第19章:許されぬ一手
森全体が、凍りついたように沈黙していた。
その静けさは、ただの静寂ではない。
息一つ、雪のきしむ音一つが、異様な緊張を増幅させていく。
空気は凍てつくように冷たく――
まるで風さえも、この場の重さに息を潜めていた。
彼らの前に立ちはだかるのは、巨大な熊。
暗く分厚い毛皮をまとい、ねじれた筋肉をうごめかせる怪物。
その目は、鋭く光る黄色の刃のように、彼らを見据えていた。
一切の瞬きもせず、ただ――静かに、確実に、殺意を孕んで。
ヴェイルはごくりと唾を飲み込む。
心臓の鼓動が、こめかみの内側で荒々しく響いていた。
「……なんでだ……脚が……動かない……?」
彼はかすれた声で呟いた。
体が、恐怖に縛られていた。
次の瞬間、熊が両足で立ち上がる。
後ろ脚が雪を砕き、地を震わせる。
そして――
ガァアアアアアアッ!!!
轟くような咆哮が、大気を切り裂いた。
その叫びは雷鳴のように深く、骨の髄まで震わせる凶音だった。
「今よ、ちびオオカミ!」
アリニアの声が鋭く飛ぶ。
その声は冷たく、だが鋭い刃のように意志を宿していた。
彼女は迷わなかった。
即座に地を蹴り、音もなく跳び出す。
踏み込むたび、雪が舞い上がる。
――一瞬で、戦闘へ。
ヴェイルはその光景を、ただ呆然と見ていた。
現実感が追いつかず、思考が遅れていた。
アリニアは熊の巨腕をかろうじてかわし、雪煙の中で体勢を立て直す。
鋭い爪で横腹を狙うが――
ジャリッ……
鋭い金属音が響く。
熊の体表にある石の鱗が、爪を弾いた。
かすり傷すら残せない。
「チッ……硬すぎる……!」
小さく毒づくと、彼女は腰から光を放つ短剣を抜き放つ。
その刃が冷気の中で煌めき、彼女は再び走り出した。
凍りついた地面を踏みしめるたび、彼女の足運びは獣のように静かで正確だった。
「ちびオオカミ、動きなさいッ!!」
叫びが飛ぶ。
だが――
ヴェイルの足は、まだ地面に縫い止められたままだった。
アリニアの声が、遠く響く。
自分の中の混乱に飲まれて、それすらもうまく届かない。
(……クリオループ一体にすら苦戦したのに……今度は、こんな化け物……どうすれば……)
絶望の中で、熊の目がヴェイルに向けられる。
巨体がゆっくりと向きを変え、その視線が確実に獲物を捉える。
そして――踏み出した。
大地がうねるように揺れ、熊が一直線に迫る。
そのたびに、雪が弾け、空気が振動する。
「ダメッ!!」
アリニアの叫びが、空気を切り裂く。
彼女は瞬時に飛び込み、熊の進路に割り込んだ。
拳を叩き込み、側面を撫でるように誘導する。
彼女の周囲で雪が舞い、目まぐるしく空気が流れる。
「何度も言わせないで、ちびオオカミ! 私はずっとあんたを守れないのよッ!!」
怒りと焦りを混ぜた声が、胸を貫いた。
その声が――ヴェイルの思考の靄を切り裂いた。
だが、恐怖はまだ体を支配していた。
足も、手も、動かない。
その間にも、熊はアリニアに再び襲いかかる。
彼女は地面を蹴り、ギリギリのタイミングで身を翻した。
熊の巨体が止まりきれず、背後の巨木に――
ドォオオオンッ!!
衝撃とともに、木が根ごと引き抜かれる。
凄まじい轟音。
枝が裂け、雪が爆ぜ、幹が真横に倒れる。
雪煙が立ち昇り、辺りの空気すら歪ませる。
――これは、戦いじゃない。
“生存”のための、極限の攻防だ。
アリニアは、止まらなかった。
雪を蹴り、再び地を駆ける。
その動きはしなやかで、無駄がなかった。
彼女は幹に足をかけ、跳ねるようにして方向を変える。
枝を抜け、雪の上をかすめるように走る。
息も乱さず、そのすべての動きは計算され尽くしていた。
だが――
背後から迫る影は、あまりにも速かった。
「速すぎる……。このままじゃ消耗させることもできない」
アリニアは息を潜め、低くつぶやいた。
「それに、ちびオオカミ……何をしてるのよ」
素早く視線を走らせる。
そこには、未だ動けず立ち尽くすヴェイルの姿。
――見ているだけ。
その一瞬の隙を、熊の低いうなり声が打ち砕く。
アリニアは即座に視線を前へ戻し、再び雪を蹴った。
「……結局、私一人でやるしかないってことね」
吐息と共に、呟きが白く漂う。
その声に、焦りと苛立ちが混ざっていた。
(でも、いつまで保てる? こんなやり方で……)
ヴェイルの目には、彼女の姿が映っていた。
命をかけて戦い続ける――その小さな背中。
巨大な獣を前にして、一歩も引かず。
氷のような雪の中で、アリニアは跳び、滑り、斬りかかる。
その姿は、美しく、そしてあまりにも孤独だった。
「動け……頼む、動けよ……っ」
ヴェイルの瞳に涙がにじむ。
頬を伝い、冷えた空気の中で凍るように流れる。
「なんで……動けないんだよ……彼女には、俺が……!」
彼は呻くように叫んだ。
アリニアは、なおも攻撃を繰り返す。
隙を見つけ、再びダガーを振るった。
だが――
キィン――ッ!
