第10章:魔法の顕現
焚き火は静かに燃え続けていた。
その温もりが洞窟を包み、外の冷たさとは別世界のようだった。
岩肌に揺れる炎の影が、無言の舞を繰り返す。
ヴェイルは岩に背を預け、炎を見つめていた。
その視線はどこか遠く、燃え上がる炎の揺らぎに意識を吸い込まれていた。
包帯で固定された脚は、前に伸ばされたまま動かない。
彼は静かに、体力の回復を図っていた。
アリニアは焚き火のそばに座っていたが、ふいに立ち上がった。
その動作はまるで獣のようにしなやかで、音もなく地面を歩いた。
彼女の視線は、岩壁に沿って流れる水滴を追っていた。
ヴェイルは火から目を離し、アリニアの行動に目を向けた。
《……なにしてるんだ?》
彼の心に小さな好奇心が芽生える。
アリニアは静かに手を上げ、開いたままの掌を岩壁に向けた。
目を閉じ、微かに集中する。
すると、水滴が震え始めた。
今まで一定のリズムで垂れていたそれらが、まるで引き寄せられるように宙に浮かび上がる。
そして、ゆっくりと一つにまとまり、空中に小さな水球を形成した。
炎の光を受けて、水球はきらめきながら揺れていた。
ヴェイルは言葉を失った。
その目は見開かれ、脳は状況を理解しようと必死だった。
「……ありえない……」
彼は呟いた。驚きと興奮が混じった声だった。
痛みも忘れて、彼は少し身体を起こす。
視線は水球に釘付けだった。
「……今の、どうやったんだ……!?」
思わず声が上ずる。
アリニアは頭を少し傾け、口元に微かな笑みを浮かべた。
手の中に水球を浮かべたまま、ヴェイルを見た。
「私は水の魔法に適性があるの。完璧には使えないけど、まあ、これくらいなら」
その言葉には落ち着きがあった。
だが、その中にはほのかな誇りがにじんでいた。
彼女は手首を軽く動かし、水球をくるりと回す。
その動作には、洗練された簡潔さがあった。
《……魔法だ……本当に……魔法を操ってる……》
ヴェイルの胸は高鳴った。
アリニアは水球を腰の革製の水筒へと誘導し、音も立てずに中へ流し込んだ。
そして蓋を閉め、再びヴェイルへと視線を向けた。
その顔に浮かぶ驚きと――少しの羨望を、彼女は見逃さなかった。
だが、何も言わずに、目だけがわずかに笑った。
「やってみる?」
彼女の言葉は静かだった。
だがその声には、どこか挑発的な響きが混ざっていた。
再び沈黙が訪れた。
ヴェイルは足元の水たまりを見つめ、そしてアリニアへと視線を戻した。
警戒の色は少しずつ薄れ、代わりに好奇心の火が灯っていた。
《……本当にできるのか……? いや、やってみたい……》
その胸の奥に、静かな熱が灯っていた。
「……やってみるって……俺に? でも、そんなの……できるかどうかすら分からない……」
ヴェイルは躊躇いながら答えた。
その声には戸惑いと不安がにじんでいた。
アリニアは腕を組み、口元にかすかな笑みを浮かべた。
その表情は、彼の動揺を楽しんでいるようだったが、それは意地悪ではなく、彼の反応を見守るような穏やかさだった。
「やってみなければ、何も分からないわ。さあ、来て」
その声は優しく、だが挑戦を含んでいた。
ヴェイルは再び視線を水たまりとアリニアの間で揺らした。
彼女の静かな自信は、どこか癇に障るほど落ち着いていて……同時に惹かれるものがあった。
彼は小さく息を吐き、岩壁に手をついて立ち上がった。
脚はまだ硬く、動くたびに痛みが走る。
ヴェイルは歯を食いしばり、表情にそれを出さぬよう堪えた。
だが、どれほど痛くとも、彼の歩みは止まらなかった。
《……思ったより、根性あるじゃない》
アリニアはそう思いながら、じっと彼を見ていた。
彼の一歩一歩に、耳がわずかに動き、目がその動きを追っていた。
まるで、試すように、測るように。
ヴェイルは水たまりの前で立ち止まり、身をかがめた。
手をそっと水面の上に差し出す。
揺れる炎の光を受けて、水の表面がゆらりと揺れていた。
だが、その静けさにはどこか神秘的な緊張感があった。
《……こんなのおかしい。狼女に、魔法……夢でも見てるんじゃないのか……?》
彼の思考は混乱し、現実感を見失いかけていた。
喉がごくりと鳴る。
混乱と理性が拮抗しながら、彼は手をそのまま保っていた。
「水の流れに意識を向けて。
感じて。水は生きているの。止まって見えても、流れている。
