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氷結の夜明けの果て   作者: Wolfy-UG6
プロローグ - 第1巻:新たな人生
16/78

第15章:二日目 せっかちな生徒

夜明けの光が、森の向こうにうっすらと姿を見せ始めていた。


その薄明かりが洞窟の中へと差し込み、まだ影に包まれた岩肌に柔らかな色を添えていく。

焚き火はすでに消え、残されていたのは、かすかに熱を帯びた灰と、ちらほらと赤みを帯びた炭だけだった。


ヴェイルはすでに目を覚ましていた。

洞窟の中心に座り込み、脚を組み、まぶたを閉じて、深い集中の中にいた。


両手は膝の上、掌を上に向けて。

呼吸は深く、一定のリズムを保っており、その静かな音が、洞窟の中にかすかに響いていた。

息を吸うたびに身体の奥へと意識が沈み、吐くたびに、内に秘めた緊張がほどけていく。


「……感じろ……想像しろ……導け……」


ヴェイルは低く呟いた。

その声には、昨日とは違う“確信”が込められていた。


アリニアから教わった手順を、正確に、丁寧になぞっている。


マナ――身体をめぐる、目に見えないその糸は、今や穏やかな川のように、彼の中を流れていた。


心臓の鼓動と共に、その流れは確かに感じられる。

胸の奥で広がったぬくもりが、腕へ、足へと分かれていく。

それは、昨日よりも明らかに自然で、滑らかだった。


何分かが、静かに過ぎた。

その沈黙を破ったのは、小さな衣擦れの音だった。


アリニアが立ち上がっていた。

彼女はゆっくりと身体を伸ばす。

その動作一つひとつに、獣のような柔軟さが宿っていた。


白い耳がわずかに揺れ、ヴェイルの静かな呼吸を捉える。


「ふーん……どうやら、待つつもりはなさそうね」


彼女はくすっと笑みを浮かべながら言った。


ヴェイルは目を開き、彼女の方を見やった。

そこには、集中の残滓と、ほのかな満足が宿っていた。

だがその奥に――焦りにも似た強い意志が、揺らいでいた。


「……準備はできてる。時間を無駄にはできない」


落ち着いた声だったが、芯に熱を秘めていた。


アリニアは口元に皮肉げな笑みを浮かべ、冗談めかした調子で言う。


「ふん……毎朝それくらいやる気のある奴ばっかなら、苦労しないんだけど」


そう言いながら、彼女は指を髪に通し、背筋をすっと伸ばす。

洞窟の入り口に目をやると、朝の冷気が静かに忍び込んでいた。

だが、彼女はそれを気にする様子もない。


両腕を組み、表情を引き締めて言った。


「そんなに急ぐなら……始めましょうか。

でも覚えておいて。焦りは、時として最大の弱点になる」


その静かな忠告に、ヴェイルは即座に頷き、すっと立ち上がった。


身体にはまだ疲労が残り、足にも鈍い痛みがあった。

だが、彼の瞳には昨日とは違う“炎”が灯っていた。


新しい一日は、まだ始まったばかり。

そして彼は――

そのすべてを受け止める覚悟を、すでに持っていた。


洞窟の影が、朝の光に押し返されるように、ゆっくりと後退していく。

それはまるで、この日から始まる“新たな学び”を象徴しているかのようだった。


淡い光が、岩壁にしたたり落ちた水滴を照らしていた。

その水滴が地面に小さな水たまりを作っている。


アリニアは無言でその水たまりに顎をしゃくった。

腕を組んだまま、無表情のままで。


「こっちに来て。今日からは“元素”との接続を教えるわ。

最初は“水”。単純で流動的。でも、油断すると手に負えないわよ」


アリニアは変わらぬ静かな口調で言った。

 

