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第22章:終わりなき道

二人はしばらくの間、雪の中に座り込み、息を整えていた。

静寂に包まれたその小さな空き地は、不思議と心を落ち着かせるような安らぎがあった。

だが、刺すような寒さは容赦なく、じわじわと二人を蝕んでいく。


「ここにはいられない。進むわよ」

彼女は静かに立ち上がり、冷ややかで揺るぎない口調で告げた。


ヴェイルはわずかに唸り声を漏らしながら、重い身体を起こした。

戦いの疲労が、まだその筋肉に残っていた。

息混じりの短い呟きが、白い吐息となって空へと消えていく。


「あと五分くらい休ませてくれてもよかったのに……」

ぼやく声に、アリニアは何も返さなかった。


その視線は、ただ遠くの雪原へと向けられていた。


空からは静かに雪が舞い、木々の間を吹き抜ける風がその小さな粒をくるくると舞わせていた。

二人の足音だけが、凍りついた森にリズムを刻んでいた。


背後に残された空き地は、異様なまでに静まり返っていた。

まるで、あの巨大な熊がもたらした混乱が、嘘のように世界から消えてしまったかのように。

風さえも、その静けさを壊すことをためらっているようだった。


その沈黙こそが、あの怪物の力を物語っていた。

深く刻まれた雪の痕が、その証としていまだに残っている。


ヴェイルは、時折立ち止まりながら周囲を見渡した。


「……静かすぎる。安心できるはずなのに、妙に落ち着かない……」

呟く声に、アリニアはやはり何も言わなかった。


ただ耳だけがピクリと動き、わずかな音すら聞き逃さぬよう神経を尖らせている。

彼女は迷いなく前へと歩き続けていた。


巨大な樹木たちは、氷の衣をまとって並び立ち、迷路のような森を形成している。

そこを通り抜けられるのは、風ぐらいのものだった。


ヴェイルは、アリニアのすぐ後ろをついていった。

呼吸のたびに白い霧が生まれ、それはすぐに冷たい空気に溶けて消えていく。

深い雪に残された足跡が、疲労の証を静かに刻んでいた。


「この森……終わりがあるのか? いつまで歩くんだよ……」


苛立ち混じりに呟いた声に、アリニアの耳がピクリと反応した。

だが、彼女は振り返らない。


「目的を持たずに歩けば、永遠に終わらないわ」

その声は静かで、どこか皮肉めいていた。


ヴェイルは、半ばあきれたように彼女の背中を見つめた。

濃い色の毛皮のマントが風に揺れ、白銀の雪景色の中で際立っていた。

無表情に揺れる彼女の尻尾は、平静を装っているようにも見えたが、

常に動く耳が、その神経が張り詰めたままであることを物語っていた。


「……で? お前には目的があるってことか?」

興味と疑念を込めて問いかける。


その瞬間――アリニアの足が止まった。


今まで吹いていた風が、ふと弱まり、

森の沈黙が、まるで一層深くなったかのように感じられた。


アリニアはゆっくりと顔を傾け、ヴェイルに視線を向ける。

蒼い瞳が鋭く光り、銀色の髪が風に揺れる。

その表情は無感情の仮面のようでありながら、

その目だけが、彼を測るように静かに見つめていた。


ヴェイルはその視線を感じ取り、思わず身を震わせた。

それは寒さのせいだけではなかった。

二人の間に流れる沈黙は、風に揺れる木々の音さえ吸い込むほど、重く、鋭かった。


「で……どこに向かってるんだ?」


訝しげに問いかけたヴェイルに、今度はアリニアが完全に振り返る。

冷たい青の瞳が、真っすぐ彼を射抜いた。


「ダンジョンよ」


その言葉は、余計な感情を一切含まない、鋭い刃のようだった。


再び、沈黙が降りた。

風に揺れる枝のきしむ音だけが、その空気を切り裂く。


「ダンジョン……って、なんだよ、それ?」

戸惑いながらも、彼は素直に疑問を口にした。


アリニアは小さくため息をついた。

その表情には、わずかな苛立ちと根気が混ざっていた。


「魔物が巣食う場所。中に何があるか、誰にも分からない。

一歩間違えれば、命を落とすこともある。集中を切らした瞬間、終わるわ」


その説明に、ヴェイルの目が見開かれた。

驚きと疑念、そしてわずかな恐怖が、表情に浮かぶ。


「魔物が……? 本当に、そんな場所が……?」


信じ難いという思いが言葉に滲む。

だがアリニアは、感情を殺した目で彼を見返した。


「本当よ。私はもともと、ひとりで探索するつもりだった。だけど――」


彼女の視線が、ヴェイルを上から下までじっくりとなぞる。

