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氷結の夜明けの果て (R16)  作者: Wolfy-UG6
プロローグ - 第2巻:ダンジョンの影 Pt.1
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第26章:最初の試練――聴覚

階段を下りきると、二人の足音が重く反響した。

深く、何度も反射するその音が、まるで空間そのものに飲み込まれていくようだった。


そして、目の前に広がった光景は――

それまでの湿った闇の回廊とはまるで別世界だった。


真っ白な大理石の壁。

光を帯びるかのように輝き、どこか現実味を欠いたその色合い。

壁には青白い炎が灯る松明が等間隔に並び、その揺らめく光が鏡のような壁面に反射して、部屋全体を幻想的な輝きで包んでいた。


床もまた、壁と同じ素材で作られており、まるで研ぎ澄まされた刃のように滑らかで、清潔すぎるほどだった。


ヴェイルは思わず眉をひそめ、警戒を込めて周囲を見回す。


《……ここ、本当にダンジョンか? 綺麗すぎる……完璧すぎる……》


その美しさには、明らかな“作為”を感じる。

違和感のない完璧さは、むしろ罠を思わせるものだった。


アリニアは慎重に一歩を踏み出す。

その瞬間――


バァァンッ!!


踏み出した足音が、ありえないほど大きく響いた。

音の波が壁を駆け、耳の奥まで突き刺さるような衝撃が襲いかかる。


アリニアは反射的に振り返り、警告しようとした。


「気を――!」


叫んだその瞬間――

彼女の声が、巨大なホーンの中で響いたかのように膨れ上がり、部屋中に轟いた。


ズガァァァァァンッ!!


脳を直接殴打するかのような音圧。

その衝撃に、ヴェイルもアリニアも思わず耳を押さえて蹲った。


「ッ……!」


アリニアは両手で白い耳を押さえ、顔をしかめる。

音の暴力。

ただ話すだけで、ここでは命取りになりかねない。


《……これはダメ。声を出すのも……危険すぎる……》


ようやく音が静まり、部屋には重たい沈黙が戻った。

だが、それは安堵ではなく、不気味な静けさだった。


アリニアはヴェイルを見上げ、小さな声で――本当に、吐息に近い囁きで呟いた。


「……ついてきて。気をつけて」


その言葉に、ヴェイルは静かに頷いた。

彼女の言うことが、何よりも的確だと理解していた。


彼らは、ゆっくりと前に進み出す。


しかし、歩くだけで“音”が暴れ出す。

ブーツの底が床を打つたびに、太鼓のような音が反響する。


周囲の気配を探ろうとするアリニアの耳は、伏せられたままだった。

この音では、細かな気配すら掻き消されてしまう。


ヴェイルは、できる限り小さな声で話そうとした。


「……誰かに……聞かれてるのか……?」

だが、それすらもこの空間では意味をなさなかった。


彼の囁きですら、反響して広がっていく。


アリニアは小さく首を振り、同じく囁き返す。


「……分からない。こんな場所……見たことない……」

それだけで、また空間が微かに揺れたように感じられた。


――この部屋は、“音”を監視している。


そう確信せざるを得ないほどの、異常な空気。


そして、彼らの試練は、まだ始まったばかりだった。


彼らは慎重な足取りで、歩を進めていった。


その先に現れたのは――


巨大な円形の部屋だった。


想像を超える広さ。

もはや現実味がないほどのスケールに、思わず息を呑む。


部屋の周囲には、太く高い柱が何本も立ち並んでいた。

その表面には、ルーン文字と謎の人型の像が精緻に刻まれている。


天井は遠く、闇に溶け込んでいて――

青い松明の光をもってしても、全体を照らすには到底足りなかった。


アリニアとヴェイルは、数歩だけ足を踏み出した。


――ドン……ッ。


その音が、脳に突き刺さる。


廊下以上に音の反響が激しく、わずかな動きですら鼓膜を揺さぶった。

一歩ごとに響く“重低音”が、頭蓋の内側を直接打ちつけてくるかのようだった。


アリニアはヴェイルの方を振り向き、黙って彼の目を見つめた。


そして、視線を下――彼の足元へと向ける。


(……足? いや、音が……でもどうすれば……)


