第29章:時の圧力
アリニアの思考は、限界まで加速していた。
闇の中を動く影。その一つひとつの動きを観察し、光の糸が断ち切られるたびに、その軌跡を読み取っていく。
「この光……ただの飾りじゃない。何か意味があるはず。でも……何?」
アリニアが集中した声でつぶやいた。
一方、ヴェイルも影を警戒しながら、動いている光点に目を向けていた。
動くものは、決まったパターンで現れては止まり、そして次の光へと移っていくように見える。
《もしかして……鍵は、この動く光なのか?》
ヴェイルは目を細めながら考える。
そして――
ふとアリニアの方へ顔を向けた。
浮かび上がる一つの仮説を、彼は口にする。
「アリニア。あの光、動いてるやつ。あれに触れたり、何かすれば……何か起こるかもしれないって、思わないか?」
その声には、焦りと、ほんのわずかなためらいが混じっていた。
アリニアは耳をすませながら、静かに応えた。
「その可能性はある。でも、ちびオオカミ。私の指示をよく聞いて」
その声音には、緊張と冷静さが同居していた。
「一つでもミスをしたら――あいつらに引き裂かれるわよ」
ヴェイルは深く頷き、反射的に短剣を握り直した。
ゆっくりと前へ進み、目の前で揺れる光に視線を定める。
一歩ごとに緊張が増していく。
静まり返った空間では、自分の呼吸音さえも不自然なほど大きく響いていた。
後方に残るアリニアは、神経を研ぎ澄ませていた。
その鋭敏な耳が、突如として空気の震えを捉える。
「右! 今すぐ跳べ!」
即座の指示に、ヴェイルは反応した。
咄嗟に体を横へと投げ出す。
直後――
バシュッ!
地面に影が叩きつけられ、鈍い音が空間を震わせた。
姿を現した影はすぐさま天井へと戻り、再び闇に溶けていく。
心臓が跳ね上がる。
それでも、ヴェイルは進み続けた。
ようやく、動いていた光に手が届く。
だが――
その瞬間、光は急に停止し、まるで命を失ったかのように薄れていった。
そして、別の光が――数メートル先で動き始める。
「逃げるつもりかよ……冗談じゃねぇ」
ヴェイルは低く唸った。
すぐに次の光へと駆け出す。
その頃、アリニアも異変に気づく。
空気の中に、また別の動き――
「そこから離れて! 次が来るわ!」
叫びと同時に、ヴェイルは動いていた。
その手が、再び新たな光へと伸び――
その刹那、暗闇の中から影が跳びかかった。
ドンッ!!
爆発するような閃光が、空間全体を照らし出した。
思わずアリニアは目を細め、一歩引く。
強烈な光が、まるで闇を押し返すように、周囲を包み込んでいった。
「この光……暗闇の後だと、強すぎる……っ」
アリニアは目を細め、息を呑んだ。
鋭い悲鳴が、空間を切り裂くように響いた。
ヴェイルに襲いかかった影は、まばゆい光に焼かれるように、その場で霧散していく。
アリニアはまぶしさに目を細めながらも、必死に視界を保とうとした。
かろうじて、ヴェイルの姿が見える。
顔の前に手をかざし、必死に光から身を守っていた。
その足元に、黒い液体が広がっていた。
「……血?」
アリニアはかすかに息をのむ。
一気に駆け寄る。
胸の奥で心臓が激しく打ち鳴らされていた。
「ちびオオカミ! 大丈夫!? ケガしてない!?」
その声には、焦りと心配が滲んでいた。
ヴェイルはゆっくりと手を下ろし、苦悶の表情を浮かべながら呟いた。
「……消える直前に、斬られたみたいだ」
淡々とした声だったが、そこには確かな痛みがあった。
アリニアはすぐさま膝をつき、彼の足元へ視線を落とす。
足首から血がにじみ、細く赤い線が靴の縁を濡らしていた。
「浅い傷だけど……出血してる。止めなきゃ」
彼女は迷わず、自分の袖口を引き裂き、その布を使って傷を丁寧に巻いていく。
手早く、正確な動きだった。
その間にも、暗闇の奥からは不気味な音が続いていた。
ガサガサ……ゴゴゴ……
影たちは、まるで獲物を逃したことに苛立っているかのように、低く唸っている。
アリニアは天井を見上げた。
光は少しずつ弱まりつつあったが、それでも周囲をかろうじて照らしていた。
今の彼らを守る唯一の結界――
その光の円は、ほんのわずかばかりの安全地帯を示しているにすぎなかった。
「他の光も……動いてるぞ、見ろ」
ヴェイルが、天井の方を指差しながら言った。
その声には、痛みとともに焦りが混ざっていた。
アリニアも視線を上げる。
一瞬、眉をひそめたが、すぐに頷く。
「光に触れても、あれだけ明るさが残るなら……全部を点灯させれば、影たちの動きを封じられるかもしれない」
彼女は立ち上がり、冷静にそう言い放った。
ふたりは視線を交わす。
互いに深く息を吸い、覚悟を新たにする。
「ちびオオカミ、集中して。あいつらより先に動くのよ」
アリニアの声には、厳しさと信頼があった。
ふたりは同時に走り出す。
動く光に向かって、それぞれ別の方向へと。
アリニアは一歩も迷わず、最初の光へと手を伸ばした。
触れた瞬間――
バァンッ!
