第8話 さようなら美術部
黒板の絵の制作を終えて、誠司は教室を出た。
結局、時間いっぱいまで使って、三年二組の作品は出来上がった。
最後の大きな仕事をやり終えた誠司は、放課後の美術室へと向かう。
三年生の部活は今日で最後。ひかりも学校のグラウンドでの練習は今日の放課後で終了し、卒業式の後は楓たちと共に、週に何度か自主的に市営のグラウンドを借りて練習を続ける。
三年間の高校生活の中で、たくさんの時間を過ごして来た部活動の卒業式。今日はそう言ってもいい日なのだろう。
誠司が美術室の戸を開けると、もうそこには田丸悦子の姿があった。
入り口を入ってすぐの左手に、セッティングを終えた二つのイーゼルが並んでいる。
どうやら誠司の分のセッティングを先に来た悦子が終わらせてくれていたようだ。
「お疲れ様です。先輩」
「お疲れさま。セッティングしてくれてたんだね」
「はい。先輩には今日中に描きかけの作品を仕上げてもらわないとですから」
キャンバスにある誠司の描きかけの油彩画には、美しい茜色の空が窓の外に広がるこの美術室が描かれていた。
少し前から取り組み始めたこの作品は、誠司が後輩たちに残して行きたいと思い、描き始めたものだった。
「ありがとう。早速始めるね」
パレットで油絵具を絶妙な割合で混ぜ合わせ、誠司は繊細なタッチで、美しい夕日に染まる教室のグラデーションを描いていく。
悦子は自分の描く筆を止めて、尊敬する先輩の姿を眼に焼き付ける。
やがてパラパラと、部員が教室に集まって来ると、悦子は先輩の集中力を途切れさせないために、誠司の視界に入らない教室の隅で作業するように指示を出した。
そして、あっという間の一時間半が終わった。
「出来ましたね」
「うん。完成した」
終盤になる頃には部員全員が手を止めて、誠司の筆の動きに注目していた。
キャンバスの前で大きく息を吐いた誠司に、悦子が拍手を送る。
「素敵な作品ですね。先輩」
こんなにこの教室は美しかっただろうか。
描きあげられたその絵を観て、部員全員がそう思ったに違いない。
誠司が描きあげた何気ない美術室の景色は、どこまでも鮮やかで、どこか切なさを感じさせる作品に仕上がっていた。
誠司が後輩たちに囲まれていると、どこかで見ていたのかという絶妙なタイミングで島田が教室に入って来た。
「おっ? なんだ? どうかしたか?」
「せんせー、高木先輩がすごいの描いたんですよ」
一年生の女生徒がキャンバスを指さすと、島田は生徒達を割ってキャンバスの前に寄って来た。
「ほう……」
感嘆なのか何なのか分からないひと言のあと、島田はしばらくキャンバスと向き合った。
「また描きやがった……」
ボソリとそう呟いて、島田は誠司の肩に手を置いた。
そして、ニヤリと口元に笑いを作って、こう言った。
「校長に見せてやるか? 高木」
そのひと言を言った瞬間、田丸悦子が大きく目を剝いてキレた。
「馬鹿言わないで下さい!」
あまりの剣幕に、島田を始め、部員全員が呆気にとられる。
「この絵は先輩が私たちのために描いてくれた絵なんです。ふざけないで下さい!」
「冗談。冗談だよ田丸。そんなに怒るなよ」
火のついたような悦子に島田はたじろぎつつ必死でなだめようとする。
しかし、癇癪を起した悦子には、まるで島田の声が届いていないみたいだった。
「あの校長に見られたら、また持ってかれるに決まってるじゃないですか。いいですか、島田先生も、それからここにいる部員全員、高木先輩がこの絵を描いたことを口外しないように。いいですね!」
余計なことを言ったら面倒なことになる。誰もがそう察して口外しないことを約束した。
ようやく静かになった教室で、残したかった作品を描き終えた誠司は片づけを始めた。
大切に道具を手入れする先輩の姿を悦子は言葉もなく見つめる。
その表情には、とても一言では言い表せない複雑な感情が浮かんでいた。
「四月から、美術室に飾らせてもらいますね」
「うん。邪魔にならない所にでも飾ってくれると嬉しいな」
いつものように控えめな先輩に悦子は少しムッとして、壁に掛けられている一枚の古い油彩画を指さした。
