第26章:最初の試練――聴覚
階段を下りきると、二人の足音が重く反響した。
深く、何度も反射するその音が、まるで空間そのものに飲み込まれていくようだった。
そして、目の前に広がった光景は――
それまでの湿った闇の回廊とはまるで別世界だった。
真っ白な大理石の壁。
光を帯びるかのように輝き、どこか現実味を欠いたその色合い。
壁には青白い炎が灯る松明が等間隔に並び、その揺らめく光が鏡のような壁面に反射して、部屋全体を幻想的な輝きで包んでいた。
床もまた、壁と同じ素材で作られており、まるで研ぎ澄まされた刃のように滑らかで、清潔すぎるほどだった。
ヴェイルは思わず眉をひそめ、警戒を込めて周囲を見回す。
《……ここ、本当にダンジョンか? 綺麗すぎる……完璧すぎる……》
その美しさには、明らかな“作為”を感じる。
違和感のない完璧さは、むしろ罠を思わせるものだった。
アリニアは慎重に一歩を踏み出す。
その瞬間――
バァァンッ!!
踏み出した足音が、ありえないほど大きく響いた。
音の波が壁を駆け、耳の奥まで突き刺さるような衝撃が襲いかかる。
アリニアは反射的に振り返り、警告しようとした。
「気を――!」
叫んだその瞬間――
彼女の声が、巨大なホーンの中で響いたかのように膨れ上がり、部屋中に轟いた。
ズガァァァァァンッ!!
脳を直接殴打するかのような音圧。
その衝撃に、ヴェイルもアリニアも思わず耳を押さえて蹲った。
「ッ……!」
アリニアは両手で白い耳を押さえ、顔をしかめる。
音の暴力。
ただ話すだけで、ここでは命取りになりかねない。
《……これはダメ。声を出すのも……危険すぎる……》
ようやく音が静まり、部屋には重たい沈黙が戻った。
だが、それは安堵ではなく、不気味な静けさだった。
アリニアはヴェイルを見上げ、小さな声で――本当に、吐息に近い囁きで呟いた。
「……ついてきて。気をつけて」
その言葉に、ヴェイルは静かに頷いた。
彼女の言うことが、何よりも的確だと理解していた。
彼らは、ゆっくりと前に進み出す。
しかし、歩くだけで“音”が暴れ出す。
ブーツの底が床を打つたびに、太鼓のような音が反響する。
周囲の気配を探ろうとするアリニアの耳は、伏せられたままだった。
この音では、細かな気配すら掻き消されてしまう。
ヴェイルは、できる限り小さな声で話そうとした。
「……誰かに……聞かれてるのか……?」
だが、それすらもこの空間では意味をなさなかった。
彼の囁きですら、反響して広がっていく。
アリニアは小さく首を振り、同じく囁き返す。
「……分からない。こんな場所……見たことない……」
それだけで、また空間が微かに揺れたように感じられた。
――この部屋は、“音”を監視している。
そう確信せざるを得ないほどの、異常な空気。
そして、彼らの試練は、まだ始まったばかりだった。
彼らは慎重な足取りで、歩を進めていった。
その先に現れたのは――
巨大な円形の部屋だった。
想像を超える広さ。
もはや現実味がないほどのスケールに、思わず息を呑む。
部屋の周囲には、太く高い柱が何本も立ち並んでいた。
その表面には、ルーン文字と謎の人型の像が精緻に刻まれている。
天井は遠く、闇に溶け込んでいて――
青い松明の光をもってしても、全体を照らすには到底足りなかった。
アリニアとヴェイルは、数歩だけ足を踏み出した。
――ドン……ッ。
その音が、脳に突き刺さる。
廊下以上に音の反響が激しく、わずかな動きですら鼓膜を揺さぶった。
一歩ごとに響く“重低音”が、頭蓋の内側を直接打ちつけてくるかのようだった。
アリニアはヴェイルの方を振り向き、黙って彼の目を見つめた。
そして、視線を下――彼の足元へと向ける。
(……足? いや、音が……でもどうすれば……)
ヴェイルは困惑しつつも彼女の意図を読み取ろうとした。
すると、アリニアはゆっくりとしゃがみ込んだ。
その動きは、まるで空気すら乱さないような、完璧な制御のもとにあった。
そして――靴を脱いだ。
薄手のタイツだけが彼女の足を覆い、音の主因だった靴底が静かに床から外される。
ようやく、ヴェイルにも意図が伝わる。
《なるほど……靴が音の元か。これなら、多少は……》
