悦楽
駅前。雑多な人の流れを眺めながら、咲は剛美を待っていた。待ち合わせ時間よりも少し早く到着したのは、決して剛美とのデートを楽しみにしていたからではない。約束を交わした時の剛美が、いつもとは違う様子だった事が気掛かりだった。あれはまるで、橋の下で垣間見えた剛美の弱さのようであった。
進行方向にしか目を向けていない人々の視線が、通り過ぎて行く存在に振り返っていく。それは美しく、巨大で、別世界の人間のようであった。彼女の存在を目にした人々が立ち止まって行きつく先を見守る中、 駅前で待つ咲の前で彼女は足を止めた。
「咲さん」
咲は驚愕した。今目の前にいる人物は剛美である。しかし、いつも目にする剛美ではなかった。そよ風に揺られる軽やかな髪。長袖の黒いワンピース。ほんの少しの化粧と、唇に淡いピンクのリップ。そのどれもに派手さは無くとも、彼女自身のポテンシャルが見事に現れた美しさ。まるで絵画のような芸術であった。
「私のお願いを叶えてくれたようですね。今日の咲さんはいつも以上に可愛らしく、お綺麗です」
「……あっそ」
「それでは、今日のデートコースへご案内いたします」
剛美は咲の手を取ると、駅の中へ入っていった。切符を買い、電車を待つ間も、周囲の視線の所為で落ち着く事は無かった。
電車に乗り、二人は向かい合わせの席に座ると、流れる景色を車窓から眺めた。特に珍しいものも無い景色を眺める途中、たまに二人は目を合わせ、また景色に視線を向けた。
景色が緑一色に染められた頃、長いトンネルに入った。薄暗い闇に包まれ、すぐ目の前にいる相手の姿もハッキリと見えない。多分、二人は見つめ合っていたのだろう。
「それで何処へ行くのさ」
「何の面白みも無い素敵な場所。私にとって、小さな思い出の場所です」
トンネルを抜けると、車窓から差し込む眩しい光に咲は目をやられた。ボンヤリとした視界が晴れると、光に照らされた剛美の姿があった。それは一目で綺麗と思い浮かぶ姿であったが、やがてどこか寂しさを覚える悲しさがあった。
目的地に辿り着いた二人。無人駅を出ると、そこから先には何も無い。かつてあったと思われる家や標識は緑と化し、砂が通り道を作っていた。ここでは人の文明が過去のものとなっていた。
「ここは?」
「私の故郷です」
慣れた足取りで進む剛美を咲は追いかけていく。緑と化した家の中は小さな庭園となっており、かろうじて原形を留めている棚にはツタが絡まっていた。
「ここは皆で集まる場所。そっちはお料理をする場所。ここを出て右側に進んだ所には、お風呂場とトイレがあって、向かい側には広い部屋。外には少しのお庭があって、生えてある大きな木にブランコを吊り下げて……ここで私は過ごすはずだった。私の家族は家族だった存在になり、見ず知らずの親が私を娘と呼んだ。まだ小さかった私は、それでも良かったんです」
家を出た二人は少し離れた場所で広がる砂浜に来た。砂浜の先には果てしなく広がる海があり、波打ち際で白い砂を黒く染めていく。
「私は両親に言われた通り、誰よりも強くなりました。元々才能があった私は、同年代や年上の方達よりも体格も才能も優れていて、どの大会でも優勝しました。両親は自慢の娘と語り、周囲の人物も私を羨望の眼差しで祝福していました。ただ、選手からは良い目では見られませんでした。自慢と語るのは味方だからであり、羨望の眼差しを向けるのは無関係だからであり、敵として見る選手からは怪物として恐れられた。何十、何百という敵を倒してきた私は、遂に戦う事を辞めました。勝利の喜びが薄れたのではなく、敵だった人が壊れていくのを見ていられなくなったから。そうして私は家を出て、ここに戻ってきました……でも、戻ってくるのがあまりにも遅かった。家族も家も無くし、私は独りになったんです」
潮の香りを乗せた風が剛美の肌を撫で、通り過ぎざまに髪を揺らす。今の剛美は、小柄な咲であっても倒せる程に華奢に見えた。
「私は普通を知りません。みんなが美味しいと評判の料理が美味しそうに見えない。みんなが楽しいと言う遊びに楽しさを見出せない。中身の無い話で笑い合う彼ら彼女らが、まるで映画の中みたいに見えました。私は普通を知りません。普通を知ろうとしなかった。それで、いいと思った」
剛美は咲の両手を握ると、砂浜に膝を立てて目線を低くし、咲の瞳を見つめた。
「でも、アナタと出逢った。私とは裏腹な存在であるアナタは、可愛らしくて、眩しくて、とても遠い存在に思えた。私がアナタに近付こうとすれば、アナタは離れ、追いかけても追いかけても、全然近付けない。こうしてアナタの手を握り、目を合わせていても、私にはアナタを遠く感じてならない」
夕陽を誘い込む海が波の音を歌う。恐ろしく、優しく、小さな音で、大きく歌う。二面性を持つ海の歌は、まるで剛美のようであった。
「……随分と長い身の上話。それにちょっとロマンチック過ぎる。キザってやつね」
「つまらなかったですか?」
「ええ。凄くつまらない。それに、くだらないよ。臆病なんだね、意外と」
「臆病? 私が?」
「だってそうじゃん。こんなに近い距離にいるのに遠く感じるなんて、それって逃げてるだけじゃん。アタシに近付くのが怖いんでしょ」
「そんな事ありません! 私はアナタを近くで感じたいと、本当に思っています!」
「ほら。そうやって不安を思う。自分が相応しくないと思ってるんでしょ?」
「……今日の咲さんは、意地悪ですね」
「いつもの仕返し。それにアタシ気分が良いの。最初は怖かったアンタが、今は私がアンタを怖がらせている」
咲は剛美の手を振り払い、剛美の両肩を掴んで押し倒した。剛美の上に乗っかった咲は、不安気に表情を曇らせる剛美を見下ろす。その構図に、二人は興奮を覚え、同時に快楽を感じていた。