不安定な息遣い。戦いで残った疲労。そして――ほんのわずかな、芯の強さ。


「今のお前なら、少しは使えそう」

その言葉は、評価とも期待ともつかない、淡々としたものだった。


「……俺が? ダンジョンに?」

言葉を詰まらせるヴェイル。


「選択肢はないわ。街まで送り届ける気はない。

ついて来なさい。森をうろつくより、ダンジョンの方が学べることは多い」


冷たく言い放つその口調に、ヴェイルは視線を落とした。

雪の上に落ちる視線の先では、自分の影が微かに揺れている。

思考が渦巻き、選択の余地がないことを彼は理解していた。

拳が、自然と握りしめられる。


だが――それを飲み込むことは、未知の何かに向き合うことでもあった。


彼はゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、今までとは違う決意が宿っていた。


「……わかった。だけど、俺は足手まといにはならない。

学びたいんだ。ちゃんと、自分の足で立ちたい」

そう告げた声は震えていなかった。


アリニアの口元が、わずかに持ち上がる。

それは、微笑と呼ぶにはあまりに僅かな、しかし確かな変化だった。


「だったら――足を引っ張らないでよ、ちびオオカミ」

後ろを振り返ることなく、彼女はまた歩き出した。


「……ちびオオカミ、ね」


ヴェイルは片眉を上げながら、小さく息を吐いた。

返す言葉はなかったが、内心には火が灯っていた。

彼女に追いつくように、彼も歩幅を調整する。


《足を引っ張るだって……ふざけんな。見てろよ。

俺だって、ちゃんとついて行けるってこと……証明してやる》


心の中で、強く、そう誓った。


アリニアは、何も言わずに再び歩き出した。

風が銀色の髪を揺らし、その細い髪先を空へと遊ばせていく。


雪を踏みしめる足音が、二人の歩みに一定のリズムを刻んでいた。

それは、この凍てついた静寂の中で、かすかな安心を与えるような響きだった。

風のささやきと混ざり合い、まるで遠くから聞こえる太鼓の音のように、彼らの背中を静かに押し続けていた。


「なあ……お前って、こういうのよくやってるのか? 一人でダンジョン探検とか」

沈黙を破るように、ヴェイルが問いかけた。


アリニアはわずかに顔を横に向ける。

表情はいつもの通り、読み取りづらいままだった。


「場合によるわ。面白い場所なら行く。

でも、大抵のダンジョンは、行くだけ時間の無駄」


「じゃあ……今回は?」


アリニアは一瞬だけ間を置いてから、簡潔に答えた。


「特別よ」


その一言には、意味深な響きがあった。


「……どう特別なんだ?」


なおも尋ねるヴェイルに、アリニアは振り返ることなく返す。


「行けばわかる」


その口調は落ち着いていたが、どこか含みを持たせていた。


ヴェイルは小さくため息をついたが、それ以上は追及しなかった。


彼らの前に広がる森は、まるで終わりがないかのように静まり返っていた。

樹氷に覆われた木々が、不動の番人のように立ち並び、

無言で彼らの旅路を見守っている。


寒さが肌を突き刺すように痛む中でも、二人の歩みは止まらない。


アリニアは先頭を歩きながらも、思考は別の場所にあった。


あの時のことが、不意に脳裏に浮かぶ。

あの巨大な熊に襲われた直後――


彼の腕の中で意識を取り戻した瞬間。

荒く息をしながら、彼は確かに自分を――命をかけて守ってくれた。


《あのとき……彼に抱きとめられて……

命を懸けて……私のために……》


思い返すたびに、胸の奥がざわめく。

頬がほんのりと熱を帯び、アリニアは慌てて首を振った。


意識を現実に引き戻すように、深く息を吸い込む。


「命懸けで守るなんて……そんなこと、できる人じゃないと思ってたのに……」


誰に聞かせるでもなく、彼女はぽつりと呟いた。

わずかに口元が緩み、柔らかな笑みが浮かぶ。


「ん? 今、何か言ったか?」

その声を耳にしたヴェイルが、首を傾げて彼女を見る。


だがアリニアは答えなかった。

わずかに歩調を早め、その白い耳を風に揺らすだけだった。


「……なんで、こんなに気になるの……?」

再び呟いたその声は、風と共に消えていった。


雪が静かに降り続ける中、

二人の足音と呼吸、そして心のざわめきだけが、

無音の森に、かすかな命の音を刻み続けていた。

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