第13章:学びの願い
凍てつく風が森を切り裂くように吹き抜け、雪を踏みしめたばかりの地面からは、微かに血の匂いと金属の気配が漂っていた。
クライオウルフとニヴェアたちの屍が散らばり、青白い毛皮と鋭い羽根が無残に転がっている。
それは、激戦の名残。静寂の中で、ただ冷たくその痕跡を主張していた。
ヴェイルは、沈黙を保つクライオウルフの亡骸にかがみこみ、戦利品を一つひとつ拾い集めていた。
氷のように冷たい毛皮、刃のように硬質な羽根。
震える指先はそのひとつひとつを慎重に選び取っていくが、負傷した足が痛みを訴えるたび、彼の顔は苦悶に歪んだ。
「全部……あいつがやった。俺は、何もしてない。ただの足手まといだ。……なんで……?」
掠れた声が吐き出される。
彼の手が、アリニアが最後に止めを刺した狼の近くに落ちていた短剣を拾い上げた。
刃にはまだ熱が残っていた。
それを見つめる彼の顔に映るのは、疲労と悔しさ、そして……惨めさ。
「でも……このままじゃダメだ。俺が変わらなきゃ……!」
そう呟いたその言葉には、決意の色が宿っていた。
アリニアはその様子を、無言のまま見つめていた。
腕を組み、無表情で立ち尽くすその姿。
ぴくりと動く耳と、ゆるやかに揺れる尻尾が、彼女が常に警戒を怠っていないことを示していた。
やがて、彼女は毛皮のマントを整え、くるりと踵を返す。
何事もなかったかのように、静かに、滑るような足取りで、洞窟へと歩き出した。
後ろを歩くヴェイルの足取りは重く、痛む足を引きずりながら、遅れがちに彼女の後を追った。
洞窟に戻ると、アリニアは火をくべた。
くすぶっていた炎が少しずつ勢いを増し、やがて心地よい暖かさで空間を満たしていく。
彼女は炎のそばに腰を下ろし、無言で火を見つめる。
揺らめく橙の光がその横顔を照らし、静かな陰影を描き出していた。
尻尾が、火のぬくもりに誘われるように、穏やかに揺れている。
その様子は、戦場で見せた鋭さからは想像もつかないほど、落ち着いていた。
ヴェイルは洞窟の入り口で立ち尽くしていた。
岩だらけの地面を見つめ、両手は固く握られている。
関節が白くなるほど、強く、強く。
息を吸って、吐く。それだけのことすら重く、苦しい。
心の中で、何かが渦を巻いていた。
《このままじゃ、ダメだ。ちゃんと伝えなきゃ。でも……もし、断られたら……?》
頭の中で、いくつもの可能性が不安となってよぎる。
そのときだった。
アリニアが、わずかに首を傾ける。
彼女の視線は炎に向けられたまま。けれど、その声はヴェイルに向けて放たれていた。
「いつまで突っ立ってるの。……夜が明けちゃうわよ」
その声は、冷たくも、穏やかでもない。
感情のない、平坦な響き。
ただ、事実を述べているだけのような口調だった。
ヴェイルは、まだ動けなかった。
荒く、短い息遣い。
肩が震えていた。
それは、寒さのせいだけではない。
胸の奥で、何かが今にも爆発しそうなほど、膨れ上がっていたからだった。
(……ありがとう、アリニア)
(でも、もうこのままじゃいられない)
(強くなりたい。あんたみたいに……強く、なりたいんだ)
彼は、唇をかみしめた。
その一歩が、これまでで最も勇気の要るものだった。
言え。今しかない。……怖くなる前に。
ヴェイルは心の中で自らを奮い立たせ、ぐっと拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、皮膚に鈍い痛みが走る。
「……教えてくれ」
かすかな声だった。震えていた。
だが、そこには確かな決意が宿っていた。
アリニアがゆっくりと顔を向ける。
青い瞳が、炎の揺らめきを映しながら、まっすぐに彼を見据えた。
尾の動きが止まり、目元がわずかに細められる。
その視線には、ほんの一瞬、驚きの色が浮かんでいた。
「……何ですって?」
平坦で、感情を感じさせない声だった。
ヴェイルは顔を上げた。
その視線が、アリニアの瞳と交差する。
揺れるまなざし。
けれど、その奥には揺るがぬ覚悟が宿っていた。
脚は震えていた。今にも崩れ落ちそうだった。
それでも、彼は一歩も退かなかった。
「教えてくれ! 魔法を! 戦い方を! 俺に……力を……!」
その叫びは、洞窟の奥にまで響き渡った。
言葉には、理屈も飾りもなかった。
ただ、必死さだけが剥き出しになっていた。
呼吸は荒れ、両手は明らかに震えていた。
だが、彼は視線を逸らさなかった。
「もう……弱いままでいたくないんだ。二度と……!」
かすれた声で、ヴェイルは呟いた。
唇が震え、涙が今にもこぼれそうになる。
それでも、彼はそれを必死にこらえていた。
弱さを、見せたくなかった。
その顔に刻まれていたのは、深い羞恥と、抑えきれない怒り――
そして、燃え上がるような渇望。
アリニアは、彼をじっと見つめていた。
表情はほとんど動かず、目も逸らさない。
まるで、その言葉の一つ一つを、心の奥で計りにかけているかのようだった。
やがて、静寂を破るように、鋭く冷たい声が放たれた。
「一度負けただけで、泣き言?」
その言葉は、鋭利な刃のように、ヴェイルの胸に突き刺さった。
「……泣いてなんか、ない……っ」
ヴェイルは唖然とし、口ごもる。
すぐに言い返すことはできなかった。
呼吸が早くなり、胸の奥に湧き上がる怒りと羞恥が、理性を焼き尽くす。
「俺は……死んでたんだ! 見てただろ、あの時! あんたがいなきゃ、もう終わってたんだよ!」
叫びが、洞窟の空気を震わせた。
炎が揺れ、壁に映る影が乱れる。
まるで、彼の心の激しさをそのまま反映しているかのようだった。
息は乱れ、肩が上下し、全身が微かに震えていた。
その震えは、単なる疲労ではない。
――恐怖、怒り、そして……ほんのわずかな絶望。
「こんなままじゃ、終われない……終わりたくないんだ……っ」
ヴェイルは低く、唸るように呟いた。
その目は、まだ揺れていたが、炎のように強く燃えていた。
アリニアは依然、火のそばに座ったまま動かない。
青い目が、じっとヴェイルを捉えていた。
その視線には、感情がないように見えた。
嘲笑も、同情も、拒絶も――
ただ、冷たい鋭さだけが残っていた。
だがその奥で、何かが静かに揺れていた。
本気……なのね?
