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ひかりの恋 卒業  作者: ひなたひより
第二章 日陰に咲く花
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第5話 夏の始まり

 校庭から蝉の鳴き声がしてきた七月。

 期末試験が終わった日の放課後、美術室に足を運んだ田丸悦子は、すでにそこにいた先輩に丁寧な挨拶をした。


「お疲れ様です。高木先輩」


 また先を越されていたことに特に驚きはない。ただ感心するだけだ。


「お疲れさま。やっと試験終わったね」

「そうですね。やれやれって感じですね」


 期末試験が終わって、また明日から夏休みに入るまで二週間程度授業がある。

 その間はまた部活があり、こうして先輩の近くで絵の勉強が出来るわけだ。


「もうすぐ三年生、引退ですね」


 手持無沙汰もあって、そんな話をしてみた。

 三年生の大半はこの一学期で部活を引退する。

 引退後に部活に参加してはいけないという制約はない。しかし、大学受験を控えた三年生は、推薦が決まっているもの以外、殆ど部活には顔を出すことは無くなる。


「次の部長、きっと高木先輩ですよね」


 先日、現部長からやってくれないかと頼まれているのを、悦子は耳にしていた。

 真面目な性格で、誰もが認める実績を持つ先輩に、指名がかかるのは当然といえた。


「先輩に言われたけど、本当に俺なんかでいいのかな」


 この先輩は自分を過小評価しすぎている。天狗になれとは言わないが、もう少し胸を張って欲しいものだ。


「私は先輩が適任だと思ってます。他のみんなだってきっとそう思ってますよ」

「ありがとう。愛想でも嬉しいよ」

「愛想じゃあないですって。ほんとに先輩は……」


 もっと自分に自信を持ってください。そう言いたかったけれど、悦子の口から出たのはため息だった。


 そして、次期部長は順当に高木先輩となった。

 悦子はそれを歓迎したが、顧問の島田にいきなり色々と仕事を任されているのを見てしまい、少し気の毒に感じたのだった。


 夏休みに入った。

 毎日ではないが、おおよそ週に三回ほど美術部は部活動をしている。

 特に大した予定もない夏休み。悦子はうだるような暑さの中を今日も通学する。


「おはようございます。部長」


 美術室の戸を開けると、部長になった先輩がそこにいる。

 いつも律義にみんなよりも早く登校し、こうして美術室を開けているのだ。

 当然いるべき顧問教師は、時々欠伸をしながら様子を見に来るだけ。きっと先輩がいなかったら、この部は崩壊しているだろう。


「おはよう田丸さん」


 まだ部長と呼ばれることに慣れていないのだろう。キャンバスのセッティングをしながら先輩は少し照れつつ挨拶を返す。

 悦子はそんな純情を見せた先輩の横に並び、今描きかけのキャンバスを見せてもらう。


「また風景画ですか」


 このところ、先輩は窓から見える景色ばかりを写生している。

 この時期になると、部員は秋に開催される全国高校生芸術コンクールを意識し始める。

 今年、先輩はどんな作品を出品するのだろうか。

 悦子の関心はそこにあった。


「テーマとか、もう決められましたか?」


 自分が口を挟むことではない。そう思いながらも、好奇心が鎌首をもたげてしまった。


「コンクールのこと? 実はまだ考えてないんだ」


 綿密に考えて仕上げていくタイプではなく、先輩はひらめきで絵を完成させるタイプだ。

 分かっていたはずなのにしてしまった愚問を、悦子はもう一度口の中に戻したいと思った。


「田丸さんは今からちゃんと考えているみたいだね。その意気だよ」

「はい、少しでも先輩に近づけるように頑張ります」


 そう返した悦子に、先輩は少し不思議そうな顔をした。


「俺のことは気にしないで。田丸さんは田丸さんの絵を描いたらいいんだ」


 自分らしく思うままに絵を描いたらいい。

 先輩はその時そう言いたかったのだ。

 しかし、その時の悦子はそう受け止められなかった。


 先輩に突き放された。


 悦子はその時そう感じてしまった。

 それからしばらく、悦子の気持ちは低空飛行を続けた。

 単純に言い換えれば、拗ねてしまったのだ。

 これほど自分が先輩を尊敬し、その背中を追い求めているのに、どうして分かってくれないのだろう。

 暑さのせいもあってか、悦子の苛立ちはなかなか晴れず、一週間も自分からは口を利かない状態が続いた。


 人間は忘れる生き物だ。ドイツの心理学者、ヘルマン・エビングハウスが唱えた説は正しかった。

 拗ねっぱなしのまま、しばらく意固地をこじらせていた悦子も、そのうちにまた通常運転に戻った。

 もともと先輩に構って欲しい悦子が、勝手に拗ねて先輩絶ちをしていたのだ。断食がそんなに続かないように、悦子も限界を迎えたということだ。


「おはようございます。部長」

「おはよう。田丸さん」


 今日も先に来ていた先輩の隣に、悦子はキャンバスをセッティングする。

 先輩の横顔に目を向けると、いつもと変わらぬ穏やかな表情。

 勝手に拗ねていた自分が馬鹿らしくなる。


 もう少し、私の方を向いてくれてもいいのに。


 口には出せないもどかしさを抱え、悦子は描きかけのキャンバスに今日も向きあう。

 窓から見える夏の景色を写生したキャンバス。

 グラウンドの向こうにある遠くの山々の稜線を、今回は綺麗に描くことが出来た。

 でもそれだけ。

 悦子は、同じ景色を写生する先輩のキャンバスに目を向ける。

 どこまでも高い空。

 湧き立つような白い雲。

 充満した熱気と、どこか儚さを感じさせる美しい夏模様が、そこには描かれていた。


 でも、どこか空虚な絵だ……。


 悦子はまたそう思った。

 洗練された絵であることは間違いない。しかし、悦子の憧れた心震わされる先輩の絵ではなかった。


「田丸さん」


 ふいに、先輩が悦子の方を向いた。

 体を傾けて先輩のキャンバスを覗き込んでいた悦子は、慌てて自分のキャンバスに視線を戻した。


「はい、なんでしょう」


 目を合わせずにそう返すと、先輩から意外な言葉を掛けられた。


「山の感じ、すごく自然だね」


 そのひと言は、悦子の心を一瞬で舞い上がらせた。


「そうですか? ありがとうございます」


 飛び上がりたい衝動を必至で抑えつつ、普段と同じ感じで悦子はそう返した。

 悦子はそれからしばらく、気を抜くとニヤついてしまう癖がついてしまった。

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