「何言ってるんですか。十年ほど前の知らない先輩が残して行った、あの一等席を陣取っている駄作を外して先輩の絵を飾ります」
「いや、ちょっとそれは流石に悪いと言うか……」
「いいんです。あの駄作は準備室の隅にでも置いときますので」
「顔も見たことのない先輩だけど、なんだか気の毒だな……」
指定席を独断で決めた田丸悦子に、誠司はそれ以上何も言えなかった。
もうすぐ予鈴が鳴る時間となって、顧問の島田は片付けを終えた生徒達を一度集めた。
「みんなも知っての通り、三年生が部活に顔を出すのは今日が最後だ。高木、最後にお前から何か言ってやれ」
「はい、そうですね……」
部員の注目を集めて、誠司はやや緊張した面持ちで少し言葉を探す。
「えっと、三年生でしつこく最後まで部活に顔を出したのは自分だけでしたけど、最後まで好きな絵を描かせてもらってとにかく感謝しています。いつも先生が自由に描けって言っていたことを、多分僕は実践させてもらったのではないかと思います」
一度言葉を区切って、誠司はまた口を開く。
「思い返してみると、先輩としての自分はどうだったのかと考えされられます。それでも、頼りがいのある田丸さんに部長を引き継げたことだけは、僕の一番の功績だったと確信しています」
部員の中から小さな笑いが漏れる。
悦子は少し頬を紅くして先輩の話を聞いている。
「今日は思い出の詰まった美術室の景色を一枚描きました。皆さんと歩んだ日々を思いながら描いた僕にとって大切な一枚です。この絵のように、これからも整理整頓を心掛けて綺麗な美術室を引き継いでいってください」
「え? 掃除を頑張れってことですか? 先輩」
ちょっと拍子抜けしたような感じで、一年生の女子の一人が声を上げた。
微妙な顔をしている一年生たちに、誠司は悪戯っぽく笑った。
「そうだよ。綺麗に片付いた教室で伸び伸びと活動していこう。今度は君たちの番だ」
そして三年間この教室に居座った少年は、最後にこう締めくくった。
「とても楽しかった。今までみんな本当にありがとう」
こうして、少年は美術部を卒業したのだった。
美術室を出て渡り廊下を急いでいた誠司は、突然背後から呼び止められた。
「高木先輩」
追いかけてきたのは田丸悦子だった。
「あれ? 忘れ物でもしたかな?」
「いえ、そうじゃなくって……」
夕日を跳ね返す校舎の窓からの反射が、悦子の頬を紅く彩る。
必死な面持ちで向き合う悦子に、誠司は穏やかな目を向ける。
何かを躊躇っている様子の悦子が口を開くのを、誠司はしばらくそのまま待っていた。
「先輩の筆……」
「ふで?」
誠司が聞き返すと、いきなり悦子は大きな声で切り出した。
「先輩の筆、私に一本頂けないでしょうか!」
「うん。いいよ」
あっさりとそう応えた誠司は、鞄から画材のケースを取り出し、その場で開けた。
「どれでも好きなのを選んで。ああ、これなんか最近買ったやつで、使い勝手もいいんだ……」
比較的綺麗な扇型の筆を手に取った誠司に、さらに悦子は切り込んできた。
「一番使い込んでるのはどれですか?」
「え?」
「先輩が一番長く使っているやつが欲しいんです!」
必死な表情で聞いてきた悦子に、誠司は使い古した平筆を手に取って、ウーンと唸った。
「まあこれが一番古株なんだけど、それそろ買い替えようって思ってたやつで……」
「これにします!」
「えっ?」
「どれでもいいんですよね。じゃあそれを下さい」
「うん。君がそういうのなら……」
夕日の反射に彩られた渡り廊下で、悦子は差し出された筆を両手で包み込むようにして受け取った。
「大切にします」
その場で深くお辞儀をして、顔を上げた悦子の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
「卒業式、晴れるといいですね」
「うん、そうだね」
そして、憧れ続けた先輩と向き合った少女は小さく唇を結んで、少年を眩しそうに見上げた。
「時任先輩が待っていますよ」
「ああ、じゃあ、また卒業式でね。田丸さん」
画材ケースを鞄になおして小走りに行ってしまった先輩の背中を、悦子は静かに見送った。
胸の前で大切そうに握った一本の筆に目を落とし、悦子は渡り廊下を戻っていた。




