第16章:三日目――予期せぬ顕現
三日目の朝が、静かに始まった。
淡い光が洞窟の入り口から差し込み、
冷え切った空気の中に、夜の名残が漂っていた。
焚き火はすでに消え、炭と灰だけを残していた。
冷気は鋭く肌を刺し、昨日受けた頬の切り傷がじんわりと痛んだ。
「……ちっ」
ヴェイルは目を開け、ゆっくりと身体を起こす。
顔に手を当て、眠気を拭うように撫でる。
洞窟の隅では、アリニアが丸くなって眠っていた。
静かな呼吸が岩壁に反響し、
空間をやさしく満たしている。
「……火をつけ直すか。そっちの方が、始めやすい」
小さく呟き、彼は立ち上がる。
洞窟の入り口近くで、枝や小さな枯れ葉を集め、
前日の炭の上に丁寧に積み上げていく。
だが――
「……問題は、どうやって火をつけるかだよな……」
手元に火打石も、発火具もない。
眉をしかめて焚き火を見つめていたそのとき――
「それなら、こっちの方が確実よ」
静かだが、どこか皮肉を含んだ声が背後から聞こえた。
「っ!」
驚いて振り向くと、
まだ寝起きの表情を浮かべたアリニアが立っていた。
その蒼い瞳には微かな眠気が残りつつも、
どこか楽しげな色も浮かんでいる。
手には、小さな火打石。
彼女はそれを無言で差し出し、
ほんのり口元を吊り上げる。
「……ありがと」
短く礼を言い、彼は火打石を受け取って再び焚き火へ。
数回、石を擦り合わせると、火花が飛び――
小枝が燃え始めた。
「ふぅ……」
炎が揺らぎながら洞窟を照らし始める。
冷気が後退し、朝の空間に温もりが戻る。
アリニアはその様子を見届けると、
焚き火のそばに腰を下ろし、ゆっくりと伸びをした。
白い尾が地面の埃を優しくはらい、
しなやかな動きの中に自然な優雅さが宿る。
ヴェイルの方をちらりと見て、言葉を投げる。
「何か食べた方がいいわよ。
もう三日目。……体力が切れたら、意味ないわ」
だが、ヴェイルは既に水たまりの前に座り、
瞑想するように目を閉じていた。
「……今はいい。時間がない。明日で終わりだ」
唇を強く結び、視線を逸らさずにそう答える。
アリニアは目を細めた。
その瞳には、わずかに苛立ちと――少しの心配。
だが、何も言わずに干し肉の包みを開け、
静かに食べ始める。
時折ヴェイルを横目で見ながら。
彼は、心の中で手順をなぞっていた。
――感じろ。視ろ。導け。
口元がわずかに動き、誰にも聞こえない声で呟く。
「今度こそ……失敗は許されない」
右手をそっと水たまりの上に差し出す。
マナの流れを導こうとする――
だが、最初の試みは失敗。
糸は伸びきる前に、消えた。
彼は一度目を閉じ、呼吸を整える。
そして――再び、始めた。
三度目の試みで、何かが起こった。
水面がわずかに波打ち、淡いさざ波が広がった。
まるで目に見えない風が通り抜けたかのように――
波は小さく、不安定だったが、
それがマナとの繋がりから生まれたものであることは明白だった。
焚き火のそばで食事を終えかけていたアリニアが、
手にしていた干し肉を脇に置き、ゆっくりと身を起こす。
「やるじゃない、ちびオオカミ。
……それなら、次の段階に進んでいいわ」
その声は厳しさを帯びていたが、どこか誇らしげでもあった。
彼女は水たまりのそばにしゃがみ込み、
鋭い蒼の眼でヴェイルを見つめる。
そのまなざしは、静かな熱を秘めていた。
「繋げ方はもう理解してる。
でも次は、“制御”よ。
水は、マナが絶えず流れてこそ一体となる。
けれど、もし力で押さえつけようとすれば――」
そう言って、アリニアは自分の頬を指でなぞった。
