第18章:知られざる地への旅立ち
夜明けの光が、静かに、けれど冷たく、洞窟の入口から差し込んでいた。
消えた焚き火の灰だけが残されたその空間は、不快な寒さに包まれていた。
ヴェイルは眠りから目を覚ますと、思わず身を震わせ、かじかんだ手で顔を擦った。
まだ覚めきらない意識を無理やり引き戻しながら、彼はゆっくりと頭を巡らせた。
そして――彼女の姿を見つけた。
アリニアが、洞窟の入り口に立っていた。
彼女はじっと動かず、腕を胸の前で組み、黙ったまま外を見つめていた。
朝の光が、その真剣な横顔の輪郭を際立たせている。
その背で、白い尾が思考のリズムに合わせるかのようにゆらりと揺れていた。
「……アリニア?」
ヴェイルはかすれた声で呼びかけた。
けれど――返事はない。
眉をひそめた。普段は無口でも、声をかければ必ず何かしら反応してくれるはずなのに。
今日は違った。
聞こえるのは、洞窟の外で風が静かに鳴る音だけ。
(……ずっと起きてたのか? でも、どうして……何も言わないんだ?)
疑問と寒さに肩をすくめながら、ヴェイルはゆっくりと身体を起こし、数歩前へ進んだ。
腕をこすり、冷えた体を少しでも温めようとする。
「……もう起きてたのか?」
今度は、少しだけ声を大きくして問いかけた。
沈黙のあと――ようやく彼女の口が開かれる。
その声は静かで、凛としていて、どこか遠くを見つめるようだった。
「……私は行くわ」
その言葉は、まるで鋼の刃のように、ヴェイルの胸へと突き刺さった。
(……行く?)
彼の思考が凍りつく。
何のことだ? どこへ? なぜ?
「行くって……どこに!?」
思わず声が震えた。
信じたくなくて、理解できなくて、叫ぶように問いかける。
アリニアはわずかに顔を向けたが、彼と視線を交わすことはなかった。
その表情は固く、声もまた容赦なかった。
「私は、ちびオオカミ……あんたのために残ってただけ。ここに留まる理由は、もうないの」
その言葉は鋭く、突き放すようだった。
けれど――彼女の背中は、ほんの僅かに揺れていた。
その堂々とした態度の裏で、何かを抑えているように見えた。
(言ってくれればいいのに……来てほしいって……)
アリニアは心の奥で願っていた。
けれど、その想いを口に出すことはなかった。
プライドが、それを許さなかった。
(どうするの、ちびオオカミ……ここに残る? それとも――ついてくる?)
ヴェイルの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
彼女がいなくなる――その事実が、あまりにも重くのしかかった。
言いたいことはたくさんあった。けれど、言葉が出てこない。
ようやく搾り出した声は、かすれて震えていた。
「……俺も……行っていいか……?」
アリニアは動かなかった。
けれど、彼女の唇がわずかに弧を描く。
背中を向けたまま、短く――けれど、確かに応えた。
「……好きにしなさい。ただし、私は待たない。途中でやめるなら――そこで終わりよ」
その声は、あくまでも淡々としていた。
けれど、その奥には確かに、微かな熱が宿っていた。
ヴェイルの胸に、安堵と決意が同時に湧き上がった。
彼女は拒んでいなかった。完全には――
だが、ついていくには覚悟が必要だった。
拳を強く握りしめ、ヴェイルは顔を上げた。
その瞳は、まっすぐ彼女を見据えていた。
「……俺も行く。どこへでも――君と一緒に」
澄んだ、揺るぎない声だった。
アリニアはゆっくりと顔を向け、その鋭い視線でヴェイルをじっと見つめた。
しばらく沈黙が続いた後、彼女はただ一度、小さく頷いた。
「……なら、準備しなさい。すぐ出発するわ」
