第1話 後輩の少女
早春の陽光射し込む渡り廊下に、小さな人だかりが出来ているのに田丸悦子は気が付いた。
多分一年生の女生徒たち。
少女たちが作る輪の中心に、見覚えのある黒髪の女生徒の姿があった。
その美しい横顔を目にした田丸悦子は、自分でも気付かぬうちに足を止めていた。
「時任先輩……」
恐らく部活の後輩であろう女生徒たちに囲まれていたのは時任ひかり。この学園で一番注目されていると言っても過言ではない女生徒だ。
ひと言で彼女を表現するとすれば、少女漫画の世界から飛び出してきたような美少女、というのがぴったりだろう。
彼女が廊下を歩いているだけで、何の変哲もない校舎の中が、何だかドラマティックに思えてくるほどだ。
それだけでも激レアな少女なのだが、彼女はただの美少女では収まりきらないもう一つの一面を持っていた。
藤ヶ丘高校陸上部、走り幅跳び競技のエース。
陸上強豪校である我が校の最優秀選手。それが彼女のもう一つの顔だった。
高校総体において全国三位を勝ち取った彼女は、未来のオリンピック選手候補だと、陸上関係者の間では囁かれていた。
特筆すべきは、彼女はそれを全く驕ることない女の子で、とにかくチャーミングだということだ。清純を絵にかいたような純情乙女で、男子のみならず女子の人気を自然と集めていた。
容姿端麗にして優秀なアスリート、おまけに性格もいい。三拍子揃った彼女はとにかくモテた。校内の男子生徒のみならず、他校の男子生徒からも、下校時間に待ち伏せされて何度も告白されたと聞いた。
恋愛に発展してもおかしくない数多くの甘い誘いにも、彼女は心を動かされることは無かった。
だが、あまたの告白を断り続け、陸上に打ち込んでいた彼女が、三年生の夏に恋に落ちた。
彼女の心を射止めたのは、あまり目立たない寡黙な少年だった。
美術部に所属しているその少年の名は高木誠司。同じく美術部に所属している田丸悦子の一つ上の先輩だ。
何で高木なんだよと、陰で囁かれているのを悦子も耳にしたことがあったが、そのことに関しては全く逆の見解を悦子は持っていた。
「どうして時任先輩なの……」
時任ひかりを囲む人だかりを避けて通り抜けた後、悦子は聴こえないようにぼそりとそう口にした。
三年生の卒業式まで二週間を切ったある日。
放課後の美術室にそそくさと現れた田丸悦子は、窓側の席でいつものようにキャンバスに向き合う先輩に、ぺこりと綺麗な一礼をした。
「こんにちは、高木先輩」
「こんにちは、田丸さん」
悦子は美術部の部長だ。前部長の誠司から昨年の七月に部長を引き継ぎ、今は総勢十人の美術部をまとめている。
綺麗な一礼をしたあと、悦子は指で少し銀縁眼鏡の位置を直して、鞄を所定の場所へと置いた。
それから、準備室の扉を開けて、描きかけのキャンバスを取り出しに行く。
「はぁ」
独特な油絵具の臭気の中に、ため息のような吐息を漏らした悦子は、準備室を出てキャンバスをセッティングしていく。
少年の右隣にイーゼルを設置するのが、この少女の定位置だ。
悦子は、ほぼおかっぱのショートボブを揺らしながら、テキパキと無言でセッティングを終えた。
「今日は寒いね」
何気なく筆を動かす誠司が言ったひと言に、悦子の肩が一瞬動く。
「はい。とても」
画材を広げながら、悦子はそれだけを返す。
放課後の美術室。
こうして早く部活に顔を出すと、決まってそこには寡黙な先輩の姿があり、部員がポツポツと集まりだすまでは、こうして二人きりになっていた。
二年近くの間、まるで習慣のようになってしまっていたこの時間も、もうすぐ終わってしまう。
「ふー」
冷たくなった指先を呼気で温めながら、悦子は過去のことを振り返ってみた。
悦子が高木誠司という少年の存在を知ったのは、この学校に入学する前だった。
全国高校生芸術コンクール。
自分たちも高校生になったら、この一年に一度だけ行われる特別なコンクールに作品を出品する。
中学の美術部に所属していた悦子は、そんな志もあって、仲の良い部活の友達と二人で、その特別なコンテストで入選以上を果たした作品の展示会場に足を運んだのだった。
会場に入ってすぐに、電車を乗り継いでここまで来て良かったと悦子は思った。
高校生が描いた入選作は、流石といわざるを得ない出来栄えのものばかりで、見れば見るほど自分たちの未熟さが浮き彫りになっていくように感じた。
そして、やや圧倒されつつ絵画を鑑賞していた悦子に、衝撃的な出会いは突然訪れた。
悦子の目をくぎ付けにしたもの、それは大賞に選ばれた油彩画だった。
息を呑むといった状態のまま、目を離せなくなってしまったその絵は、若々しい高校生の作品たちの中で明らかな異彩を放っていた。
悦子が向き合ったその作品は、一見何の変哲もない蒼い桔梗の花の絵だった。
しかし、根本的に他の作品と何かが違う。
上手く言い表すことはできないものの、このとき悦子は、作者の見ている世界に吸い込まれるかのような、そんな感覚を覚えたのだった。
「こんな絵が……描けるなんて……」
ふと、頬に手を当てた悦子は、さらに愕然としてしまった。
「どうして涙が……」
そして悦子は、キャンバスの下にあるプレートに目を向けた。
「作品名、無題……藤ヶ丘高校一年、高木誠司……」
それは悦子の志望校を変えた瞬間だった。
藤ヶ丘は県内でも上位の進学校ではあったが、元々、同じくらいの偏差値の高校を受験する予定だった田宮悦子は、いともあっさりと合格してしまった。
入学してすぐ、あの絵が校長室のある階に展示されてあることを聞きつけ、悦子は早速、鑑賞に出向くことにした。
「あった」
階段を上がってすぐの、廊下の突き当りの壁に、あの蒼い桔梗の花の絵はあった。
ひっそりとそこに咲くような花の絵を、悦子は時間をかけて鑑賞した。
「は―――」
長いため息が悦子の口から洩れた。
尊敬や憧憬、そして羨望もそこには含まれているようだった。
「静謐さの中に剥き出しの感情を内包したような……」
あらためて、それが衝撃的な作品であることを再確認し、また上がってきた階段を戻ろうとした時だった。
「あっ」
思わず声が漏れてしまったのは、階段を上がって来る少女を目にしてしまったからだった。
艶のある長い黒髪。
スラリとして均整の取れたその姿。
可憐という言葉をそのまま描写したかのような少女だった。
誰をも一瞬で惹きつけるような美しい瞳を階段上の悦子に向けたその少女は、口元に微笑みを浮かべて小さく会釈をした。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
彼女の唇から出て来たのは、その上品な口元に見合った涼し気な声だった。
何て綺麗な人……。
すれ違い際、その端正な横顔に、これは現実なのだろうかと真面目に疑った。
階段の踊り場まで下りた悦子は、階上に上がった黒髪の少女を振り返った。
「……」
少女はあの絵に向き合い、静かな眼差しを向けていた。
その姿はとても美しく、まるで光をまとうかのように、少女の黒髪が春の陽光に煌めいていた。