ヴェイルは困惑しつつも彼女の意図を読み取ろうとした。


すると、アリニアはゆっくりとしゃがみ込んだ。

その動きは、まるで空気すら乱さないような、完璧な制御のもとにあった。


そして――靴を脱いだ。


薄手のタイツだけが彼女の足を覆い、音の主因だった靴底が静かに床から外される。


ようやく、ヴェイルにも意図が伝わる。


《なるほど……靴が音の元か。これなら、多少は……》


彼もまた静かに腰を下ろし、ブーツを外した。

冷たい床の感触が皮膚に伝わるが、今はそれどころではない。


「……」


アリニアは黙って立ち上がり、試すように一歩、二歩と歩く。


音はまだある――が、明らかに軽減されていた。

彼女はわずかに頷き、ヴェイルへと視線を送る。


彼も後に続く。

肌が床に触れるたびに、柔らかな“ぺた”という音が響くが、先ほどのような爆音ではなかった。


そのとき――

アリニアが唇の前に指を立てた。


静かに、はっきりと。


――喋るな。ついてきて。


指の合図と、うなずき。


ヴェイルはその意図を理解し、息を潜めて彼女の後に続いた。


二人は慎重に、部屋の中心へと向かう。


円を描くように並んだ巨大な柱。

それら一つ一つには、異様なほど精緻な彫刻が施されていた。


ヴェイルは距離を取りながら、その模様を見つめる。


《……やめておこう。今回は……触れない。》


直感が告げていた。

この彫刻には、“何か”がある。


アリニアは一つの柱の前で立ち止まり、じっとその模様を観察する。


繰り返される一つの光景――

膝をつき、絶望の中に沈む人間。

その上から覆いかぶさる、巨大な影。


まるで、何かに潰される寸前の瞬間を、永遠に封じ込めたかのような情景だった。


その彫刻は、石でありながら、生きているかのような迫力を放っていた。


(……この影の彫刻。何を意味してるの? このダンジョン……それとも、その創造主に関係してる……?)


アリニアは彫刻から目を離し、しばらく考え込んだ。


その間に、ヴェイルはふらりと近くの青い松明へと歩を進めた。


不思議そうにその光を見つめながら、そっと手を伸ばす――

だが、触れる直前で動きを止めた。


――熱い。


あの、廊下の“冷たい火”とは全く異なる。


その見た目は同じく異質で幻想的なのに、確かに熱を放っていた。


アリニアが追いつき、彼の視線を辿って松明を見た。

周囲に気を配りながらも、ヴェイルのジェスチャーに気づく。


彼が指先を自分に示し、その後で松明を指す。


――熱を感じた、という合図だった。


(……この火は“本物”……? じゃあ、さっきのは何だったの……?)


疑問が浮かぶが、それを声にすることはできなかった。


二人は無言のまま頷き合い、部屋の中心へと向かって歩き出す。


歩調は遅く、音を最小限に抑えながら。

それでも足音は周囲の壁に反射し、音の残滓が長く尾を引いていた。


アリニアは周囲を警戒し続ける。


刻まれたルーン、松明の届かぬ影――

全てが、不気味なまでに静かで、異様だった。


天井は果てしない闇に消えている。

ここが“部屋”であるという事実すら、現実味を持てなくなりそうな広さ。


ヴェイルもまた、全神経を張り詰めていた。

静寂が強調されるほど、逆に“何かの存在”を意識せざるを得ない。


(……何もないはずがない。こんな場所に、“空っぽ”なんてことはありえない)


やがて――


その“違和感”が、視界に入る。


床の一角。

ほんの少し、盛り上がった石板。


距離はあるが、他と違う形状が確かにあった。


ヴェイルが眉をひそめると、アリニアは直感的に前に出た。


彼を庇うように、ゆっくりと進む。


そして近づくにつれ、その異物の全貌が明らかになった。


――石板の中央に、鋭く刻まれた“ワイバーンの頭部”。


まるで生きているかのような迫力で、二人を睨みつけていた。


アリニアはしゃがみこみ、その表面を目でなぞる。

罠か、それとも――警告か。


(……何かのスイッチ? それとも、もっと悪い何かの……)


不用意に踏めば、取り返しのつかない何かが始まるかもしれない。

それでも、他に道はなかった。


出口は見えず、来た道はすでに閉ざされている。


アリニアが立ち上がる。

ヴェイルと目が合い――無言のうちに、互いの決意を読み取った。


ヴェイルはしばらく思案した後、そっと手を胸元にやった。


そして――コートを脱ぎ始める。


突然の行動に、アリニアは小さく眉をひそめた。


(……何を……?)


だが、彼が声を出さないことに安堵しつつ、彼の意図を読み取ろうと見つめる。


静かに手渡されたコートを受け取りながら、内心では首をかしげていた。


何かをするつもり――でも、何を?