ヴェイルは頷き、視線を足元の水たまりに落とした。

彼は静かに膝をつき、昨日と同じように手を膝の上に乗せて座る。


アリニアもその近くに座り、脚を組む。

彼女の尾は静止したまま、視線だけが鋭く彼を捉えていた。

だが、その目にはどこか落ち着きもあった。


「昨日と同じように、右手にマナを導いて。

でも今回は、そこから“見えない糸”を伸ばすの。

掌から水面へと――触れ、到達し、そして繋がる。

その瞬間、水の“本質”があんたに伝わるわ。

……水が、あんたの一部になるの」


静かだが、確信に満ちた声だった。


ヴェイルは軽く目を細め、右手を水面の上に持ち上げる。

指が少し震えるのを感じながらも、集中を保ち、深く息を吸った。


「マナを感じて……導いて……糸を……伸ばせ……」


小さく呟きながら、彼は目を閉じる。

呼吸は徐々に整い、体内の流れが鮮明に意識に上がってくる。

川のように、静かに、そして確かに――


右手へとその流れを導く。

そこまではうまくいった。だが――


それを“外”に出そうとした瞬間、何かにぶつかった。

目に見えない“壁”のような感覚が、彼の意識を揺るがせる。

手がかすかに震えた。


「……駄目だ。何も起きない……」


苛立ちを滲ませながら、ヴェイルは眉をひそめた。


アリニアは少し離れた場所で、細い小枝に火を点けていた。

すぐには返事をしなかったが、ちらりと彼を見やり、

口元にかすかな笑みを浮かべる。


「当然よ。簡単だったら、ここに来てないはずでしょ。

……もう一度。深く息を吸って。

力じゃない。水に命令するんじゃなくて、“招く”の。

水は従属しない。“自由”なの」


その声は、まるで冷たい川の流れのように穏やかだった。

 

ヴェイルは静かに拳を解き、再び目を閉じた。

掌から伸びる“光の糸”を想像する。

それはふわりと揺れながら、水面へと滑るように伸びていく――


だがその糸は、届く前にほつれて消えていった。


力を入れるな……導け……滑らせるように……

できる……やらなきゃ……!


