第9話 二人の時間
部活終了のチャイムが鳴った。
最後の跳躍を終えて、ひかりは体についた砂を払い、楓と共にクールダウンに入る。
「少し日が長くなって来たね」
楓と一緒に体を伸ばしながら、ひかりは黄昏時を迎えた美しい空を見上げる。
楓は大きく開脚をして柔らかに体を倒しながら、ひかりの言葉に共感する。
「そうだね。だいぶ明るくなってきたよね。もうすぐ春って感じ」
「うん。そんな感じだね」
それから、二人はいつも通り、お互いを背中に担いで背筋を伸ばす。
先にひかりを担いだ楓が、背中に乗っているひかりに例のことを聞いた。
「ねえ、答辞の方はどう? 進んでる?」
「うん。誠司君と一緒に考えて、今日も清水先生にアドバイスもらった」
「へえ、順調そうじゃない」
そして交代して、今度はひかりが楓を担ぐ。
「そうだ、新君の合格発表っていつだっけ」
「来週の土曜日。ネットでもいいんだけど、まあ、私たちの行く大学だし、ちょっと二人で見に行ってくる」
「へえ、仲良しじゃない」
いつも誠司とのことを楓にからかわれているひかりは、ここでちょっとやり返しておいた。
楓を背中から下ろして、柔軟を終えた二人は、集合場所へと小走りに駆けていく。
ひかりの後を追う楓が、さっきの話の続きで、ささやかな言い訳を口にする。
「言っとくけど、そうゆうんじゃないから。あ、もし良かったらひかりも一緒に行かない?」
「私はパス。誠司君に誘われてるんだ」
「何よ。親友よりも、彼氏を取るわけ?」
「それは楓もでしょ」
練習の疲れも感じさせない感じで、二人はじゃれ合う。
中庭のベンチで待ってくれているお互いの特別な人に、自然と二人の足取りは軽くなるのだった。
先にバスを降りて行った楓に窓越しに手を振って、ゆっくりと再びバスが発車すると、ひかりの大好きな時間が始まる。
市バスの狭い二人掛けの席で、並んで座れるこの時間をひかりはいつも楽しみにしていた。
「今日はどうだった?」
誠司はいつもひかりの一日をこんな感じで聞いてくる。
二人とも、お互いがどんな一日を過ごしたのかを、こうして聞くのが好きだった。
「今日は部活でね……」
ありふれた、それほど変わり映えしないひかりの話を、誠司は楽しそうに聞く。
ひかりはただ嬉しくて、他愛のない話を夢中で話す。
そしてひかりも誠司の話に、心地よく耳を傾けるのだ。
今日あった他愛のない話の後に、誠司は少し表情を緩めた。
その僅かな表情をひかりは見逃さない。
「何か楽しいことでもあった?」
「うん。実は今日ね……」
誠司から、島田とゆきに関するドラマティックなイベントが起こっていたことを聞かされて、ひかりは吃驚して聞き返した。
「本当に? 学校の教室でそんなロマンスが?」
真面目に聞き返したひかりに、誠司は手を合わせて弁解した。
「ごめん、それって実は、どうやら俺の勘違いだったんだ。結局、あの描きかけの絵を清水先生に覗かれかけて、島田先生がそれを胡麻化そうとしていたところに、タイミング悪く居合わせただけだったみたい」
「もう、誠司君の馬鹿」
プッと膨れたひかりに、誠司はもう一度「ごめん」と謝る。
「でもその時は本気でいけないものを見てしまったと慌てたんだ。とにかく俺、速攻でその場から逃げ出してさ……」
「なんだかその時の誠司君の様子が目に浮かんじゃう。私も観たかったなー」
けっこう本気で口惜しがるひかりに、誠司は笑いながら少し補足する。
「俺の狼狽えっぷりも酷かっただろうけど、先生たちの狼狽えっぷりも負けず劣らず凄かったんだ。まあ、てんやわんやではあったけれど、あんな二人を見れて、ちょっと得した気分だよ。あ、そうだ、このことは、あの二人には内緒だよ」
「うん。わかってる」
楓と勇磨に知れたら、色々尾ひれがついて広まりかねない。卒業前に噂の置き土産を残して行くのは、先生たちに気の毒だ。
「じゃあ清水先生、私に答辞のアドバイスをしてくれて、そのまま美術室に向かったってことね」
「あ、そう言えばそうだったね。きっと少しの時間でも島田先生に会いに行きたかったんだろうね」
「なんだか清水先生の気持ち分かるな……」
ひかりは自分の誠司に対する気持ちを重ね合わせて、共感してしまった。
ひょっとすると、自分と清水先生は共通点が多いのではないだろうか。
「ところで、答辞の方は大丈夫?」
きっと気にしてくれていたのだろう。話題を変えた誠司に、ひかりは笑顔でこたえる。
「うん。今日、清水先生に最後に少しアドバイスもらったでしょ。帰って少し文脈を入れ替えたら完成です」
「リハーサルは?」
「えっと、お母さんにでも聞いてもらおうかな」
誰かに聞いてもらって正直な感想を聞かせてもらった方がいい。今日、清水先生から貰ったアドバイスの中に、そのことも含まれていた。
「もし良ければ、俺が聞くよ」
控えめにそう提案した誠司に、ひかりは少し驚いてしまう。
「いいの?」
「うん、でも、夕食前にお邪魔したら迷惑じゃないかな?」
「そんなことない。誠司君が来てくれるのお母さん心待ちにしてるんだから。あ、今日はお父さん出張でいないから、気を遣わなくって大丈夫だよ」
ひかりの父は娘のことが相当気になるらしく、二人がどのようなお付き合いをしているのか、遠回しではあるものの、誠司が家に来る度にとにかく追及してくる。そして、誠司は毎回ガチガチに緊張してしまうのだった。
「じゃ、じゃあ、少しお邪魔しようかな……」
「うん。来て」
方向指示器を点滅させたバスが停留所へと入る。
停車したバスから降りた二人は、どちらからともなく手を繋いだ。
「いこ」
ふわりと白い吐息を舞わせ、街灯が照らす住宅街の道を、ひかりは誠司の手を引くように歩きだした。