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第23章:ひとときの休息

いくつもの時が過ぎた。

雪はすでに止み、白銀の世界は静寂の中に凍りついていた。

だが、その冷たさは依然として苛烈で、吐く息も、踏み出す足も容赦なく凍てつかせていた。

完璧に広がるその白い大地の上――

わずかに残る足跡だけが、静寂を乱す唯一の証だった。


アリニアとヴェイルは、変わらず進み続けていた。

そびえ立つ木々が連なる森の中、長く伸びた影がまるで彼らを試すように伸びていた。

まるで森そのものが意志を持ち、彼らを惑わせているかのように、同じ景色が延々と続いていた。


音はなかった。

ただ、雪を踏みしめるたびに生まれる、あのザクッという音だけが、

世界に存在する唯一の律動のように響いていた。


「なあ、アリニア……そろそろ休憩しないか?」

息を切らしながら、ヴェイルが声をかける。


アリニアは、彼の方を振り向くこともなく、無言のまま歩を進めていた。

その白い耳はピンと立ち、わずかな物音も聞き逃さぬよう張り詰めている。


返事のないまま、彼女は前だけを見据えていた。


《ったく……》


ヴェイルは内心で苦々しく唸った。

息は不規則に乱れ、身体にはあの熊との死闘の影響が残っている。

その疲労が、今ではじわじわと脚を重くさせていた。


そんな時だった。


アリニアが、ふいに足を止めた。


「うわっ……!」


油断していたヴェイルは、そのまま彼女にぶつかりそうになり、慌てて足を止める。


「何度もぶつかってきたら――今度はちびオオカミを木に括りつけるわよ」

振り返ったアリニアが、からかうような笑みを浮かべた。


「わ、悪い……ってか、なんで急に止まったんだ?」

困ったように頭をかきながら尋ねるヴェイル。


アリニアはすぐには答えず、周囲を見回す。

視線が止まったのは、ひときわ大きな一本の木。


その根元には、大きな空間が空いており、そこだけ雪がほとんど積もっていなかった。

アリニアはそっと近づき、慎重にその場所を確かめる。


「薪を集めてきて」

淡々とした口調で、彼女はヴェイルに視線を向ける。


「やっと休憩か! よっしゃ、すぐ行ってくる!」

ヴェイルは親指を立て、軽く笑って駆け出した。


彼が木々の奥へ消えていくのを見届けると、

アリニアは腰の小さな袋から、干し肉と香草の入った小袋を取り出した。

動きに無駄はなく、すべてが慣れた手つきだった。


ほどなくしてヴェイルが薪を抱えて戻り、火を起こす。

焚き火の暖かさがじわじわと身体を包み込み、冷えた筋肉を優しく解していく。


ヴェイルは木の幹にもたれかかり、肩を落として深く息を吐いた。


《……ああ、これだよ。やっと人間らしい時間って感じだ》


彼の顔には、安堵の色が浮かんでいた。


その横で、アリニアは小さな鍋を取り出し、そこに水を注ぎ入れる。

火の上に置いた鍋からは、やがて静かな湯気が立ち昇っていった。

焚き火のパチパチとした音と、微かな風の音だけが、この穏やかな時間を満たしていた。


「なあ……そのダンジョンってさ。なんで行くんだ? 目的があるのか?」

沈黙を破り、ヴェイルが尋ねた。


アリニアは、鍋の中に視線を落としたまま、わずかに耳を動かした。

そして、淡々とした声で答える。


「あるものを回収しなきゃいけないの」


その言葉は短く、簡潔だったが――

そこに含まれた意味は、計り知れなかった。


ヴェイルは、曖昧なその答えに困惑しながらも、

それ以上は何も言わなかった。


《……物? 命を懸けてまで探すような物って、一体何なんだ……?》


ヴェイルは炎の揺らぎを見つめながら、心の中でそう呟いた。

パチパチと薪が弾ける音が静かに続いていたが――

二人の間に流れる空気は、言葉にされなかった問いで徐々に重くなっていく。


「その物ってさ……そんなに大事なのか? 命懸けで探すくらいに?」

ためらいがちに、ヴェイルは口を開いた。


アリニアはわずかに顔を上げた。

耳がほんの少しだけ揺れたが、目は鍋から離れない。


《こんな雪山を一人でさまよってるくせに、よくもまあ……》


そんな思考が一瞬、彼女の脳裏をよぎる。

だが彼女は、それを口に出さず、乾いた声で答えた。


「もし中身がわかってたら、とっくに苦労してないわよ」