そう心の中で繰り返しながら、

彼は再び、静かに息を吸い込んだ。


火のそばに座っていたアリニアは、耳をぴくりと動かす。

焚き火の音を背景にしながらも、視線はヴェイルに向けられていた。

その眼差しには、関心と警戒の両方があった。


――意志はある。だが……まだ身体に力が入りすぎてる。

ほんの少し、その圧を抜いてやれば……届くかもしれない。


彼女は心の中でそう思っていた。


そして――


何度目かの挑戦の後。


ヴェイルは、はっきりと“変化”を感じた。


彼が想像した光の糸が、今度は水面へとすっと伸びた。

届いた――ような感触。

掌の内側に、ひやりとした、しかし流動的な感覚が走る。


「……これか? いや……まだ弱い……もっと、伸ばせる……」


驚きと戸惑いを滲ませながら、息を吐いた。


彼はもう一度、意識を整える。

今度は、意図的に“力み”を抜いた。

糸はさらになめらかに伸び、静かに水面へと触れた。


その瞬間――


冷たさが、鮮やかに、掌を満たした。


「そのまま。もう少しで掴める」


静かだが、芯のある声だった。

その言葉に、ヴェイルは呼吸を整えながら集中を深めた。


水との繋がりが、かすかに――だが確かに感じられる。

脆く、今にも途切れそうな糸のようだが、

それは彼の内側のリズムと、確かに共鳴していた。


「……感じる……動いてる……生きてるみたいだ……」


驚きと感動が入り混じった声で呟く。


アリニアは、ヴェイルの指先がわずかに震えているのを見ていた。

その瞳に、一瞬だけ満足の光が灯る。

そして、軽く身体を起こし、口元に微かな笑みを浮かべた。


「悪くない。でも、油断しないで。

水は気を抜いた瞬間、指の隙間からすり抜ける」


言葉は冷静だが、その中には認める気配があった。


ヴェイルはゆっくりと目を開け、アリニアと目が合う。

その瞳には疲れの色が滲んでいたが、同時に希望の光もあった。

接続は弱い。だが――存在していた。


「もう一度。震えずに保てるまで、何度でも」


アリニアは命じるように言い残し、再び焚き火の方へと戻っていく。


ヴェイルは黙ってうなずいた。

彼の意識は、すでに再び“水”へと向いていた。


小さな水たまりの前――

その静かな場所に、彼の思考は一つしかなかった。


……成功させる。絶対に。


時間が、ゆっくりと流れていく。


太陽が少しずつ高く昇り、洞窟の光も微妙に変わっていく。


だがヴェイルは、ほとんどその変化に気づいていなかった。

ずっと、同じ姿勢で座り続けていた。


右手を水の上に差し出し、目を閉じ、意識を集中させる。

だが、糸は時に届かず、時に触れてもすぐに断ち切れてしまう。

接続は、安定しない。


「……なぜだ。朝は感じた。……確かにできたのに……!」


悔しさが声に滲み、洞窟の中に小さく響く。


その肩に力が入り、ため息が漏れる。


後ろから、足音が近づいてくる。

アリニアがコートの裾を直しながら歩み寄っていた。


彼女は無言でしばらくヴェイルを見つめ、

そして淡々と告げる。


「少し外に出てくるわ。……数日乗り切るには、食料がいる」


彼女は腰に小さな短剣を装着し、

洞窟の入り口へと歩き出す。


その途中、振り返ってヴェイルを見た。

その青い瞳は、どこか優しさのようなものを湛えていたが、

声の調子はあくまで冷静だった。


「無理するな。水は命令に従わない。

繋がりたいなら、自分のマナを水の“流れ”と調和させること。

……でなきゃ、失うのは時間だけじゃ済まないわよ」


そう言い残し、彼女は洞窟を出て行った。


ひとり取り残されたヴェイルは、唇をかみしめる。

拳を一瞬だけ握りしめたが、すぐにその力を抜いた。


「……っ……はぁ……」


深く息を吸い、再び水面に集中する。

その小さな水たまりに、彼は目を据えた。


時が過ぎていく。


何度挑戦しても、結果は変わらない。

マナは感じられる。糸も描ける。

だが、水との“繋がり”が――常に断たれる。


心の奥に、暗い焦りと苛立ちが渦巻く。


「……くだらない。こんなもんで繋がるわけない。

水なんて……形もなくて、掴めなくて……どうやって糸を通せってんだよ……!」


苛立ちが言葉となって漏れた。

その声は、自分自身と水、その両方に向けられていた。


苛立ちが、ついに表に出た。


呼吸が荒くなり、思考はばらばらに散り、

彼は導くのではなく、無理やり“押し出す”方向へと舵を切った。


マナの糸を伸ばすのではなく、

力で叩きつけるように水へ向かわせる。

水に“従え”と、命令するように――


ちょうどその瞬間だった。


アリニアが洞窟に戻ってきた。

肩には、倒した二匹のクリオループの死骸がかかっている。


彼女はそれを洞窟の入り口に静かに下ろし、

そのままヴェイルの方へ目を向けた。


白い耳がぴくりと動く。

彼の発する“乱れ”を即座に察知していた。


「やめなさいッ! 今すぐ!」


その声は鋭く、切り裂くように響いた。


だが――遅すぎた。


ヴェイルは、なおも強引にマナを押し込んでいた。

意志という名の暴力を、水に向けて投げつけていた。