激しい閃光が弾け、視界を白く染める。
思わずアリニアは身を引き、目を細める。
「目が焼けるっての……でも、進んでる。確実に」
彼女は苛立ちを押し殺しながらも、口元を引き締めた。
一方その頃――
ヴェイルも別の光へと到達していた。
だが、その手が触れるよりも早く――
ズシャッ!
影が、突然彼の目の前に現れた。
「うわっ……!」
思わず叫び、ヴェイルは飛び退く。
だが今回は、影の動きの方が速かった。
地面へと叩きつけられることなく、むしろ――
黒い腕が彼の足首をつかみ、上へと持ち上げたのだ。
「アリニアッ!!」
空中でヴェイルは叫んだ。声が震える。
宙吊りの状態で、片足を必死に振り回す。
しかし、手応えはない。まるで空を切るように、黒い腕をすり抜けるだけだった。
その声を聞いたアリニアは、すぐさま振り返る。
既に一つの光を起動させたばかりだった彼女の目に、吊るされたヴェイルの姿が映る。
「しっかり掴まってて、ちびオオカミ!」
彼女は迷うことなく駆け出した。
ヴェイルのすぐ傍に、まだ起動していない光があった。
間一髪。
影が次の動きを見せるよりも早く、アリニアはその光に手を伸ばした。
ピシィ――ン!!
またしても、激しい閃光。
先ほどよりもさらに眩しく、空間全体を打ち抜くほどの光だった。
キイイイイッ!!
影の断末魔のような悲鳴が室内に響き渡り、
掴まれていたヴェイルの体が、重力に引かれて落下する。
「ぐっ……!」
頭から床に叩きつけられたヴェイルが、苦悶の声を漏らす。
アリニアはすぐさま彼の元へと膝をついた。
「起きて。まだ終わってない」
落ち着いた声ではあったが、その目には焦りが浮かんでいた。
彼女はすぐに天井へと目を向ける。
動いている光は、あとひとつ――
しかも、かなり離れた場所だった。
「ここで待ってて。動かないで」
アリニアは低く命じると、
右足に力を込め、助走もなしに跳び出した。
足音は静かに、しかし確実に室内に響く。
耳は全神経を張り詰め、空気の揺れすら見逃さない。
だが――
今回、影は動かない。
それでも彼女は、一瞬たりとも警戒を緩めなかった。
そして――
最後の光へと、手を伸ばす。
バァアアアン――!!