だが、それを止めることも、尋ねることも、できなかった。


この空間では、“その程度の音”すら、命取りになるかもしれないのだから。


ヴェイルは集中しながら、自身の衣の裾を静かに裂いていった。


できるだけ音を立てないよう、慎重に、丁寧に。


何枚かに裂いた布のうち、二枚をアリニアに差し出す。


彼女は訝しげに受け取った。


(……何をするつもりなの?)


まだ意図を読み取れないまま、彼の手元を見つめる。


ヴェイルは残りの布を丸め、自分の耳に詰め始めた。

そして、アリニアにも同じようにするよう、身振りで示す。


自分の耳を指差し、その後、彼女の手にある布を指差す。


その仕草に、ようやくアリニアも理解が追いついた。


(……この音の共鳴を、少しでも防ぐために……)


無言のまま頷き、彼女も布を耳に当てようとする。


だが――


その動作は、想像以上に手間取った。


彼女の白く柔らかな“獣の耳”には、布がなかなかうまく収まらない。


(……こういうときだけ、本当に不便なんだから……!)


小さく苛立ちながらも、何とか布を詰め込むことに成功した。


二人は静かに視線を交わし、布がどれほど効果を発揮するかを確かめるように頷き合う。


ヴェイルはごく小さく囁いた。


「……これで、多少はマシなはず……」

その囁きも、まだ室内に響いた。


だが、耳への衝撃は明らかに軽減されていた。


アリニアはわずかに頷き、臨時の対策が“通用する”と判断する。


彼らは、ワイバーンの刻まれた石板の前に立つ。


その指先には、明らかな躊躇があった。


(……もう、戻れない)


アリニアは覚悟を決め、そっと手を伸ばす。


石板の上に指を置き――


ゆっくりと、押し込む。


すると、石板はまるで何の抵抗もなく、静かに沈み込んだ。


重力すら拒むように、ふわりと滑るように沈み――


――音は、しなかった。


何の衝撃も、何の機械音も、なかった。


(……音が……しない……)


ヴェイルも同じ思いで、その瞬間を見つめていた。


二人は顔を見合わせ、安堵の息を吐く。


ようやく、緊張がわずかに解けかけたその時――


グゥルルル……


部屋のどこかで、乾いた唸り声が響いた。


小さな音――だが、それは爆発のように壁にぶつかり、反響して空間を揺るがす。


アリニアとヴェイルは同時に身を固めた。


鋭い視線で周囲を走査するも、空間は動かない。


――気配もない。だが、何かがいる。


ヴェイルがアリニアの顔を見た、その瞬間――

彼の視線が、彼女の背後へと移る。


その目に浮かぶ、冷たい恐怖。


アリニアは言葉を待たずに動いた。


だが、その直前に――


「うしろ……」


ヴェイルが、かすれるように、囁いた。


アリニアは反射的に振り返る。


その視線の先――


彼女は、それを見た。


息が止まった。


闇の中に――六つの赤い光が浮かんでいた。


それは静かに、ただそこにあった。


動かず、語らず、ただ確かに“こちらを見ている”。


青白い松明の光さえ届かない深い影の中で、それらはゆっくりと揺れていた。


(……目。こっちを見てる)


アリニアは息を呑み、身構える。


そして――


影の中から、そいつらは音もなく姿を現した。


三体。


――漆黒の狼。


その毛皮は光を吸い込むように黒く、体からは黒煙のような影が静かに漂っていた。


まるで存在そのものが、“闇”で構成されているかのようだった。


その足取りは、異様なほど静かで――

この音を増幅させる空間すら、彼らの通過を許していた。


“沈黙の捕食者”。


まさしく、この空間のために創られたような存在だった。


アリニアは即座に構える。


腕を広げ、両手に装着された鋭い爪が、かすかに光を反射する。


ヴェイルもまた、背から短剣を抜き、彼女の横へと並んだ。


(……音がしない。冗談じゃないわ……)


三体の狼は、緩やかに円を描きながら二人を取り囲む。


その瞳は、真紅。


隙など一切ない動きで、獲物を観察し、距離を詰めてくる。


この空間で、音を立てることは“自殺行為”。


だが、動かなければ――殺される。


この状況で戦うということは、すなわち――


己の呼吸すら制御しながら、完璧に静かに、正確に敵を仕留めるということ。


アリニアとヴェイルは、今――


獲物となった。

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