その言い方は、どこか突き放すような、棘のある調子だった。


「えっ……それってつまり……」


ヴェイルは言葉を詰まらせながら、驚きに目を見開く。


「命懸けで行くのに、探す物が何なのかも分かってないってこと?」

混乱と困惑が混じったその問いに、


アリニアは無言のまま、香草の束を鍋に入れた。

その手つきは変わらず丁寧で――だからこそ、かえってその静けさが緊張を生んでいた。


湯気が立ち上り、かすかに香ばしい香りが風に乗る。

その香りとは対照的に、空気には重さが増していく。


「物は、そこにある。それだけは確かよ」

静かに、だが断言するように、アリニアは言った。


「ダンジョンってのはね。中に目的の物が残ってる限り、消えない。

消えずに存在し続けるってことは――まだそこにあるって証拠」


《……それが“確信”? 本当に……?》


納得しきれないまま、ヴェイルは視線を向けた。

だが、アリニアの言葉に迷いは感じられなかった。


「じゃあ、仮にだよ?」

少し強い調子で、ヴェイルは続ける。


「もしその“物”が、まったく価値のないものだったら? 命を懸ける価値もない、ただのガラクタだったら?」


アリニアはゆっくりと彼の方を向いた。

その目――

焚き火の光を受けて淡く光る氷のような蒼が、真っ直ぐにヴェイルを射抜く。

その視線に、ヴェイルは一瞬、言葉を失った。


「――泣き言はやめなさい、ちびオオカミ」

その声は低く、鋭く、冷たい。


「もしその物が商店の棚に並んでる程度の代物なら、

こんな危険な場所に潜る必要なんてない。私たち“回収屋”の出番もないのよ」

彼女は姿勢を正し、焚き火の先――森の奥を指さした。


「怖いなら、戻ればいい。街ならあっち。運が良ければ、二度とケアルゥルに遭わずに済むかもね」


「……ケアルゥル?」


その言葉に、ヴェイルは目を瞬かせる。

聞き慣れない単語が、脳裏に引っかかる。


《ケアルゥル……? それって何だ?》


彼は眉を寄せたまま、小さく問い返す。


「それ……なんだよ? ケアルゥルって」


アリニアはわずかに苛立ったように眉をひそめる。

だが、完全には無視しなかった。


「さっき倒した……あの熊の名前よ」

その答えに、ヴェイルは思わず息を飲んだ。


ヴェイルは目を細め、あの戦いの記憶を思い返していた。

あの化け物に――名前があったということが、なぜか心に引っかかっていた。


その思考を断ち切るように、アリニアが一つの小さなカップを差し出してきた。

淡い緑色に染まった液体からは、ほのかに心を落ち着ける香りが漂っていた。

彼女はそれに加えて、丁寧に焼かれた干し肉を二、三切れ、ヴェイルの前に差し出した。


「ほら。飲んで、食べなさい。今のあんたに必要よ」

アリニアの口調は静かで、どこか優しかった。


「……ありがとな」


ヴェイルは軽くうなずきながら、カップと肉を受け取る。

焚き火のそばで体を少しずらし、火の温もりを全身に感じながら、安堵の吐息をついた。


肉は柔らかく、わずかにスパイスが効いていて、心が落ち着く味だった。

アリニアの用いた香草が、舌の上で優しく広がる。


やがて、また沈黙が二人の間に戻ってきた。

火のはぜる音と、風のささやきだけが、雪に包まれたこの空間に響いていた。


ヴェイルは肉を噛みながら、ゆっくりと飲み込み、そしてふと呟くように口を開いた。


「……アリニア、ごめん。さっきは怒らせるつもりじゃなかったんだ。

こんなに色々してくれてるのに、俺……疑ってるみたいな言い方してさ」

声は弱く、少しばかり後悔がにじんでいた。


「ここに来てから……一歩一歩が、最後になるかもしれないって思うことばっかで。

ダンジョンのことも……何も知らないのに、怖くて……」


アリニアは、彼の言葉を聞きながら、

焚き火の明かりに照らされる彼の顔を一瞬だけ見つめた。

そして、ふっと小さく笑みを浮かべる。


「気にしないで。あんたは、あんたなりに頑張ってる。

私の言うことをちゃんと聞いて、ついてくれば大丈夫よ」


その言葉には、さりげないが確かな安心感が宿っていた。


彼女はしばし目を伏せ、手元のカップに目を落とした。


《……それにしても、どうしてあいつは、こんなにも無知なの?》


あの光の柱を目撃してから、ずっと抱えている疑問が喉元までこみ上げた。