彼もまた静かに腰を下ろし、ブーツを外した。
冷たい床の感触が皮膚に伝わるが、今はそれどころではない。
「……」
アリニアは黙って立ち上がり、試すように一歩、二歩と歩く。
音はまだある――が、明らかに軽減されていた。
彼女はわずかに頷き、ヴェイルへと視線を送る。
彼も後に続く。
肌が床に触れるたびに、柔らかな“ぺた”という音が響くが、先ほどのような爆音ではなかった。
そのとき――
アリニアが唇の前に指を立てた。
静かに、はっきりと。
――喋るな。ついてきて。
指の合図と、うなずき。
ヴェイルはその意図を理解し、息を潜めて彼女の後に続いた。
二人は慎重に、部屋の中心へと向かう。
円を描くように並んだ巨大な柱。
それら一つ一つには、異様なほど精緻な彫刻が施されていた。
ヴェイルは距離を取りながら、その模様を見つめる。
《……やめておこう。今回は……触れない。》
直感が告げていた。
この彫刻には、“何か”がある。
アリニアは一つの柱の前で立ち止まり、じっとその模様を観察する。
繰り返される一つの光景――
膝をつき、絶望の中に沈む人間。
その上から覆いかぶさる、巨大な影。
まるで、何かに潰される寸前の瞬間を、永遠に封じ込めたかのような情景だった。
その彫刻は、石でありながら、生きているかのような迫力を放っていた。
(……この影の彫刻。何を意味してるの? このダンジョン……それとも、その創造主に関係してる……?)
アリニアは彫刻から目を離し、しばらく考え込んだ。
その間に、ヴェイルはふらりと近くの青い松明へと歩を進めた。
不思議そうにその光を見つめながら、そっと手を伸ばす――
だが、触れる直前で動きを止めた。
――熱い。
あの、廊下の“冷たい火”とは全く異なる。
その見た目は同じく異質で幻想的なのに、確かに熱を放っていた。
アリニアが追いつき、彼の視線を辿って松明を見た。
周囲に気を配りながらも、ヴェイルのジェスチャーに気づく。
彼が指先を自分に示し、その後で松明を指す。
――熱を感じた、という合図だった。
(……この火は“本物”……? じゃあ、さっきのは何だったの……?)
疑問が浮かぶが、それを声にすることはできなかった。
二人は無言のまま頷き合い、部屋の中心へと向かって歩き出す。
歩調は遅く、音を最小限に抑えながら。
それでも足音は周囲の壁に反射し、音の残滓が長く尾を引いていた。
アリニアは周囲を警戒し続ける。
刻まれたルーン、松明の届かぬ影――
全てが、不気味なまでに静かで、異様だった。
天井は果てしない闇に消えている。
ここが“部屋”であるという事実すら、現実味を持てなくなりそうな広さ。
ヴェイルもまた、全神経を張り詰めていた。
静寂が強調されるほど、逆に“何かの存在”を意識せざるを得ない。
(……何もないはずがない。こんな場所に、“空っぽ”なんてことはありえない)
やがて――
その“違和感”が、視界に入る。
床の一角。
ほんの少し、盛り上がった石板。
距離はあるが、他と違う形状が確かにあった。
ヴェイルが眉をひそめると、アリニアは直感的に前に出た。
彼を庇うように、ゆっくりと進む。
そして近づくにつれ、その異物の全貌が明らかになった。
――石板の中央に、鋭く刻まれた“ワイバーンの頭部”。
まるで生きているかのような迫力で、二人を睨みつけていた。
アリニアはしゃがみこみ、その表面を目でなぞる。
罠か、それとも――警告か。
(……何かのスイッチ? それとも、もっと悪い何かの……)
不用意に踏めば、取り返しのつかない何かが始まるかもしれない。
それでも、他に道はなかった。
出口は見えず、来た道はすでに閉ざされている。
アリニアが立ち上がる。
ヴェイルと目が合い――無言のうちに、互いの決意を読み取った。
ヴェイルはしばらく思案した後、そっと手を胸元にやった。
そして――コートを脱ぎ始める。
突然の行動に、アリニアは小さく眉をひそめた。
(……何を……?)
だが、彼が声を出さないことに安堵しつつ、彼の意図を読み取ろうと見つめる。
静かに手渡されたコートを受け取りながら、内心では首をかしげていた。
何かをするつもり――でも、何を?
