プロローグ
剛美の朝は早い。朝の五時に起きて、顔を洗って歯を磨くと、すぐに昼食のお弁当を作り、六時半頃に家を出る。七時前に咲の家に着き、身だしなみをチェックしてからチャイムを押す。そうして出てきた咲と一緒に通学路を歩く。
ここまでが剛美の朝のルーティンだ。例え雨が降ろうが、雪が降ろうが、このルーティンを崩す事はない。全ては、通い妻という二つ名を得る為に。
しかし、この日のルーティンには予期せぬ不純物が混じっていた。扉の前で咲が来るのを心待ちにする剛美。ゆっくりと扉が開くと、まだ寝ぼけ気味の咲と、そんな咲を包み込む恋の姿があった。
剛美と恋。二人の身長はほぼ同じであり、向かい合うと自然と目が合う。そして同じなのは、目と目が合った瞬間に覚えた感情もであった。
(なんで咲さんの家からコイツが!?)
(なぜ咲の家にコイツが!?)
朝の七時。雲一つない快晴の一部分、咲の家の上だけ暗雲が立ち込めた。二人から漏れ出す殺気によって、炎天下に見る景色のズレのように周囲の空間が歪む。ライオンと狼。どちらも鋭い牙を持ち、今か今かと喉を噛み千切ろうと睨み合う。
「……恋さん。どうしてアナタが咲さんの家から?」
「お前は何故ここに?」
「先に質問したのは私ですよ」
「お前が先に言え」
「まさか、咲さんに悪い事をしたのではないでしょうね?」
「……だったら、どうする?」
一触即発の雰囲気。次の瞬間にどちらが動いても、誰も驚きはしないだろう。二人は一度教室で軽く戦ったが、互いに相手の力に驚いていた。力と技を持ちながら、速さも兼ね備わった剛美。長い手足を鞭のようなしなやかさで振るい、その高身長からは想像もつかない柔らかさを持つ恋。互いに本気を出してはいなかったが、相手の強みを即座に見抜いていた。
だが、今回の場合は剛美に分がある。その理由は二人の距離。恋の手足から繰り出される打撃は剛美がマトモに防御を取らなければいけない程に破壊力があるが、至近距離となればその破壊力と打撃の頻度は劇的に落ちる。一方で剛美は至近距離でも光る技を豊富に覚えており、そのどれもが一発決まれば相手を不能にさせる力があった。
虫や鳥の音もない不気味な静寂。訪れるは骨と肉が砕ける音。血が約束された流れの中、第三者の一声が流れの果てにある結果を招いた。
「んん……まだねむい……」
寝ぼけた状態の咲の声は、とてもヘニャヘニャで、強い甘味があった。
次の瞬間、剛美と恋は鼻血を流した。脳は咲の声によって焼き焦がれ、足が震える。そこに欲望が入り込む隙は無く、ただひたすらに二人は咲に恐怖した。たった一声で、百の打撃に勝る咲の可愛さに。
すると、胡桃が咲を迎えにやってきた。最近はバイトの頻度も抑えた事もあって、時間と体力に余裕ができ、たまには友人と一緒に通学しようという選択肢が生まれていた。
「咲ちゃんおは―――」
咲の家の前に広がる惨劇を目にし、胡桃の手からカバンが滑り落ちた。呆然と立ち尽くす咲の足元には、剛美と恋が大量の血を流して倒れている。傍から見れば、殺人事件である。
時は流れて十二時。昼休みの昼食中、咲のグループは沈黙を貫いていた。剛美と恋は咲に怯え、咲は二人の様子を不審がり、いつもと変わらない様子の咲に胡桃は困惑していた。
「なんかあれだね。今日二人共ずっと静かだね。ようやく自覚出来たみたいで関心関心」
(静かになったじゃなくて、静かにさせたの間違いじゃ?)
「いいね、やっぱり。静かで何事も無い日常は。騒がしい時間は時折挟むから特別であって、常日頃から騒がしいのは耳障りにしかならない。ああ、窓の外から聴こえる鳥の音が今日はよく耳にするな」
「……あの、咲ちゃん」
「ん? どしたの胡桃?」
「咲ちゃんって着痩せするタイプだったりする?」
「なに~? アタシが本当は太ってるって言いたいわけ? 確かに最近ちょっと体重が増えたけど、別に太ってるってわけじゃないよ」
「だよね……じゃあ、魔法とか使える?」
「どしたのホントに」
「だってさ―――」
「私は弱い!!!」
急に叫んだ剛美。いつもの騒々しさの元凶の帰還に、咲はあからさまに機嫌が悪くなった。
「咲さん! 私、今朝の出来事で気付きました! いかに体が頑丈でも、精神的なダメージを防げない事を!」
「……」
「そうです! 特訓ですね!」
「アタシは何も言ってないよ」
「明日明後日の土日を利用し、咲さんの可愛さに耐性をつける特訓をします!」
「特訓、ね。フッ……オレもその特訓に付き合ってやろうじゃないか」
「恋さん……」
「あんな無様な姿は二度とごめんだ。だが勘違いするなよ? 特訓中にアンタが死にかけても、オレはアンタを助けやしない」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
まるで漫画にあるような主人公とライバルの掛け合い。同じ相手を好きなだけであって、似た者同士の二人は馬が合った。
勝手に盛り上がる二人と、またしても勝手に予定を入れられた不憫な咲。そんな三人のいつも通りの雰囲気に、胡桃は安堵のため息を吐いた。
「フフ。やっぱ二人はこうでなきゃね」
いつも通りに戻った四人。騒々しく、無茶苦茶で、退屈する余裕の無い四人の関係。
しかし、この時の四人は知る由もなかった。二日間におよぶ特訓で、四人の関係に変化の兆しが現れ、やがて来る冬の季節に終わりが訪れる事を。