そう思いながら、アリニアはヴェイルの姿を観察していた。
(……ふむ。まあ、悪くはない。でも――まだ足りない)
あの目――ようやく自分の意志を持ち始めた瞳。
だが、それだけでは生き残れない。
(この世界で生きるってことは、痛みを受け入れること。限界の先に踏み込む覚悟がなければ……死ぬだけ)
彼女は小さく息を吐き、瞼を閉じた。
沈黙の中、内なる言葉を吟味するように、わずかに間を置く。
(意志はある。でも、それだけじゃ駄目。……助けるってことは、甘やかすことじゃない)
(全部を懸けさせる。それが条件)
アリニアは静かに立ち上がった。
乾いた岩の床に、ブーツの底がかすかに沈み込む。
その動きには、一切の無駄がなかった。
しなやかで、鋭く、野生の獣のような精密さ。
「魔法は……おもちゃじゃないわよ」
落ち着いた声。
だが、鋭さを帯びたその言葉は、空気を切り裂くようだった。
「意志だけでどうにかなるようなものじゃない。……それは“力”よ。支配するには、対価がいる」
一歩、また一歩と彼女は歩を進める。
その視線は、氷のように冷たく、ヴェイルの瞳を貫いていた。
彼の前に立ち止まると、身をかがめる。
視線が同じ高さに並び、その蒼い瞳が、まっすぐ彼を見据えた。
「私は甘くないわよ。後悔しても、やめさせたりはしない。地獄の底まで、付き合ってもらう」
その声音には、まるで誓約のような重みがあった。
試すようなものではない。
本気でなければ、その先にあるのは――ただの死。
沈黙が再び訪れた。
だがそれは、さっきまでとは違う。
今、この空間に張りつめているのは、選択の瞬間――
一歩踏み出すか、怯んで引き返すか。
アリニアはもう一歩踏み込んだ。
顔の距離はわずかに縮まり、ヴェイルの視界には、彼女の瞳の奥までがはっきりと映っていた。
揺れひとつない、澄んだ蒼。
そこには、冷たく、だが揺るぎない意志があった。
炎の揺らめきが、その横顔を照らし、影を生む。
強さと冷酷さを併せ持つ顔に、決意の刻印が浮かび上がる。
「……四日間よ。それだけ」
その言葉は、氷の刃のように静かに突き刺さった。
「それ以上は、待たない。私には、ここに長居している時間なんてないの」
その言葉は、冷たく、容赦なかった。
突きつけられた刃のように――四日。たったの、四日間。
ヴェイルは微動だにせず、その場に立ち尽くしていた。
拳は固く握られたまま。
乱れていた呼吸が、ゆっくりと静まり始める。
今や、彼の手はもう震えていなかった。
視線も逸らさない。
アリニアの冷たい眼差しを、真っ直ぐに受け止めていた。
「……四日あれば、十分だ」
低く、だがはっきりと。
口からこぼれたその言葉には、揺るがぬ覚悟が込められていた。
再び、沈黙。
互いの視線が交差し、言葉を超えた意志がぶつかり合う。
その場の空気が張り詰め、まるで何かが弾けそうな緊迫感に満ちていた。
アリニアの口元が、かすかに動いた。
――それは、ほんの一瞬の笑み。
満足ではない。ただの確認。
彼の覚悟を認めた、わずかな反応。
彼女は何も言わず、静かに踵を返す。
そして、火のそばへと戻っていった。
その動きは、相変わらず滑らかで、計算されたように無駄がなかった。
彼女が腰を下ろすと、炎の揺らめきがその横顔を照らし出す。
半分閉じられたまぶた越しに、じっと火を見つめる。
その表情は静かで、どこか遠くを見ているようでもあった。
だが、その沈黙の奥では、何かを量るように考えている気配があった。
――ヴェイルがこの試練を乗り越えられるかどうか。
一方、ヴェイルは座らなかった。
炎を見つめながら、立ち尽くしていた。
まだ疲労は色濃く残っていたが、その姿勢には、さっきまでなかった“何か”があった。
恐怖も、迷いも、もうそこにはなかった。
代わりに宿っていたのは――
燃えるような、決意。
「四日間……やってみせる。何があっても」
彼は、誰に向けるでもなく、そう呟いた。
ぱち、と薪がはぜる音が響く。
洞窟の中を、炎の音と、外の風が吹き抜ける音が包む。
それはまるで、ここに生まれた約束を見守る証人のように――
静かに、ずっと耳元でささやいていた。