またしても、刃は石の鱗を滑る。
薄く白い毛が宙に舞うだけで、傷ひとつ与えられない。
「……硬すぎる。このままじゃ、時間稼ぎすら無理……!」
冷静な口調の奥で、苛立ちと焦燥が膨れ上がる。
次の瞬間、アリニアは跳び上がり、木の幹に足をかけた。
反動を利用して再び突撃する――そのはずだった。
だが。
バキッ――!
崩れる。
その幹は、先ほどの戦闘でひびが入っていた。
踏み込んだ瞬間、表皮が砕け、アリニアの足が滑る。
「――ッ!」
姿勢を崩し、そのまま雪の上へ落下。
体が地面に叩きつけられ、冷たい衝撃が肺を突く。
「くっ……こんな時に……!」
必死に体を起こそうとするが、呼吸がうまく整わない。
その瞬間。
熊が、ゆっくりと彼女の方へと向きを変えた。
ヴェイルは、その様子を――見ていた。
アリニアが倒れ、必死に動こうとしている。
けれど、あの熊の速度では――もう、間に合わない。
(ダメだ……あの距離じゃ――)
熊が踏み出す。
一歩、また一歩と近づくたびに、地が震える。
ヴェイルの心に、叫びが走った。
(もし俺が、ここで――動けなかったら……!)
「彼女が、死ぬ……!」
冷たさが骨に染み、関節が痛み、筋肉が震えても――
それでも、彼は体を動かそうとした。
そして。
変化が起こった。
空気が、震えた。
風が――生まれた。
ごうっ、と突風が吹き抜ける。
まるで、全てを目覚めさせるかのように。
その中で、ヴェイルの瞳が――変わった。
(アリニアが、危ない……!)
その一念が、全てを打ち砕く。
迷いを、恐怖を、痛みさえも――
――吹き飛ばした。
(……助けるんだ。俺が……彼女を……!)
アリニアを想うその一念が、恐怖すら凌駕していた。
胸の奥から沸き上がったのは、理解できないほど激しい怒りと決意。
それは、彼の中に眠っていた何かを――確かに目覚めさせた。
風が吠える。
雪が舞い、空気が震える。
まるで自然そのものが、彼の覚悟に呼応しているかのように。
視線の先には、立ち上がろうと必死にもがくアリニア。
その頭上には、いまにも振り下ろされようとする巨大な爪――!
ドンッ!!!
突然、ヴェイルの背に何かが衝撃を与えた。
意識よりも速く――彼の体は一気に弾き飛ばされる。
雪が凍りついた空間を切り裂き、時間が止まったような錯覚すら覚える。
景色が流れ、視界の全てが白く染まる中でも、
彼の目は、ただ彼女だけを捉えていた。
アリニア。
その上に立つ、殺意の塊のような巨大な熊。
そして――
振り下ろされる、絶望の一撃。
ドォオオン!!
地響きと共に、熊の爪が振り下ろされた瞬間――
巨大な木が爆ぜるように砕け、轟音を上げて崩れ落ちる。
巻き上がる白銀の波。
視界を覆い尽くすほどの雪煙。
だが――そこに、アリニアの姿はなかった。
熊が止まる。
黄色い目が左右に泳ぎ、獲物を探している。
だが、見つからない。
そのはずの場所に、影一つ残っていなかった。
数メートル先。
そこには――
ヴェイルの腕に抱かれたアリニアがいた。
彼の周囲には、猛るような風が渦を巻いている。
雪が舞い上がり、二人を包み込む。
風と共に舞う細かな氷片が、陽の光を反射してほのかに輝いていた。
アリニアがゆっくりと目を開ける。
意識は朦朧としていたが、確かに“温もり”を感じていた。
冷たいはずの空気の中で、肌に触れる体温だけが――あまりにも優しくて、あたたかい。
(……なんで……顔が熱い……? これは、寒さのせいじゃ……ない……)
自分の頬が赤く染まっていることに気づき、アリニアはそっと目を逸らした。
喉の奥で小さく咳払いをしてから、ようやく言葉を口にする。
「……あんたさ」
その声には、微かに揺れる照れが混じっていた。
「私は確かに美しいけどね、ちびオオカミ。……だからって、抱きかかえる理由にはならないでしょ」
わずかに笑みを浮かべ、そっぽを向く。
「……そろそろ下ろしてくれても、いいんだけど?」
ヴェイルは瞬きをした。
ようやく、自分の“今の状態”に気づく。
片手は、彼女の脚。
もう片方は、しっかりと背を支えていて――
(な、なんで……こんなことに……!?)