声は静かだが、突き放すように冷たかった。
ヴェイルは立ち上がり、小さく息を吐きながら荷物を集め始めた。
手の動きはぎこちなく、どこか落ち着かない。
そんな彼に背を向けたまま、アリニアは音もなく洞窟の外へと出ていった。
そのしなやかな後ろ姿は、朝の光の中でゆっくりと消えていく。
「コートを持っていきなさい、ちびオオカミ。――それがなきゃ、この寒さじゃすぐに倒れるわ」
洞窟の出口で、彼女は肩越しにそう言った。
顎で示したのは、彼女の荷物の傍に置かれていた毛皮のコートだった。
その声には、わずかにだが、心配の色が滲んでいた。
ヴェイルは目を落とし、そのコートに視線を注いだ。
それは三日前、彼女が倒したクリオループの毛皮で作られていた。
驚くほど厚く、手で撫でるとふわりと暖かい柔らかさが指先に伝わる。
その温もりは、ただの防寒具以上のものを彼に与えていた。
(……言葉にはしないけど、本当は……心配してくれてるんだな)
そう思うと、胸の奥にじんわりとした何かが広がった。
コートを身につけ、襟元をしっかりと閉じる。
その瞬間、冷え切っていた体が、内側からじんわりと温まるような感覚に包まれた。
残りの荷物を丁寧に腰に括りつけ、彼は出口へと歩き出した。
洞窟を出た瞬間、朝の光がヴェイルの目を刺した。
思わず目を細めながら、視線を遠くへと向ける。
そこには――美しすぎる光景が広がっていた。
象牙のような幹を持つ巨大な木々。
雪に覆われた地面が朝日に照らされ、まるで宝石のように煌めいている。
空は淡い橙と薔薇色に染まり、この冬の絵画に完璧な背景を与えていた。
「……すごい……」
ヴェイルは思わず、息を漏らした。
すぐに足を速め、先を行くアリニアに追いつこうとする。
彼女の足取りは静かで滑らかだった。
雪の上に残る足跡は浅く、まるで空気と一体になっているかのよう。
その尾は小さく揺れ、耳は常にあらゆる音を逃さぬように反応していた。
ヴェイルは彼女の背を見つめながら、心の中で自分に言い聞かせていた。
(……彼女はいつも警戒してる。俺も……追いつかなきゃ。足を引っ張るわけにはいかない)
一方、アリニアは無言のまま歩き続けていた。
無表情な顔の奥で、ほんのわずかな満足が芽生えていた。
ちびオオカミがついてきた――その事実が、彼女の中にかすかな光を灯していた。
だが、油断はしない。
ひとつひとつの枝の音、雪の微かな擦れに、すぐさま意識を向けていた。
彼女の警戒は、どこまでも途切れることはなかった。
(少なくとも、言うことは聞くのね……このまま素直に従ってくれればいいけど)
アリニアは内心で皮肉げに思いながらも、どこか安心していた。
二人の間を埋める沈黙には、雪を踏みしめる柔らかな音だけが重なっていた。
ヴェイルは美しい景色に心を奪われながらも、次第に空気の緊張を感じ取り始めていた。
これは――ただの散歩じゃない。
この森がどれほど息を呑むほど美しくとも、その本質は“自然”ではない。
“野生”だ。つまり――危険だ。
歩き続けて、すでに一、二時間は経っただろうか。
朝焼けの橙色だった太陽は、今や明るい白光へと変わり、巨大な樹々を照らしていた。
鋭く冷たい寒気も、いくぶんか和らぎ、代わりに爽やかな空気が満ちてきていた。
沈黙に耐えきれなくなったヴェイルは、ちらりとアリニアを見やり、気になっていた疑問を口にした。
「……で、どこに向かってるんだ?」
アリニアの足取りがゆっくりと緩まる。
そして、完全に止まった。
静かに振り返ると、その鋭い青い瞳がヴェイルを捉えた。
その表情は真剣だったが、決して険しくはなかった。
「私たちは――」
――ドォンッ!!
