第8話 お取込み中?
「ふむ……」
午後の美術室。口元に手を当てて、しばらくじっと描きかけのキャンバスとにらめっこしていた美術教師の島田は、筆を持っていない方の手で頭をボリボリと掻きながら、大きなため息をついた。
「我ながら、才能のなさが痛いな……」
島田の前のキャンバスには、見事な紅葉を背景に白い服を着た女性の肖像画が描かれていた。
肖像画のモデルは清水ゆき。
昨年の秋、校庭の樹々に紅葉が見え始めた頃に、この学校に途中赴任してきた女性教師で、現在、島田のクラスの副担任をしている。
いつの間にかお互いに惹かれ合い恋に落ちてしまった二人は、告白を経て、今は特別な関係に発展していた。
教師同士の恋愛というのは珍しいものではないが、赴任早々ということもあって、ややこしくなることを避けるために、二人の関係は今のところ周囲には秘密にしていた。
「おっと」
島田はいつもの癖で胸ポケットの煙草に指を伸ばそうとして、今まだ生徒たちが授業中であったことを思い出し、苦笑しつつ踏みとどまった。そして、その指で適当に伸びた顎髭を撫でる。
この肖像画を描き始めたのは、燃える様な紅葉の下で告白してすぐだった。
あの日、学校の校庭であるのにも拘らず、ゆきを抱きしめてしまったことをまた思い出す。
衝動的に行動するのは若者の特権だと、島田は平素から感情のままに行動を起こしがちな生徒たちを見ていて思っていた。
しかし、何の因果か、かつてひたすらキャンバスに向かって心の内を描いていた教え子と同じことを、いま自分もしている。
若いな……。
かつて島田は、ひたむきにキャンバスに向かう少年をそういった目で見ていた。
そんな目で客観視しつつも、島田はどこか青臭い真っ直ぐなその少年の姿に惹きつけられ、目を離すことが出来ずにいた。
何故そこまでひたむきになれるのか。
その答は少年の描いていたキャンバスの中に詰まっていた。
心にある想いの、ありのままを描いてしまうその少年に、島田は教師と生徒という線引きを越えて共感し、どこかで憧れを抱いていた。
そして今、あの少年のように、どうしても描かずにいられないものと出会って、島田は自分の心に戸惑いつつも筆を執った。
そして、あの少年がどういった気持ちでキャンバスに向かっていたのかを、島田は身をもって知ったのだった。
「今になって、お前の気持ちを味わうとはな……」
島田の描いた清水ゆきの肖像画は、恐らく、その絵を見た人の多くが、賛辞を贈るような出来栄えだった。
しかし、いくら上手く描けていようとも、まだその絵は島田の中にある清水ゆきではなかった。
絵を描くものはそこにあるものをただ描く訳ではない。自分の見えている世界を通して、それをどう感じているかを表現しようとするのだ。
高木誠司は一年以上もの時間をかけて、彼の中にある時任ひかりを描き切った。
そこには少年の持つ思いの全てが込められており、普通なら絶対に可視化することの出来ない心の中を、あの日、美術室に駆け込んできた少女に見せたのだ。
島田はかつてそんな奇跡を目の当たりにし、心を描いたキャンバスに、運命を切り拓いていく力があることを知った。
「ほんと、大した奴だよ」
かつてこの場所で、キャンバスに向かっていた少年の背中を思い出しながら、島田はまた描きかけのキャンバスに向き合った。
ひかりから答辞に関する二度目の相談を受けて、一時間程度、空き教室でアドバイスをしていた清水ゆきは、職員室に入ろうとして、そのまま踵を返した。
「危ない危ない。前田先生だけだったわ」
ゆきの向かいに座る体育教師の前田を、ゆきはかなり苦手にしていた。
と、いうのは単純に前田がゆきに好意を持っており、二人きりになれる機会をいつも狙っていたからだった。