部屋全体を包むような、まばゆい閃光が放たれた。
今までのどれよりも強烈で、視界すべてが白に染まっていく。
「……っ、まぶしい……!」
アリニアは思わず目を閉じ、片手で顔を庇った。
それと同時に、他の光たちも一斉に輝き出す。
一つひとつが呼応するように閃光を放ち、
やがて部屋全体が、まるで昼間のような明るさに包まれた。
ヴェイルも思わず目を背け、
アリニアと共に、顔を覆う。
だが、それでも光は彼らの瞼を貫くように、脳裏に残像を刻みつける。
視界の中を、淡い光の斑点が漂い始める。
「ちびオオカミ、動かないでッ!!」
アリニアの声が、光の洪水の中で鋭く響いた。
その瞬間――
耳をつんざくような叫び声が、部屋中に響き渡った。
ただの悲鳴ではない。部屋のあらゆる方向から同時に放たれる、恐怖と怒りが混ざったような絶叫だった。
光に晒された影たちは、もう逃げ場を持たなかった。
その形は崩れ、黒い煙のように渦を巻きながら消滅していく。
いくつもの影が音もなく溶け、闇はその存在を否定されたかのように消えていった。
やがて、静寂。
圧倒的な沈黙が、先ほどまでの混沌を否定するように広がっていく。
アリニアはゆっくりと顔の前に構えていた手を下ろし、目を細めながらまばゆい光に慣れようとした。
やがて、落ち着きを取り戻し始めた視界の中に、ようやくはっきりとした室内が浮かび上がる。
「……終わったの、かな?」
息を整えながら、アリニアはぽつりとつぶやいた。
彼女はヴェイルの方へと歩み寄る。
ヴェイルはまだその場に座り込み、両手で顔を覆っていた。
アリニアはそっと彼の肩に手を置く。
「……っ!? な、なんだ……?」
ヴェイルは驚いたように息を呑み、ゆっくりと顔を上げる。
光に馴染み始めた目が、ようやく部屋全体を映し出した。
その空間は――
これまでの試練に比べて、あまりにもあっけないものだった。
荒く削られた岩の壁。
天井は低く、圧迫感すら覚える。
そして、その壁に沿って並ぶ四体の石像――
一体目は、威厳に満ちた王。
精巧な王冠を戴き、誇らしげに胸を張っていた。
二体目は、鎖に縛られた奴隷。
目を伏せ、重みに耐えるかのように身体を折り曲げている。
三体目は、優美な女王。
手にした杖は力強く、表情には気高さが宿っていた。
そして四体目――
剣を構え、まっすぐ前を見据える兵士の像。
まるで今にも動き出しそうな気迫を漂わせていた。
アリニアは静かに腰を下ろす。
唇に、疲れを滲ませたかすかな笑みを浮かべながら。
「やっと……終わったみたいね」
その声には、安堵と倦怠が同居していた。
ヴェイルも隣に腰を下ろし、痛む足首を手で押さえる。
彼は警戒心を捨てず、ゆっくりと部屋を見渡した。
「……静かすぎる。何かおかしい」
彼の声は低く、慎重だった。
その視線が壁を這うように移動し、何かに気づいた瞬間――
顔を向け、アリニアを遮った。
「アリニア……出口が、ない」
アリニアは目を見開き、素早く周囲を見回す。
耳をぴくりと動かしながら、壁から壁へと視線を滑らせていく。
だが――
どこにも、出口らしきものは見当たらなかった。
「……どうやって出るの……?」
アリニアは、困惑したように呟いた。
そのときだった。
――カチッ。
乾いた金属音が、部屋の奥から響いた。
直後、重たい沈黙が空間を支配する。
二人は同時に、息を止めた。
光が――
突然、すべて消えた。
再び闇に沈む空間。
「……またかよ……っ」
ヴェイルが、怯えを含んだ息を漏らす。
さっきまでの強烈な光に慣れてしまった目には、暗闇はあまりにも酷だった。
「終わってない……? じゃあ、次は何……?」
アリニアの声も、微かに震えていた。
ふたりは動けずにいた。
意識は研ぎ澄まされているのに、状況が見えない。
この静寂が、何よりも恐ろしかった。
そんな中――
ふと、闇に一筋の光が差した。
天井に、ぽつりと浮かぶ微かな光点。
「……はぁ? また……始まるのか?」
ヴェイルが苛立ちを隠さず声を上げた。
アリニアは目を細め、その光を見据える。
「分からない……でも、ちびオオカミ。何か見落としたのかも」
彼女の言葉は冷静だったが、内心では警戒を緩めていない。
しかし――
何より奇妙だったのは、その空間の「静けさ」だった。
音が、ない。
叫びも、気配も、風のささやきすらも。
「……静かすぎる。逆に……不気味」
アリニアがぽつりと呟いたと同時に、一歩を踏み出す。
その瞬間――
パッ――!
