特訓その一
「特訓です!!!」
剛美は気合いの入った声で宣言した。その宣言に嘘偽りなく、剛美はもちろんの事、同じく特訓に参加した恋と咲も柔道着を着用していた。衣服だけでなく、この特訓の為に稽古場も貸し切っている。剛美の家は格闘家の家系故に、こういった稽古場をいくつも所有している。
軽い準備体操を済ませると、早速第一の特訓が始まった。
「最初の特訓は目です。まず咲さんの可愛らしさを十分に受け止められるようにします」
「余裕だな」
「言うは易く行うは難し。一見するとただ見て耐えるだけに思えますが、耐える事自体を無くす必要があります。ごく自然と、穏やかな川の流れのように、咲さんの可愛らしさを捉える」
「つまり、慣れだな。血と傷で汚れた手を見ても動揺しなくなるように」
「アナタ風に言えば、そうなるでしょうね。さて、早速始めましょう! 咲さん!」
横に並んで待ち構える二人。剛美は正座し、恋はあぐらをして、目の前に立つ咲をジッと見つめる。
咲は稽古場の壁に掛けられていた竹刀を一つ手に取ると、硬さと重さに興奮と恐怖を覚えた後、剛美の頭頂部目掛けて竹刀を振り下ろした。
竹の気持ちの良い音が稽古場に響き渡り、やがて元の静けさに戻ると、今度は妙な違和感が稽古場に立ち込めた。ズレが生じた歯車が回らないように、三人は静止していた。
(何故、私は竹刀で叩かれたのでしょうか?)
(なんで竹刀で叩かれたんだ?)
(どうして無反応なの?)
稽古場がもたらす緊張感からか、安易に口から言葉を出せずにいた。咲が【なんとなく】で始めた剛美への暴行は、誰も言葉を使わない所為で、難解な謎となって思考を駆け巡らせた。
言葉には重要な役割がある。ただコミュニケーションをとる為だけでなく、行動の説明も担う。例えば、相手が無言で手を差し出してきた所を想像してほしい。手の平の上には何も無く、ただジッとアナタに差し出されている。この場合、頭の中で選択肢が浮かぶが、その量は膨大であり、そしてその中に答えがあるとは限らない。この状況を解決する方法はたった一つ。相手が何を欲しているのかを聞く事。それにより答えを知り、それにより初めてやり取りが成立する。
ただ一言。答えを知ろうと言葉にして【聞く】だけで解決する。
しかし、不思議かな。人は難題を出された時、まず初めに自論を生み出す。咲は竹刀を振り上げると、もう一度剛美の頭頂部目掛けて竹刀を振り下ろした。
またも響き渡る竹の音。徐々に音が消え去ると、今度は三人同時に言葉を発した。
「何故?」
「どうして?」
「なんで?」
疑問詞を口にする三人。まるで答えになっていないようだが、その言葉のおかげで、大体理解した。
「つまり、あれですか。咲さんはこの特訓に納得がいってないんですね?」
「おぉ、凄い。よく分かったね。そうだよ、馬鹿だよアンタら」
「オレは違うだろ」
「いや、恋もノリノリだったじゃん。剛美と同程度の馬鹿だよ」
「では、そんな馬鹿二人に付き合ってくれる咲さんも同じお馬鹿さんですね!」
剛美は二人にボコボコにされた。剛美の異常な頑丈さ故に加減が分からず、気絶するまで二人は剛美をボコボコにした。
「アタシさ、暴力を振るう人の気持ちが今まで分かんなかったけどさ。気持ちいいんだね。何かを壊すのって」
「……咲。ちょっと竹刀を構えてくれ」
「え? いいけど」
恋に言われるがまま、咲は竹刀を構えた。正しい持ち方を知らぬ咲が竹刀を構えた姿は、まるで自転車の乗り方を学ぶ子供のような幼さがあった。
「どう?」
「……ほぉ」
「ほぉって。なにその反応?」
「気にするな。それじゃ、素振りしてみてくれ」
「いいけど……おりゃ!」
声を出して素振りをした咲は、その勢いを御する術無く、竹刀が地面に叩きつけられた。手の痺れから思わず竹刀を手放し、両手をパタパタと煽って痺れを和らげようとする。
その一部始終を見終えた恋の鼻から鼻血が流れた。
「え、大丈夫? 鼻血出てるよ?」
「問題ない」
「問題あるよ。だって鼻血出てるじゃん」
「よし次は―――」
「アンタはカメラマンか。さっきからアタシに要求してばっかじゃん」
「これは特訓だ。真面目にやってくれ」
「その特訓が既に不真面目ですけど」
「じゃあオレを絞め殺すつもりで抱きしめてくれ。堂々と正面から」
腕を広げて待ち構える恋。その表情は真剣そのものであったが、内心は欲に満ち溢れていた。咲は軽くため息を吐くと、竹刀を拾い上げて恋の目の前に立った。
この日、三度目の竹の音が響き渡った。