次の瞬間――水が“反応”した。


それはまるで、生きた刃のようだった。

水たまりから弾けた一滴が、鋭く宙を舞い、

彼の頬をかすめるように切り裂いた。


「っ――!」


反射的に後ずさり、手を頬へ当てる。

そこには、細く、しかしはっきりとした切り傷。

血の一滴が、光に照らされてゆっくりと頬を滑った。


「……これが、水……? 俺を……傷つけた……?」


驚きと混乱に満ちた声が漏れた。


アリニアがすぐに近づいてくる。

その顔は冷たく引き締まり、瞳には一切の迷いがない。


ヴェイルの前に立ち、静かに――だが鋭く告げる。


「言ったはずよ。無理やりやるなって。

マナはただの武器じゃない、“調和”よ。

水を砕こうとすれば、逆に自分が砕かれる」


その声には怒気はなかったが、

責める言葉よりも重く、胸に響いた。


アリニアは軽くため息をつき、

ポケットから小さな布切れを取り出してヴェイルに差し出す。


「……拭きなさい。それから、やり直して。

今度こそ――私の言葉をちゃんと聞いて」


冷静なその口調は、鋭さを保ちつつも、

どこか“信頼”をにじませていた。


ヴェイルは無言で布を受け取る。

目を伏せ、呼吸はまだ乱れていた。

頬を拭いながら、胸の奥にひりつくような“恥”が生まれる。


だがその下に、静かに燃える決意が芽生えていた。


――絶対に、諦めない。


アリニアは手早く、クリオループの一体を解体し始めた。

血のついた手を布で拭きながらも、

その耳はわずかに動き、ヴェイルの気配を逃さなかった。


「落ち着くのよ。……あんたの心が乱れすぎてる。

元素は力でねじ伏せるものじゃない。

“調和”で導くのよ、ちびオオカミ」


その声は優しくはなかったが、どこか柔らかかった。


その言葉――まるで氷のように澄んだ真実が、

ヴェイルの胸に突き刺さる。


今まで彼が目を背けていた“核心”。

それが、ようやく形を持って迫ってきた。


彼は目を閉じる。

心の中に渦巻く苛立ちを、ひとつひとつ捨てていく。


疑念、焦り、怒り――それら全てを。


マナを“操る”のではない。

マナと、そして“水”と――“一つになる”こと。


思い浮かぶのは、アリニアの姿。

厳しくも冷たくないその眼差し。

計算された所作、無駄のない言葉。


冷たいけれど、どこかあたたかい。

言葉の端に、確かな“導き”がある。


……彼女の言うとおりだ。

最初からずっと。


“聞かなきゃ――俺は、進めない”。


深く息を吸い込み、ヴェイルは再び手を水面の上に差し出した。

指先をわずかに開き、ゆるやかに、慎重に――


アリニアの姿が、心の中に浮かぶ。

あの冷静で、強くて、それでいてどこか優しさを纏った眼差し。

そのイメージが、彼の心に“静けさ”をもたらした。


呼吸が整い、筋肉のこわばりがゆるむ。

そして――意識が澄んでいく。


マナが流れ始めた。

静かに、滑るように、彼の内を巡る“川”。


その流れを右手へと導く。

そこから伸びる糸を想像する。

見えないが、確かに“存在”する光の糸。


それが――水面へと伸びていく。

押し付けるのではなく、共に“流れる”ように。


アリニアは獣の皮を剥ぎながらも、

時折ヴェイルに視線を向けていた。


だが――その耳がぴんと立ち、瞳がわずかに見開かれた。


「……やった、のね……」


彼女が低く呟いた。

その声には、わずかに驚きと喜びが混ざっていた。


水面に、微細な“波紋”が広がっていた。

それは風でも、音でもない。


――彼のマナが、水と“繋がった”証。


「見なさい、ちびオオカミ。できたじゃない」


そう言って、アリニアは身体を起こした。


ヴェイルは目を開く。

一瞬、呼吸が止まった。


静かに揺れる水面――

その波は、確かに“自分”から発していた。


風はない。森も静かだ。

この波は、自分の“マナ”から生まれたもの。


「……本当に……やった……」


小さく、だが心からの笑みが浮かんだ。


しかし、その“感情”が揺らぎを生んだ。

意識がわずかに逸れた瞬間、


――マナの糸が切れた。


波紋は止まり、水面は元の静寂に戻る。

何事もなかったかのように。


「……っ」


悔しさが滲む。

だが、その瞬間――


「今日はそれで十分よ、ちびオオカミ」


アリニアが、静かに言った。

その声は厳しさを含みつつも、明らかな“評価”があった。


「大きな一歩よ。……さあ、食べなさい。まずは休むこと」


そう言って彼女は焚き火のそばに戻っていく。


残されたヴェイルは、火の光の中で静かに座り続けた。

胸の奥にあった焦りや疑念は、

今は少し遠く感じられる。


代わりに心に残ったのは、


――確かな“手応え”と、“新たな決意”。


洞窟の中は、薄暗くなりつつあったが、

その雰囲気は不思議と温かかった。


二日目は、こうして静かに幕を下ろした。


それは、確かな“前進”の証であり――


ヴェイルの決意を、さらに強くする一日だった。

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