第28章:第二の試練――視覚
階段を下りた先。
アリニアが扉を開くと、そこに広がっていたのは――
完全なる闇だった。
壁も、床も、天井すらも存在を感じさせない。
すべてが飲み込まれたような暗黒。
どこまでが空間で、どこからが虚無なのか、まるで判別できない。
アリニアは振り返り、ヴェイルに視線を送った。
その瞳には、不安と警戒が入り混じっていた。
「もしかしたら……最初の部屋みたいに、進めば明かりがつくかも」
どこか自分に言い聞かせるような、弱々しい声だった。
ヴェイルは頷く。
だが、内心では期待していなかった。
「ここまで来て、急に優しくなるわけがないだろ……」
彼は低く呟いた。
慎重に一歩、また一歩と中へ入る。
その瞬間――
バンッ!
背後で扉が閉まる音が、重く響いた。
廊下の光が消え、完全な暗闇が二人を包み込む。
空気が、変わる。
重く、息苦しく、圧迫感すらある。
「アリニア……何が起きた?」
ヴェイルの声に、緊張が滲む。
「私もここよ。扉が閉まった……今の私たち、完全にこの闇に閉じ込められたわ」
アリニアの返答はすぐだった。冷静さを保っている――ように聞こえた。
深い沈黙が訪れる。
唯一の音は、二人の呼吸。
その一つ一つが、異様なほど大きく感じられた。
アリニアはゆっくりと手を伸ばし、周囲を探る。
「……何もない。壁も障害物も、何も。まるで空間そのものが存在してないみたい」
一歩、また一歩。
足元の感覚すら不確かで、歩を進めるほどに不安が増していく。
「手を握ってくれ。見えなくても、離れなければ済むから」
ヴェイルは静かに、だがはっきりと提案した。
アリニアは、一瞬だけためらった。
この状況では当然の行動――そう分かっていても、心のどこかが揺れる。
「変なことしたら、爪の一撃で即死よ、ちびオオカミ」
少しだけ冗談を交えた声で、けれど本気の警告。
「こんな時でも冗談言えるんだな」
ヴェイルは苦笑する。もちろん、彼女には見えない。
二人は手探りで、互いを探す。
指先が冷たい空気をかき分け、慎重に、静かに、相手を求める。
その時。
――触れた。
ほんのり温かく、柔らかい感触。
「……見つけた」
ヴェイルは安堵を込めて、そう囁いた。
アリニアもまた、手に伝わる温もりを感じ取った。
彼女はしっかりとヴェイルの指を握り返す。
その動きには、闇に屈しない強さが込められていた。
「少なくとも、これで離れずにすむ。……それだけでも安心ね」
彼女の声には、わずかな安堵と、警戒の色が混ざっていた。
その手のぬくもりは――
深く、重く、すべてを奪っていくかのような闇の中で、
確かに彼らをつなぎとめていた。
ヴェイルは、またもや苦笑した。
もちろん、彼女には見えない。
二人は慎重に足を運びながら、もう片方の手で空間を探る。
何かに触れることを期待して――そして、何かに触れてしまうことを恐れて。
「……この状況で、何かを探せって言われても無理だろ……」
ヴェイルの不満混じりの声には、心細さも滲んでいた。
アリニアが口を開こうとした、そのとき――
ふわり。
天井に、微かな光が灯る。
それはまるで星のように淡く、儚く脈打つ。
その光はごく小さく、そして低い。
天井もまた、思ったより近く感じられた。
だが、光が照らす範囲はあまりにも狭く、足元には届かない。
闇は、相変わらずその場を支配していた。
「……何かのサイン? 前の部屋の石板みたいな……」
アリニアが小さく呟く。
彼女はヴェイルの手を軽く握り直し、そしてゆっくりと離した。
「ちびオオカミ、短剣を構えて」
その声は低く、だが確固たる命令だった。
「もしこの光が何かを起動させて、敵が現れたら――即応できるように」
ヴェイルは頷き、静かに刃を引き抜いた。
今回は反響音がないため、静寂は破られない。
アリニアは上空の光をじっと見つめていた。
その瞳に映るのは、恐れと決意。
「この暗闇で戦闘になったら……さっきみたいにはいかない。どちらかが倒れる」
そう呟く声に、迷いはなかった。
アリニアは深く息を吸い込む。
闇に押し潰されそうな意識を、無理やり集中へと引き戻す。
そして、そっと手を伸ばす。
その光に指先が触れた。
温かい――だが、どこか現実味のない感触。
ボタンも、仕掛けも、反応も――何もない。
ただ、ふんわりとした微かな熱が、指に伝わるのみ。
「……仕掛けじゃない? じゃあ、これはいったい……」
困惑したように、彼女は手を引いた。
その瞬間。
光が反応を見せた。
小さな光源から、細く輝く線がすうっと伸びていく。
その先に、また新たな光点がぽつりと灯る。
次々と、天井に小さな光が現れる。
それらは部屋を照らすには弱すぎるが、
まるで星座を描くように、複雑な図形を紡いでいく。
「……これって、何かの記号……それとも、形……?」
ヴェイルが、息を呑みながら呟いた。
その声は、まるで夜空を見上げる少年のように――わずかな希望と好奇心を含んでいた。
アリニアは何も言わず、ただ頷いた。
その目は、頭上に浮かぶ光の構造から離れない。
淡く光る線が、次々と分岐し、新たな光点へと繋がっていく。
