだ。」
疲れた笑みを浮かべながら、ヴェイルが呟く。
アリニアはわずかに目を細め、そして――ふっと笑った。
「くだらないこと言ってないで、さっさと歩きなさいよ。ちびオオカミ。」
呆れたような、けれどどこか優しい声だった。
二人は並んで、暗き階段を降り始める。
足音が一歩ずつ、沈黙の中に吸い込まれていく。
先に何が待つのか――
その正体は、まだ誰にも分からない。
「この先、もっと厄介になるとしたら……今度は、何が出てくるのかしら……」
アリニアが低く呟いた。
その声には、わずかな警戒と――闘志が滲んでいた。
「何が来たって、行くしかない。
……絶対に、最後まで辿り着く。」
ヴェイルは心の中で誓うように、小さく言った。
彼の目には、揺るぎない光が宿っていた。
そして二人は、静かに、だが確かに――
次の試練へと歩を進めていった。