だが、それを止めることも、尋ねることも、できなかった。
この空間では、“その程度の音”すら、命取りになるかもしれないのだから。
ヴェイルは集中しながら、自身の衣の裾を静かに裂いていった。
できるだけ音を立てないよう、慎重に、丁寧に。
何枚かに裂いた布のうち、二枚をアリニアに差し出す。
彼女は訝しげに受け取った。
(……何をするつもりなの?)
まだ意図を読み取れないまま、彼の手元を見つめる。
ヴェイルは残りの布を丸め、自分の耳に詰め始めた。
そして、アリニアにも同じようにするよう、身振りで示す。
自分の耳を指差し、その後、彼女の手にある布を指差す。
その仕草に、ようやくアリニアも理解が追いついた。
(……この音の共鳴を、少しでも防ぐために……)
無言のまま頷き、彼女も布を耳に当てようとする。
だが――
その動作は、想像以上に手間取った。
彼女の白く柔らかな“獣の耳”には、布がなかなかうまく収まらない。
(……こういうときだけ、本当に不便なんだから……!)
小さく苛立ちながらも、何とか布を詰め込むことに成功した。
二人は静かに視線を交わし、布がどれほど効果を発揮するかを確かめるように頷き合う。
ヴェイルはごく小さく囁いた。
「……これで、多少はマシなはず……」
その囁きも、まだ室内に響いた。
だが、耳への衝撃は明らかに軽減されていた。
アリニアはわずかに頷き、臨時の対策が“通用する”と判断する。
彼らは、ワイバーンの刻まれた石板の前に立つ。
その指先には、明らかな躊躇があった。
(……もう、戻れない)
アリニアは覚悟を決め、そっと手を伸ばす。
石板の上に指を置き――
ゆっくりと、押し込む。
すると、石板はまるで何の抵抗もなく、静かに沈み込んだ。
重力すら拒むように、ふわりと滑るように沈み――
――音は、しなかった。
何の衝撃も、何の機械音も、なかった。
(……音が……しない……)
ヴェイルも同じ思いで、その瞬間を見つめていた。
二人は顔を見合わせ、安堵の息を吐く。
ようやく、緊張がわずかに解けかけたその時――
グゥルルル……
部屋のどこかで、乾いた唸り声が響いた。
小さな音――だが、それは爆発のように壁にぶつかり、反響して空間を揺るがす。
アリニアとヴェイルは同時に身を固めた。
鋭い視線で周囲を走査するも、空間は動かない。
――気配もない。だが、何かがいる。
ヴェイルがアリニアの顔を見た、その瞬間――
彼の視線が、彼女の背後へと移る。
その目に浮かぶ、冷たい恐怖。
アリニアは言葉を待たずに動いた。
だが、その直前に――
「うしろ……」
ヴェイルが、かすれるように、囁いた。
アリニアは反射的に振り返る。
その視線の先――
彼女は、それを見た。
息が止まった。
闇の中に――六つの赤い光が浮かんでいた。
それは静かに、ただそこにあった。
動かず、語らず、ただ確かに“こちらを見ている”。
青白い松明の光さえ届かない深い影の中で、それらはゆっくりと揺れていた。
(……目。こっちを見てる)
アリニアは息を呑み、身構える。
そして――
影の中から、そいつらは音もなく姿を現した。
三体。
――漆黒の狼。
その毛皮は光を吸い込むように黒く、体からは黒煙のような影が静かに漂っていた。
まるで存在そのものが、“闇”で構成されているかのようだった。
その足取りは、異様なほど静かで――
この音を増幅させる空間すら、彼らの通過を許していた。
“沈黙の捕食者”。
まさしく、この空間のために創られたような存在だった。
アリニアは即座に構える。
腕を広げ、両手に装着された鋭い爪が、かすかに光を反射する。
ヴェイルもまた、背から短剣を抜き、彼女の横へと並んだ。
(……音がしない。冗談じゃないわ……)
三体の狼は、緩やかに円を描きながら二人を取り囲む。
その瞳は、真紅。
隙など一切ない動きで、獲物を観察し、距離を詰めてくる。
この空間で、音を立てることは“自殺行為”。
だが、動かなければ――殺される。
この状況で戦うということは、すなわち――
己の呼吸すら制御しながら、完璧に静かに、正確に敵を仕留めるということ。
アリニアとヴェイルは、今――
獲物となった。