だが――彼女はその問いを口に出さなかった。

今は、その時じゃない。


「……ダンジョンは、そんなに恐ろしいものばかりじゃない。もちろん戦いはあるけど、

この辺りみたいに、危険はあっても、それほど強大な魔物はそうそういないわ」


落ち着いた声で、彼女は続けた。

そして自分のカップを口に運び、温かい液体をゆっくりと飲み込む。


体の内側からじんわりと熱が広がっていく。

その小さなひとときに、彼女はわずかな安らぎを感じていた。


ヴェイルはまだどこか遠慮がちな顔をしていた。

そんな彼を見て、アリニアはさらに言葉を重ねる。


「ダンジョンの奥にある“物”……それには意味があるの。

たとえそれが、ぱっと見では価値がなく見えたとしても……信じなさい。ちゃんと、役に立つわ」

その目は静かで、だが確かな確信を宿していた。


ヴェイルは、彼女の目を見つめ返した。

焚き火の揺らぎがアリニアの瞳に反射して、どこか幻想的に光っていた。


「……ダンジョンの奥……なんかさ、嫌な予感しかしないんだけど。

俺……悪いおとぎ話の主人公にでもなった気分だよ……」

力なく、だが正直な気持ちをこぼす。


アリニアはその言葉に、再び笑みを浮かべた。

さっきよりも、少しだけ柔らかい笑顔だった。


「だったら、自分で変えなさいよ。その“物語の結末”を、あんた自身の手で」

焚き火の灯りが、彼女の頬をやわらかく照らしていた。


再び、静寂が空き地を支配した。

だが今度は、それが不思議と心地よく感じられた。


焚き火のぬくもりに包まれながら、二人は最後のひと口をゆっくりと味わい、静かに食事を終えた。

疲れが完全に消えたわけではなかったが、

それでも、ほんの少しの休息が、体の芯に力を取り戻してくれていた。


アリニアは手慣れた動作で、使った道具をひとつずつ丁寧に片づけていく。

何一つ、痕跡を残さないように。

それは彼女の“習慣”であり、“信条”でもあった。


やがて全ての準備が整うと、

彼女は立ち上がり、服の埃を軽く払ってから、ヴェイルに視線を向けた。


「――さあ、ちびオオカミ。あんたはどうしたい?」

その問いは、淡々としながらもまっすぐだった。


ヴェイルは、すぐには答えなかった。

目を伏せ、考えを巡らせる。


この森で彼女なしに生き延びることなど、自分には到底不可能だ。

それは痛いほどわかっている。


……だけど、目の前にある“ダンジョン”という未知の存在は、

まだどうしても恐ろしく思えてならなかった。


けれど――

アリニアが危険を前にしても一歩も引かず、冷静に行動しているその姿に、

なぜか、不思議な強さを感じていた。


ヴェイルはゆっくりと立ち上がり、姿勢を整える。

そして、まっすぐ彼女の目を見て、答えた。


「俺も行くよ。ここまで一緒に来たんだ――なら、最後まで付き合う」


一拍の静寂。


そして彼は、ほんの少しだけ声を落とす。


「……それに……あんたがいなきゃ、俺――この森で生き延びられる気がしないんだ」


その言葉には、見栄も虚勢もなかった。

ただ、素直な“本音”がそこにあった。


アリニアは、わずかに眉を上げた。

だが、すぐには返事をしなかった。


くるりと背を向けると、前方の雪道を見据える。


その唇から、誰にも聞かせるつもりのない声が、そっと漏れる。


「……私もよ。あんたがいなければ、今ごろ……もう……」


風にかき消されるほど小さな声。

頬にわずかな赤みが差し、彼女は深く息を吸って、気持ちを切り替えた。


そして、再び振り返る。

目にはもう、いつもの静かな強さが戻っていた。


「出発するわよ。もう、あまり遠くない」

その一言と共に、彼女は足を踏み出した。


木々の間をすり抜ける風が、再び静かに吹き抜けていく。

木の枝を揺らすその音が、まるで道標のように森を導いていた。


空からはまた、小さな雪片が舞い始める。


肩や髪に積もるそれを払いながら、

アリニアは先を行く。白い耳を立て、神経を研ぎ澄ませながら。


ヴェイルは、その背中を見つめてから、一歩、また一歩とその後を追う。

迷いは、もうなかった。


――二人の旅は続く。

その先に、何が待っていようとも。


進むしかない。

未知なる“ダンジョン”へと。

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