そのひとつひとつが、まるで天井に描かれる精密な文様のようだった。
「綺麗……だけど、整いすぎてる。罠か、試練の一部……」
アリニアの声には、鋭い警戒心が混ざっていた。
その時だった。
光の流れが、唐突に停止する。
最後の光点が静かに灯り、構造が完成した。
――カチッ。
乾いた音が、空間を切り裂くように響いた。
直後、叫び声。
それは、人間のものにも聞こえる、苦痛と恐怖をはらんだ叫びだった。
アリニアの表情が強張る。
耳がぴくりと動き、彼女の全神経が音の発生源に集中した。
「……ちびオオカミ。何かが来る」
彼女の声は、緊張に満ちていた。
ヴェイルはアリニアを見ず、視線を天井へ向けたまま答える。
「上を見ろ」
その言葉に、アリニアも天井へ視線を向ける。
いくつかの光点が、線から切り離されるようにふわりと浮かび上がる。
一瞬だけ宙に漂い、また静かに別の場所へ移動する。
それは一定のリズムで繰り返されるように見えた。
だが、意味までは分からない。
「……なんだこの光の動きは。意味があるはず……でも、なにを示してる?」
ヴェイルの言葉が、微かな疑念と混乱をにじませる。
――その瞬間。
天井を横切るように、巨大な影が走った。
その動きに伴って、いくつかの光点が揺れる。
「今の……何!?」
アリニアの声に、明らかな動揺が混じる。
次の叫び声は、先ほどよりも近く、そして大きかった。
微かに照らされた二人の顔が、互いに不安を共有する。
「――構えろ」
ヴェイルは短く命じた。
アリニアは息を潜め、辺りを見回す。
その鋭敏な感覚が告げていた。
――何かがいる。
暗闇の奥、確かに気配がある。
耳をすませ、細かな空気の流れすら感じ取る。
その「何か」は、天井を移動していた。
足音も音もない。
だが、それが動くたび、周囲の空気がわずかに揺れる。
さらに――
光の糸。
それが、影に触れるたび一瞬だけ暗くなる。
「……いた。光が消える場所が、あいつの通り道」
アリニアは低く、静かに告げた。
ヴェイルは隣で構えながら、迷いをにじませる。
「でも……あれ、早すぎる。どうすれば……?」
彼女が口を開いた、その瞬間だった。
――直感。
全身に走る違和感に、アリニアの身体が反応する。
「ヴェイル!!」
彼女は全力で彼の身体を突き飛ばした。
――ドガァン!!
激しい衝撃音が、空間に響いた。
天井から伸びた巨大な黒い腕。
それが、彼らがいた場所を正確に叩き潰す。
わずかでも遅れていれば、直撃だった。
「っ……!」
ヴェイルは転がりながら状況を把握し、息を呑んだ。
アリニアの背は、まだ彼の前にある。
彼女の瞳は、すでに次の攻撃に備えていた。
「な、なんだったんだ、今のはっ!?」
床に倒れたまま、ヴェイルが息を切らしながら叫ぶ。
アリニアは答えなかった。
代わりに、すぐさま立ち上がり、爪を伸ばす。
素早く、正確な動作で、天井へと戻ろうとする影を斬りつけた。
だが――
スカッ。
手応えは、なかった。
まるで空気を切っただけのように、腕が虚空を滑る。
「……なんで!? 触れたはずなのに、どうして!?」
混乱しながらも、アリニアは身を引き、影から距離を取る。
その目は、闇に溶ける黒い気配を捉え続けていた。
ヴェイルもまた、身体を起こしながら遠くを睨む。
「アリニア! ……あっちにも、もう一体いる!」
彼の警告に、アリニアはすぐさま耳を研ぎ澄ませた。
――聞こえる。
ひとつはさっきの攻撃者、そしてもうひとつ。
別の場所で、別の動きが。
「二体……いや、もっといるかもしれない」
そして、同時に襲ってくる速度を考えれば――反応は間に合わない。
彼女はヴェイルを見据える。
その表情には、静かな焦りと冷たい決意。
「……ちびオオカミ。攻撃しないで」
その声は鋭く、はっきりとした命令だった。
「えっ? どういうことだ?」
ヴェイルは困惑する。
アリニアは目を向けたまま、さらに強い語気で言い放った。
「……あれは、物理的な存在じゃない。影よ。ただの“形”」
「触れられないものを斬ろうとするな。無駄に疲弊するだけ」
その言葉に、ヴェイルは戸惑いながらも動きを止める。
「でも、さっきは確かに地面を叩きつけてきたじゃないか……!」
アリニアは即座に返す。
「“動き”はある。でも“実体”じゃない。闇を媒介にしてる。闇の中でしか力を持たない存在なのよ」
「それを追いかければ、逆に隙を晒す」
言葉はヴェイルの中に徐々に染み込んでいく。
彼はわずかに眉をひそめ、だが最終的に頷いた。
「……わかった。攻撃はやめる」
だが、その手の中の短剣には、いまだ緊張が残っている。
「じゃあ、どうするんだ?」
その問いに、アリニアはすぐには答えられなかった。
考えろ。見極めろ。突破口を。
彼女の思考が加速する。
「……奴らは闇の中でしか動けない。だったら――光」
「光さえあれば、奴らの居場所を奪えるかもしれない」
だが、この空間には光が少なすぎる。
どうやって使う?
どうやって闇を破る?
アリニアの視線は、再び天井へ。
そこに浮かぶ、無数の光の糸。
――これを利用できないか?
アリニアの目が細められる。
その中に、わずかな光明を探していた。