意識が戻った瞬間、彼の顔は一気に赤く染まった。
「ご、ごめんっ……! いや、あの、俺……っ!」
慌てふためくように、彼はアリニアをそっと雪の上に下ろした。
その間も、決して目を合わせようとはしなかった。
アリニアは、その場に立ち尽くしていた。
まだ、あの温もりが――彼の腕の中で感じた、あの得体の知れない熱が、体に残っている。
それは確かに、彼女を救った。
……それが、ただの温度ではないことを、彼女はすでに知っていた。
だが、その一瞬の静けさを破るように――
グゥウゥ……
大気が震えるような、低く唸る音が響いた。
地面を這うような、重く冷たい音。
熊が、再び動き出す。
その巨大な頭をゆっくりとこちらに向け、黄色の瞳が二人を射抜いた。
吐き出される息が、白い霧となって宙に舞う。
一歩、また一歩――空気に圧がかかる。
アリニアとヴェイルは並び立ち、静かに構える。
その視線は、一歩も逸らさず、獣を捉えていた。
「……さっきの、どうやったの?」
アリニアは視線を外さずに尋ねた。
その声は真剣そのものだった。
ヴェイルは視線を落とし、苦しげに言葉を探した。
「……分かんない。何も考えてなかった。ただ……君が危なくて、それだけで……体が勝手に動いたんだ」
正直だった。
彼自身、何が起きたのか理解していなかった。
アリニアはわずかに目を見開き、そして一瞬だけ、視線を逸らした。
頬がほんのりと赤く染まる。
「……そう。じゃあ、またできる?」
言葉は軽く、だがその奥には小さな希望があった。
「分からない……あれは、ただの偶然だったのかもしれない。俺、何もコントロールできてないんだ」
ヴェイルは戸惑いながら首を振った。
――そのとき。
熊が再び吠える。
ガアアアアッ!!!
雪が舞い上がり、大地が震える。
熊は後ろ足で立ち上がり、その巨体が空を覆う。
空気が張り詰め、全てが凍りつく。
「……関係ないわよ。今度は、二人でやる」
アリニアは静かに言った。
だが、その声には揺るぎない意志があった。
「――うん。一緒に、やろう」
ヴェイルもまた頷き、拳を握りしめた。
アリニアは駆け出す。
鋭い動きで熊の周囲を駆け、間合いを測る。
そのダガーが陽光に照らされ、冷たく光った。
熊の巨腕が振り下ろされるたび、彼女は軽やかにかわす。
その身のこなしはまるで舞うように、雪上を滑る。
その一方で、ヴェイルは――
(どうやって……さっきの、あのスピード……もう一度、出せれば……!)
必死に思考を巡らせていた。
だが。
「ちびオオカミ、危ないッ!!」
アリニアの叫びが飛ぶ。
顔を上げた瞬間、視界いっぱいに熊の爪が迫っていた。
「ッ!」
本能的に身を投げ出す。
直後、地面が弾け飛び、雪が激しく舞い上がった。
アリニアが彼のもとへ飛び込んでくる。
その顔には、怒りと心配が混ざった複雑な表情が浮かんでいた。
「……頼むから、少しは気をつけなさいよ、ちびオオカミ!」
息を切らしながら、吐き捨てるように言った。
「……ごめん……。その、さっきのことを思い出そうとしてて……」
ヴェイルは視線を逸らしながら、申し訳なさそうに言う。
だがアリニアは、片手を上げてそれを制した。
その目はまっすぐに彼を見つめていた。
「……考えながら戦えないなら、考えるのをやめなさい」
「今ある力だけでいい。余計なことは全部、後にしなさい」
彼女の言葉は冷静だったが――真剣そのものだった。
ヴェイルは、ぐっと拳を握りしめた。
彼女の言葉が、まっすぐに胸に刺さった。
熊が動く。
二人が並んでいることに気づいたその目が、再び鋭く光る。
一歩ずつ距離を詰めながら、冷徹に標的を見極めようとしていた。
空気が重くなる。
森そのものが息を止めているかのようだった。
戦いは――まだ、終わっていない。