それを、肌の下で、心で感じるの」
アリニアの声は静かで、どこか歌うようだった。
だが、その言葉には明確な導きがあり、揺るぎない自信があった。
洞窟の中が、しんと静まり返った。
火の音だけが、時折その沈黙を割る。
ヴェイルは、さらに指先を水面に近づけた。
手はわずかに震えていた。疲労と緊張のせいだった。
「……感じろって……どうやって……? 意味わかんない……」
ヴェイルは目を閉じた。アリニアの視線から逃れるように。
呼吸は最初こそ荒かったが、次第に落ち着いていく。
洞窟の空気が、重くなったように感じた。
まるで、そこにいる誰もが――息を潜めて、何かを待っていた。
《……とにかく……やってみるだけ……
あいつにできて、俺にできないとは限らない……》
そんな、かすかな決意が、彼の心に灯った。
彼の腕がわずかに緊張する。
何も見えない、何も聞こえない――
だが、彼は探っていた。
見えない何かを、初めて手繰り寄せようとしていた。
アリニアは微動だにせず、じっと彼を見守っていた。
《……ここが分かれ目。今ここで諦めたら、何も進まないわ》
アリニアの瞳には静かな観察と、わずかな緊張が宿っていた。
ヴェイルは眉をひそめた。
頭の中でぐるぐると回る思考が、自分自身を苛立たせる。
夢か幻か――そんなことを考え続けるほど、現実感が遠ざかっていく気がした。
彼は目を閉じ、指の力を抜いた。
深く息を吸い込み、吐く。
思考の波を静めるように、自分に言い聞かせる。
「……やめろ。考えるな。もしこれが夢なら……夢の中で、現実のように動いてやる」
ヴェイルの声は静かだったが、そこには確かな決意があった。
洞窟の静けさが、彼の心と重なっていく。
炎の温もりが背を優しく押し、彼の不安を少しずつ溶かしていく。
「……感じろ……水を……」
彼は小さく呟いた。
呼吸がさらに落ち着き、身体から余分な緊張が抜けていく。
彼は、目の前の水だけに意識を集中させた。
すると――
水面が、ふるりと震えた。
小さな波紋が、中心から静かに広がっていく。
まるで彼の存在に応じるかのように。
その瞬間、彼の指先に、かすかな震動が走った。
不思議な感覚だった。未知だが、不快ではない。
むしろ、心の奥にじわりと染み込んでくるような感覚。
「……っ……」
指が、わずかに動いた。
すると、水の波紋が、それに呼応するように再び揺れた。
「……やるじゃない……才能あるわね」
アリニアの声は低く、だが驚きの色を含んでいた。
思わず、ヴェイルは片目を開けた。
そこには、明らかに揺れている水面があった。
「……俺が……動かしたのか……?」
彼は呟いた。
その声には、信じられないという想いと、畏れにも似た驚きが込められていた。
「……すごい……夢じゃない……本当に、動いたんだ……」
彼の目は、水に釘付けだった。
アリニアはその様子をじっと見つめていた。
耳が前に傾き、目にはわずかな笑みが浮かぶ。
だが、それ以上は何も言わなかった。
ヴェイルに、この発見をじっくり味わわせるために。
彼はふいに手を引いた。
まるで熱いものに触れたかのように。
息が乱れ、目の前の水面を見つめたまま、彼は震える指先を見た。
《……本当に……動いたんだ……俺が……》
胸の内で、衝撃が静かに渦巻いていた。
ヴェイルの目は大きく開かれていた。
その瞳には混乱と驚き、そしてどこかに秘めた感動が浮かんでいた。
「……偶然なんかじゃない。
あんたの身体が反応したのよ。
あれはマナの流れ。知らなくても、それは確かに存在してる」
アリニアの声は静かだったが、どこか断言するような力強さがあった。
その言葉には疑いの余地がなく、理屈よりも確信が先に来ていた。
彼女は音もなく近づき、焚き火の明かりを背にして膝をついた。
その姿は静かだが、芯のある集中を纏っていた。
「……あれを感じたでしょ? 皮膚の下、身体の奥を走るような感覚。
あれがマナよ。
人間なら誰でも持ってるけど、それを自然に感じられる者は少ない」
彼女は指先で水たまりを指し示した。
目はヴェイルを真っ直ぐに見つめていた。
ヴェイルはその場から動けなかった。
彼の脳内には「マナ」「流れ」といった言葉が、何度も何度も反響していた。
「……マナ……それが……さっきの感覚……?