すでにゆきは島田と交際しているので、前田の行動は全くの徒労であるのだが、二人の交際を秘密にしているため、まだ脈はあると思い込んでいる前田の進撃は進行形のままなのだ。
元々前田のことが全くタイプではないうえ、前述のとおりしつこいので、はぐらかすのも疲れたゆきは、可能な限り予防線を張り、二人きりにならないよう気を付けていた。
「そうだ、美術室に行ってみよ」
授業がないのにも拘らず、職員室にいなかった島田はきっとあそこに違いない。
学校では恋人同士であることを隠すために、担任と副担任という関係を徹底しているゆきだが、このところ予定が合わず、休日に会えないことが続いていたので、覗きに行くことにしたのだった。
「もうあと十分か」
腕時計を見ると、授業終了までそんなにないことが分かった。
放課後になれば、美術室に生徒が集まって来る。それまで少しお喋りしていてもいいだろう。
渡り廊下を渡って階段を上がり、三階の美術室の前まで来たゆきは、戸にある小窓から中を覗き込んだ。
「あれ?」
教室の奥に、珍しくキャンバスに向かっている島田の姿を見つけて、そう言えば絵を描いてる姿を見るのは初めてだと気付いた。
ゆきはちょっとした悪戯心で、戸を勢いよく引いて声を掛けた。
「島田せんせ」
「わーっ!」
それはそれは見事に飛び上がった島田に、ゆきは笑いをこらえきれずに吹き出した。
「そ、そんなに吃驚しなくても、別に悪いことしてるわけじゃないですよね」
「い、いや、お恥ずかしい。ちょっと集中してたもんで」
「何を描いてらしたんですか?」
無邪気にゆきがキャンバスを覗きに行こうとすると、すかさず島田は筆を置いて、ゆきの前までサササと寄って来た。
「えっと、どうされたんですか?」
「いや、その……」
あまりに不自然な島田の行動に、ゆきは首を傾げる。
「いやあ、もうすぐ卒業式だなー。清水先生は教師になって初めての卒業式ですよねー」
「はあ、まあそうですけど」
「えっと、式に着る服はもう決めましたか?」
「はい。もう用意してあります」
「抜かりナシってやつですな」
どう見ても不自然だ。ゆきは島田が何か隠し事をしていると簡単に看破した。
「それで、何をお描きになってらしたんですか」
「いやあ、大したもんじゃないんです」
「じゃあ、拝見させて頂いてもいいですよね」
「ちょ、ちょっと待ってください」
何故か動揺している様子の島田が、ゆきの肩をいきなり両手で掴んだ。
「あの、島田先生……」
島田の顔がかなり近くにあることを変に意識してしまい、ゆきは鼓動が早くなるのを感じてしまった。
「清水先生、少し、落ち着いて……」
「いけません。学校の教室で……」
何だか成り行きで、とってもいけない感じになりつつあったその時……。
キーンコーン……。
終業のベルが鳴ったことで、ゆきはハッと我に返った。
「ほ、放課後になりましたね」
「はい。しばらくしたら、美術部の生徒がポツポツやって来るはずです……」
何故か赤面してしまった二人が、なんとなく開いたままの入り口に目を向けた時……。
「あ……」
言葉ならぬ声を発したのは二人同時だった。
そこには、目にしたものに対する動揺を全身で表現するかのようなポーズをとった誠司がいた。そして、驚嘆した顔のまま、誠司はスーッと戸を閉めていく。
「ご、ごゆっくり……」
そのまま立ち去ろうとした誠司を、ゆきはすかさず追いかけた。
廊下で捉まえた誠司を、とにかくゆきは引き留める。
「待って、高木君。勘違いだから。そんなんじゃないから」
「し、失礼しました。まさかお取込み中だったとは思いませんでしたので……」
「いや、違うから。そうゆうんじゃないんだって。お願いだから想像の羽をそっちにはばたかせないで」
それから必死で誤解を解いて、ゆきは誠司を美術室に連れ帰った。そして、教室にあったはずのイーゼルとキャンバスは、どこにもなくなっていた。