ヴェイルの頬に残る、あの細い傷の位置を正確になぞるように。
「……どうなるかは、知ってるでしょ」
その言葉は冷たくも、確かな真実を突いていた。
ヴェイルは無言で頷く。
指先が自然と、自分の頬へと向かう。
傷の痛みはほとんど引いていたが、その記憶は鮮烈だった。
「次は、想像力が全てよ。
水は“お前の内にあるもの”を映す。
心が濁れば、水も迷う。
心が澄んでいれば、水は応える」
アリニアは手を差し出した。
掌を開き、水たまりの上にそっと掲げ――
静かに目を閉じた。
その瞬間、水面がふるりと震え、
波紋が一筋、揺らぎ始める。
ゆっくりと、水滴が数粒――浮き上がった。
まるで見えない糸で吊られているかのように、
空中にぷかりと浮かぶ。
「……見てなさい」
その水滴たちは集まり、彼女の掌へと流れ込んだ。
ほんの小さな“水溜まり”が、そこに形成される。
淡い光が滴に反射し、宝石のような輝きを放つ。
そして――静かに、また水面へと戻される。
「さあ、お前の番よ」
アリニアの声は穏やかだったが、しっかりと導きを与えていた。
「マナを繋げて、水と一体になるの。
イメージは――“一滴の水”。
たったそれだけ。小さく、儚く、でも自由に」
ヴェイルは深く息を吸い込み、静かに目を閉じた。
思い返す。昨日までの感覚。
マナの流れ。繋がり。そして今は――“形”を与えること。
「……一滴だけ。小さくて……自由な」
呟くように言って、手を水面へと差し出す。
――繋がる。
昨日よりも確かに、早く、深く。
マナは迷わず水面へと向かい、
一筋の糸のようにしっかりと結ばれた。
彼は、イメージした。
水面から離れ、浮かび上がる――“一滴”。
その姿を、心に鮮明に描く。
水が揺れた。
柔らかな波紋が走り、表面がわずかに盛り上がる。
だが――まだ不安定。
一瞬だけ細い柱が立ち上がったが、すぐに崩れて水面へと戻る。
「……っ」
ヴェイルはわずかに顔を歪めたが、諦めない。
再び目を閉じ、呼吸を整える。
そして、また“想像”する。
“水滴”の儚さ、自由さ。
何度も、何度も。
その姿を、心の中に――確かに描いていく。
「無理に動かそうとしないで。集中して。
……水は“命令”には従わない、“心”に応えるの」
火の世話をしながらも、アリニアは静かにそう声をかけた。
時間は、ただ静かに過ぎていった。
分は時へ、時は日差しへと変わり、
ヴェイルは水たまりの前で、ただひたすらに繰り返していた。
何度も試み、何度も崩れ――それでも止めなかった。
小さな水柱が立ち上がっては、すぐに崩れる。
あるいは、まったく反応すらない。
それでも、彼は諦めることをしなかった。
やがて、太陽が天頂に達し、
薄明かりが洞窟の奥まで差し込む頃――
彼は、低く呟いた。
「……できるはずだ。
たった一滴なんだ、こんなことで、諦めるわけには――」
深く、深く息を吸い込む。
だが、体は限界に近づいていた。
指は震え、肩には鈍い痛みが広がる。
ヴェイルは静かに手を下ろし、少し荒い呼吸を整える。
アリニアが、ようやく顔を上げた。
Cryoループの毛皮を整えていた手を止め、
静かに言葉をかける。
「疲れて当然よ、ちびオオカミ。
結果が見えなくても、マナは消費されてる。
……成功かどうかは関係ない。使ってるだけで、消耗するの」
ゆっくりと近づき、焚き火のそばに座ったヴェイルに
短く助言を続けた。
「食べなさい。
マナは“エネルギー”。
空腹のままじゃ、何も生まれないわ」
彼は小さく頷き、
昨日の残りである干し肉を手に取った。
味はほとんどしなかったが、