俺の中に、最初から……?」
その言葉は、どこか自分に問うような響きを含んでいた。
彼は一度目を閉じ、意識を整えようとした。
だが、その時感じた奇妙な一体感――水との繋がり――それは頭から離れなかった。
アリニアはわずかに首を傾け、耳が微かに動いた。
その姿は、まるで彼の心の変化を見透かすかのようだった。
「……分かるでしょ? これは理屈じゃない。
『感じる』ことから始まるの。
そして……あんたは、もう一歩踏み出してる」
彼女の声はいつになく柔らかく、どこか興味深げだった。
ヴェイルはゆっくりと顔を上げた。
未だ動揺していたが、その目には新たな光が宿っていた。
水を操る――見えない力を感じる――
信じがたい出来事の中で、ただ一つ確かなことがあった。
それは、自分が「何か」を掴んだという感覚だった。
「……もし、本当にこれが俺にできるなら……
俺は……この世界で……何ができるんだ……?」
彼の声には、新たな探求の芽が宿っていた。
答えは出ない。だが、問いが生まれた。
それだけで、彼の中の何かが変わり始めていた。
アリニアは音もなく立ち上がった。
服についた砂を払い、背を向ける。
その動きには、無駄がなく、正確で、余裕すら感じさせた。
唇の端に、かすかな笑みが浮かび――すぐに消えた。
「……休みなさい、人間。
今のは、ただの一歩にすぎない」
背を向けたまま、アリニアはそう言った。
その声は静かだったが、不思議と心に残る。
励ましと警告、両方を含んだその言葉は、ヴェイルの胸に深く刻まれた。
「……一歩目、か……
信じられない。まさか、こんなことが……」
ヴェイルは、息を呑みながら呟いた。
その目は、未だ水面を見つめていた。
アリニアは一瞬立ち止まり、肩越しに彼を見た。
その青い瞳は、静かだが鋭さを宿していた。
「可能かどうかじゃない。
やるかどうかよ。
最後までやりきる意志があるなら、何だってできる」
その声は穏やかだったが、迷いはなかった。
彼女は音もなく焚き火のそばに戻り、再び腰を下ろした。
炎の光に照らされたその姿は、どこか神秘的な雰囲気をまとっていた。
焚き火の音が洞窟に優しく響く。
その揺れる光が、岩壁に影を落とし続ける。
水面は再び静まり返り、波紋の痕跡は消えていた。
だが、ヴェイルの心は動いていた。
彼は視線を逸らせなかった。
静かな水に映る自分を見ながら、心の奥が熱を帯びていくのを感じた。
《……できる。俺には、できる。
もし彼女の言葉が本当なら……もっと、ずっとできることがある》
その思いは、胸の奥から湧き上がってきた。
彼はゆっくりと拳を握った。
指がじわりと力を帯びていく。
深く息を吸い、焚き火の温もりを体に染み込ませる。
その熱は、肉体だけでなく、心にも届いていた。
炎の音、遠くから吹き込む風の音。
その静かなハーモニーの中、ヴェイルはただ生きていることを実感していた。
そして――
この世界に来て、初めて――
彼の中に「希望」が芽生えた。
かすかで、不確かで、消えそうだったが――
確かにそこに在った。