光点から光の糸が走る。
それが次の点へと伸び、また次へと。
ひとつ、またひとつ、部屋の中を線で繋ぎながら光が灯っていく。
「……でも、今までとは違う」
アリニアの目が細くなる。
ヴェイルもすぐに異変に気づき、声をかけた。
「見てみろ。今回の線……分岐してない。一本道だ」
アリニアは頷きながら、その流れを追い続けた。
やがて、最後の光が点灯する。
だが――
そこからは、何も起こらない。
光の糸は伸びず、ただ最後の点で止まっていた。
代わりに、低く響く音が耳を打つ。
――カチ、カチ、カチ……
「……今度は、何?」
ヴェイルが眉をひそめる。
その音は、どこか機械的で、間隔も一定だった。
アリニアと視線を交わし、息を呑む。
「ヒントでもあればね……」
ヴェイルが小さく毒づいたその直後――
――カチカチカチカチカチカチ!!
クリック音が急激に速くなった。
明らかに「何か」が迫っている。
「ちびオオカミ! これは……タイマーよ!」
アリニアが鋭く叫んだ瞬間、
ヴェイルの手を掴み、走り出す。
息を切らしながら、光の道を追うように――
ふたりの足音と鼓動が、急速に迫るカウントダウンのリズムと重なっていく。
《つまずくな。止まるな。今は絶対に……》
ヴェイルは、自らに言い聞かせるように心中で繰り返した。
天井の光が進むべき道を示してくれるとはいえ、時間が容赦をくれるわけではない。
――カチッ、カチッ、カチッ……
刻むようなクリック音が、どんどん速くなる。
沈黙の間隔は短くなり、緊張が喉を締め付ける。
そしてついに――
最後の光にたどり着いた。
その真下、壁にぽっかりと開いた穴が現れる。
人ひとり、ようやく通れる程度の小さな開口部。
「ここよ!」
アリニアが鋭く叫んだ。
ヴェイルの手をさらに強く握りしめ、そのまま迷うことなく駆け込む。
――カチッ。
最後のクリックが鳴ったその瞬間、ふたりの体は穴をすり抜け、闇の向こうへと消えていく。
直後。
背後の壁が、無音で閉じた。
何の猶予も、余韻もなかった。
まるで最初から道などなかったかのように、完璧に封じられる。
――ガアアアアアアアアッ!!
直後、凄まじい咆哮が響いた。
怒りと狂気を煮詰めたような叫びが、閉じた壁の向こう側から震えるように伝わってくる。
影たちが、暴れている。
逃げた獲物に手が届かなかった怒り。
食い破れぬ扉への苛立ち。
その全てが、あの一瞬の遅れがどれほど致命的だったかを物語っていた。
だが今――
ふたりの前には、新たな空間が広がっていた。
石造りの通路に、パチ……パチ……と音を立てながら、順々に松明が灯っていく。
やがて現れたのは、下へと続く螺旋階段。
さらに深く。
さらに、未知の階層へと誘う道。
アリニアは息を整えながら、ヴェイルを見た。
疲労をにじませつつも、口元に安堵の笑みを浮かべていた。
「……今度こそ終わり。少なくとも、この階層はね」
かすれた声だったが、その言葉には確かな解放感があった。
だが、ヴェイルの表情は曇ったままだった。
「これが……“試練”だって言うなら……次は、どれだけ酷いんだ……?」
彼は立ち上がりながら、もう一度だけ振り返る。
閉ざされた壁を見つめるその目には、不安と警戒が色濃く残っていた。
「アリニア……この試練、どんどん歪んできてる。何か……嫌な感じがする」
低く、思い詰めたような声。
アリニアはその言葉を静かに受け止め、そして――
微かに微笑む。
「そうね。けど……ちびオオカミ、私たちはまだ生きてる。
だったら、最後まで進むだけよ」
ふたりは、短く視線を交わした。
無言のまま、決意を共有する。
そして――
ゆっくりと階段を降り始めた。
痛む足を引きずりながらも、ヴェイルは一歩ずつ進んでいく。
その後ろから、等間隔に松明が灯り、彼らの行く手を照らし続けた。
――闇のさらに奥、試練のさらに底へ。