嚙むたびに、少しずつ力が戻ってくるのを感じた。
アリニアは再び作業に戻りながらも、
ちらりと彼の様子を観察し続けていた。
しばらくして――
ヴェイルは、噛んでいた肉を置いて立ち上がった。
「食べかけでやめるなんて、行儀悪いわよ?」
アリニアは視線を向けずに、からかうように呟いた。
だが、彼は返さなかった。
その視線はただ、水面に注がれていた。
記憶をたどる。
接続、視覚化、導き――
彼は、掌を水面へと向ける。
今度こそ、明確に“想像”した。
一滴の水が、浮き上がる姿を。
揺れながら、静かに自分のもとへ流れ込む、その動きを。
――来い。
水が、揺れた。
ゆるやかに、確かに、波が広がる。
次の瞬間――
ヴェイルの手のひらのまわりに、
風が、生まれた。
はじめは微かな空気の動きだった。
それが徐々に強まり、火の中の炭がカラカラと音を立てて揺れる。
「……ちびオオカミ?」
アリニアが顔を上げた瞬間、
風が、渦を巻いた。
彼の手の中で、小さな竜巻が――
ぶおおっ、と音を立てて回転し始めた。
「な……なんだ、これ……?」
ヴェイルは目を見開き、手のひらを凝視した。
小さな竜巻は一瞬、力を増したかのように空気を巻き上げ、
洞窟の中に細かな砂塵を舞わせた。
ゴオッ……!
焚き火の炎がかき消される。
突然の闇と冷気が洞窟内に広がり、
空気の重みが肌にまとわりつく。
だが――
集中が切れた瞬間、風はあっけなく消え去った。
静寂。
灰がふわりと床に落ち、空気は再び静まり返った。
ヴェイルは震える手を見つめたまま、立ち尽くしていた。
アリニアがゆっくりと彼に歩み寄る。
その目は、彼の掌に真っすぐ向けられていた。
「……今の、何をしたの?」
声は低く、だが揺るがぬ力を含んでいた。
ヴェイルは首を横に振った。
動揺と困惑が混ざった息遣いを漏らす。
「わからない……水を、持ち上げようとしてただけ、なのに。
でも、風が……。意味がわからない……」
その場に膝をつき、俯くヴェイル。
アリニアは彼の隣にしゃがみ込む。
「普通じゃないわ。水と風、二つの属性が
こんな風に“重なる”なんてあり得ない。
訓練もしてない、適性の確認もしてないあなたが、
こんな反応を起こすなんて……」
彼女の目が細められ、顎に手を当てて思考に沈む。
「もう一度やってみて。マナを水につなげて……再現してみなさい」
その声に、ヴェイルは小さく頷き、再び座り直した。
深呼吸。
目を閉じ、心を静かに整え、
マナを水へと向ける――
だが。
まったく反応はなかった。
水面は揺れず、風も起こらず、何も起きない。
「くっ……だめだ。さっきまでの感覚が、消えた……」
悔しげに顔をしかめるヴェイル。
アリニアは立ち上がり、一歩下がって呟いた。
「……自発現象、かもしれない」
そのつぶやきは、彼女自身に向けられたものだった。
やがて、手を差し出しながら言う。
「ちびオオカミ、これは無視できるものじゃない。
あなたの中には、何か“異質な力”が眠ってる。
それを知るには、制御できるようになる必要がある。
……でも、それは“今日”じゃない」
真っ直ぐに彼の瞳を見つめ、語りかける。
「まずは“水”に戻りなさい。
さっきの現象は後回し。
今のあなたには、再現もできない。
なら、焦るだけ時間の無駄」
彼女は一歩下がり、耳をぴくりと動かした。
不快感を隠しきれないような仕草。
「私の適性は“水”にしかない。
“風”については……私にもどうしようもないわ」
少しだけ、語尾が硬くなった。
「今、あなたに必要なのは、“理解できる力”を磨くこと」
