第3話 先輩と猫1
完成した下絵を先輩から受け取り、写真を見ながら色を塗って行こうとしたけれど……。
「うーん」
筆を握ったまま、悦子は険しい表情で固まってしまった。
どうしても最初の一歩が踏み出せない。
もし失敗して先輩の描いた下絵を無駄にしてしまったら。もし完成させた絵が今一つで、先輩にがっかりされたら。
引き受けたのはいいけれど、そこからが問題ね。
「何してんのよ、早く塗っちゃいなさいよ」
葛藤している最中に横から水を差して来たのは、同じ一年生の橋本萌絵。クラスは違うが、部活で知り合った一番気の合う友達だ。
彼女はややアニメおたく寄りの美術部員で、漫研と兼部しているちょっと面白い子だ。芸術的センスはさておき、絵は上手い。特に女の子のキャラクターを描かせたら抜群だった。
「下絵は高木先輩か。もしかしてプレッシャーなわけ?」
元々細い目をさらに細めて、萌絵はニタリと笑い顔を作った。
図星であったことを看破されないように、悦子は落ち着いて応える。
「写真じゃ実際の色、分かりにくいでしょ。それだけよ」
「なら見に行ってみようよ」
パッと手を掴まれて、悦子は引っ張られるようにして美術室をあとにした。
何かのアニメに影響されているのか知らないが、萌絵はツインテールだ。おまけに可愛いリボンつき。後ろからその姿を眺めて、似合っていないなあとあらためて思う。
友人を傷つけたくないし、喧嘩もしたくないので勿論黙っているけれど、こういったヘアスタイルはメイド喫茶とかでお目にかかるものなのではなかろうか。
「あっ、いたいた」
別棟の校舎裏に、探していた猫はいた。
かなり人慣れしているのか、猫は悦子たちに気付くと、にゃあと一声鳴いて寄って来た。
「おーよしよし。いいこだねー」
写真で見た通り、いわゆるトラ猫だった。
尻尾の先が少し左に曲がっているのと、前足の先が白いのが特徴で、やや色あせた紫色の首輪をしていた。
あちこち撫でてやると、やがて新緑の鮮やかな草の上で仰向けになった。
「こりゃ間違いなくどこかの飼い猫だわ。早くお家へ返してあげないと」
「そうよね。早く絵を仕上げて、情報を募らないと……」
実際の猫を目にしたことで、あっさりと引き受けた絵の彩色が、けっこう重要事項であることを悦子は自覚させられた。
「やっぱり写真とは少し色の感じが違うわね。出来るだけ正確に塗ってあげないと……」
「じゃあ、美術室に連れてったら?」
軽く萌絵にそういわれて、悦子は呆れた顔をする。
「馬鹿。何言ってるのよ。学校に動物の持ち込みは不可。可哀そうだし敷地内だから先生たちも許してくれてるけど、校内は駄目に決まってるでしょ」
「なによ、知らなかっただけじゃない。じゃあ、悦子がここで描いてあげたら?」
「それは……」
反論する理由が見つからず、悦子はその場で首を捻った。
確かに萌絵の言うとおり、ここでスケッチをすれば、より正確に描写できるに違いない。
「分かった。じゃあそうするわ」
こうして図らずも友人の意見に従うことになった悦子だった。
一度塗り始めると、筆はどんどん進んだ。
あまり屋外で写生はしない方だが、たまにはこういうのもいいなと、悦子は猫を前に愉しんでいた。
彩色が完成したのは部活の終了時間ぎりぎりだった。
茜色に染まり始めた空を見上げて、悦子は一仕事を終えた解放感にしばし浸る。
「お疲れ様」
不意に掛けられた声は、振り返らずとも誰だか分かった。
先輩の声だった。
「高木先輩」
一瞬混乱したけれど、よく考えてみればこのスケッチブックは先輩のものだった。
それに、先輩が絵の仕上がりを確認しに来るのは、全くもって普通のことだ。そして、先輩が顔を出したのは、萌絵から自分がここにいることを聞いたからなのだろう。
「完成した?」
「はい。こんな感じです」
自分なりに結構よく描けた気がする。少し誇らしげにスケッチブックを手渡すと、先輩はしばらくその完成品を俯瞰した。
「上手く描けてるね。田丸さんに頼んで良かった」
最高の褒め言葉だった。
悦子は表情には出さないようにしつつ、舞い上がってしまう。
「でも……」
少し先輩の表情が曇った。
その表情を見て、悦子は一気に落ち着かない気持ちになる。
「えっと、何かまずかったですか?」
「いや、そうじゃなくって、俺のミスというか……」
先輩は腰を降ろして猫の口元に指を伸ばす。
その指の匂いを嗅いだ猫は、そのまま気持ち良さげに指に頬をこすりつけた。
「猫の情報を生徒から集めないといけないのに、俺が模写したその絵は、この猫の特徴が隠れてしまって分かりにくくなってしまっている。実際に見に来てなかった俺のミスだよ」
「そんな、先輩は写真の通りスケッチしてくれって頼まれただけじゃないですか。責任があるとしたら写真部の撮った写真にあると私は思います」
「でも、この猫のために、ちゃんとしてあげないといけなかったんだ」
優しい目で猫を撫でる横顔。
悦子は猫を撫でる先輩の姿をただじっと見つめていた。
そして先輩が顔を上げる。
「明日、昼休みにもう一度最初から描くよ。田丸さんも付き合ってくれるかい?」
スウッっと夕方の風が吹き抜けて楓の葉を揺らしていった。
「はい。勿論です」
躊躇うことなく、悦子はそう応えたのだった。
 