突然、地面が揺れるような衝撃音が響いた。
アリニアは即座に身を低く構え、表情が瞬時に変わる。
鋭く爪を展開し、彼女の視線は左方向――音の出所に釘付けになっていた。
「……何だ、今の……?」
ヴェイルの声が、微かに震えていた。
ゆっくりと荷物を地面に降ろし、反射的に腰のダガーに手をかける。
冷たい汗が背筋を伝い、もう一度――
ドォンッ!!
今度は、さっきよりも近い。
その直後――
ガァアアアン!!
まるで世界を裂くような、木が倒れる轟音が響いた。
「アリニア……あれは、何なんだよ……?」
声は、ほとんど消え入りそうだった。
アリニアはすぐには答えなかった。
耳がぴくりと動き、音の微細な変化を捉えている。
倒れた木が地面に激突し、雪煙が波のように舞い上がる。
その光景はまるで、何か巨大なものが迫ってくる“兆し”だった。
「……動くな、ちびオオカミ。一歩も」
アリニアの声は低く、鋭く、命令そのものだった。
ヴェイルは前方の樹々を見据える。
心臓が、痛いほど打ち続ける。
音の発生源は――確実に、近づいている。
一秒一秒が、永遠のように長く感じられた。
そして――“それ”が現れた。
巨大な影が、樹々の隙間からゆっくりと姿を現した。
幹を押しのけるようにして進むその姿は、あまりにも異様だった。
まるで、細い枝を踏み潰すように、森の中を圧倒的な質量で進んでくる。
「……う、嘘だろ。あんなの、どうやって勝てばいいんだよ……」
ヴェイルの声は、もはや息そのものだった。
光が差し込むにつれ、影はその正体を現していく。
――それは、巨大な“熊”だった。
全身を白い毛皮で覆い、その息が冷たい空気の中で濃い霧となって立ち昇る。
だが、それだけではなかった。
その体には、灰色の岩のような硬質の装甲がいくつも埋め込まれていた。
まるで、大地そのものが形を成したかのような、天然の鎧。
そして――
その目。
鋭く、異様な輝きを放つ、黄色の瞳。
まるで、この世界の理など通じない“何か”を宿しているようだった。
ヴェイルは、動けなかった。
恐怖が、彼の全身を縛り付けていた。
「落ち着いて。――下手なことはしないで」
アリニアの声が、鋭く、低く響いた。
ヴェイルはかすかに頷いた。
返事をする余裕もない。
膝がわずかに震えていたが、それでも彼は手にしたダガーを離さなかった。
(……こんな化け物に通じるのか分からない。でも、何も持たずに立ってるわけには……)
前方では、あの巨大な熊が――
すぐそこまで迫っていた。
ほんの数メートル先。
黄色く輝く目が、彼らを見下ろしている。
胸の奥から響くような低い唸り声。
巨大な前足が地面を叩き、まるで大地ごと震わせるような衝撃が走った。
「……終わったな」
ヴェイルは絶望を滲ませながら呟いた。
だが、アリニアは動かない。
張り詰めた沈黙の中、その筋肉は極限まで緊張しながらも、隙ひとつ見せない。
陽光を受けて、伸びた爪が鋭く光る。
「逃げ道はない。――戦う準備をして」
その声は、冷たく、しかし揺るがぬ強さに満ちていた。
熊がわずかに後ろ足に力を溜める。
前足が空をかくように振り上げられ、その咆哮が喉奥で膨れ上がっていく。
息が荒くなり、呼吸のたびに白い霧が勢いよく噴き出した。
ヴェイルとアリニアは、視線を交わした。
逃げ道など、どこにもなかった。
「……やるしかない。戦うんだ」
ヴェイルは、震える声に決意を込めた。
熊は後ろに重心を下げると、足元の雪を蹴り上げた。
巨体に見合わぬほどの速さで地面をえぐり、その動きは明らかに――
“狙いを定めた者”への突進だった。
鋭い目が、ただ一点を捉えて離さない。
ゴォォッ……と空気を切り裂くような唸りが響く。
地面が揺れ、雪が舞い上がり、森が沈黙を飲み込んだ。
すべてが――その一瞬に、崩れ落ちた。
戦いが、始まった。