洞窟の中に、再び静寂が訪れる。
風も、火もない冷えた空気の中で、
ヴェイルはただ静かに頷いた。
ヴェイルはゆっくりと頷いた。
だが、その胸の内は、先ほど起きた出来事による混乱で、まだざわついていた。
彼は再び水たまりの前に膝をつき、不安げな手をそっと水面の上に差し出す。
《どうして……あの風が吹いた? 今のタイミングで……》
そう考えながらも、ヴェイルは目を閉じた。
思考を追い払うように、静かに呼吸を整える。
教わったとおりにマナを導こうとするも、最初の試みは実らなかった。
水は微動だにせず、内に渦巻く感情が集中をさらに乱していく。
時間だけが過ぎていった。
ヴェイルは何度も繰り返し、何度も失敗した。
それでも彼は諦めなかった。
胸に広がる苛立ちを必死に抑えながら、深く息を吸い、再び挑む。
何度目かの試みで、ようやく――
水面にわずかな波紋が現れた。
ゆらり、ゆらりと、不規則に膨らみ、そして消える小さなさざ波。
「悪くないわね。前に進んでる。無理に力を込める必要はないわ」
焚き火のそばで様子を見ていたアリニアが、ちらりとこちらを見ながら言った。
その言葉に背中を押されるように、ヴェイルはさらに集中を深めた。
夕暮れが迫る頃、彼はふと、自分のアプローチを変えてみた。
「……引き寄せるんじゃない。導くんだ……
糸を、そっと滑らせるみたいに……」
小さく呟きながら、イメージを組み直す。
自らのマナが、目に見えない細い糸を伝って水に触れていく。
押しつけるでもなく、操るでもなく――ただ、繋がるように。
ふわりと、手のひらに温もりが広がる。
穏やかで、柔らかく、どこか優しい熱。
その感覚を頼りに、彼はマナを水へと流した。
やがて、水たまりの一部がふわりと浮き上がる。
わずかに揺れながら、彼の手のひらの上へ――
しかし到達した瞬間、雫はぷつりと弾けて、細かい霧となって散った。
沈黙の中、それを見届けていたアリニアが、わずかに微笑む。
「上出来。感覚が掴めてきたわね」
静かだが、どこか楽しげな声だった。
完全な成功ではなかった。
だが、ヴェイルの胸に小さな誇りが芽生える。
彼は黙々と、同じ動作を何度も繰り返した。
アリニアは、その姿をずっと見守っていた。
夜が訪れ、森が闇に包まれる。
それでもヴェイルの挑戦は終わらなかった。
ついに――
一粒の雫が、彼の手のひらの上に静止した。
不安定で、震えていて、完璧とは程遠い。
けれど、それは確かに“そこ”にあった。
「……よし。たった一滴かもしれないけど、それが最初の一歩よ。
小さく見えても、それはとても大切な一歩」
アリニアは、真剣な表情で言った。
その声には、確かな満足が込められていた。
ヴェイルは、その水の雫を見つめた。
疲れ切った顔に、ゆるやかな笑みが浮かぶ。
そして、力を抜くと――
雫はやさしく弾け、消えた。
「できた……」
かすかに、だが確かな声で、ヴェイルは呟いた。
「今日はもう十分。体も、マナも限界よ。
食べて、休みなさい。休息も訓練の一部よ」
アリニアの言葉は、優しさと厳しさの間にあった。
ヴェイルは素直に頷いた。
その顔には、達成感と安堵の色が滲んでいた。
夕食を終える頃には、心の中にあった緊張も少しほぐれ、
ほんの少しだけ――彼はこの世界に、前より深く足を踏み入れたような気がした。
その夜、彼の眠りは浅かった。
けれど、その夢の奥には確かに――進歩という灯火が、静かに灯っていた。
明日は、また新しい試練が彼を待っている。
だが今の彼には、それに立ち向かう準備があった。




