第14話 小さな秘密
放課後の美術室に部員が集まりだした。
美術部は男子部員よりも女子部員の方が多い。
賑やかな声を響かせて、今日も一年の仲良し三人組の女子たちが、窓際でキャンバスをセッティングしている先輩に陽気に挨拶をする。
「こんにちは、高木先輩」
「やあ、こんにちは」
若干苦手そうな笑顔を顔に張り付けて、この部活に顔を出している唯一の三年生、高木誠司は、今日も誰よりも早くセッティングを終えた。
誠司は高校在学中に二回も全国コンクールで大賞を獲った、ある意味すごい先輩であったが、この仲良し三人組みは、内気でどこかしら可愛げのあるこの先輩を、からかい甲斐のある先輩くらいにしか思っていないようだった。
「また覗き見してるんですかー、先輩」
鞄を適当に置いて、三人娘は窓側に集まる。
いつも大人しい先輩が、学園一の超絶美少女と交際しているのだと発覚してから、少女たちは毎日のように、恥ずかしがる先輩をおかずにしていた。いや、主食と言い直した方がいいだろうか。
「時任先輩ウォーミングアップ中みたいですね。トラックを走ってる姿も素敵だわー」
「ホント、スタイルいいわ。揺れるところしっかり揺れてるし」
「あ、先輩も見たいですよね。いま場所空けますね」
からかわれていると分かっていつつ、誠司の顔はどんどん赤くなっていく。
「せ、セッティング。早くセッティングしないと駄目じゃないか」
「ハーイ、せんぱい」
とまあ、部活に顔を出せば大体こんな感じだ。
クスクス笑いながらセッティングを始めた後輩を横目に、誠司はため息をつく。
「はー」
その溜め息に、誠司は二つの意味を隠していた。
一つは後輩たちに弄られることへの溜め息。
もう一つは、ここでキャンバスに向かっているのに描きたいものを描けない溜め息だった。
誠司はトラックを走るひかりに目を向ける。
その姿をキャンバスに描きたいけれど、後輩たちの前ではなかなかやり辛かった。
そんなジレンマを感じていた誠司の視線の先で、ひかりが足を止めた。
そして、三階の窓から熱い視線を向ける誠司に向かって、ひかりが恥ずかし気に手を振る。
ドキッ!
誠司は赤くなりつつ手を振り返す。
ささやかなサプライズで幸福感を得た誠司は、やがて後輩たちの視線に気付くのだ。
「あー、先輩ったら、だらしない」
思わずニヤけてしまっていた誠司は、何も言い返すことも出来ずに、後輩たちの視線に晒されるのだった。
夕日に照らされたグラウンドで、練習後に二人一組でクールダウンを終えたひかりと楓に、同じ幅跳びグループの古賀明美が駆け寄って来た。
「ねえ二人とも、あの話、考えてくれた?」
「ああ、あれね、私はいいよ。別に予定ないし」
楓がサラリと返答したのは卒業旅行のことだった。
女子幅跳びグループの三年生は五人。
陸上部全体で卒業旅行となると大所帯になるので、少人数で行かないかと、明美に誘われていたのだった。
「ひかりは?」
明美にそう訊かれて、ひかりは返答に詰まる。
二泊三日で明美が立てた卒業旅行の計画を、ひかりはまだ誠司に伝えていなかった。
「もしかして、先に彼と旅行の約束をしてるとか?」
勘繰って来た明美に、ひかりは胸の前で手を振って否定する。
「そ、そんな約束してないよ」
「じゃあ、どうするの?」
もう一度訊いてきた明美に、楓が割って入る。
「分かってないわね明美。ひかりはさあ、もういじらしいほど高木君にぞっこんなのよ。三日間も離れたりしたらどうなることか想像できるでしょ?」
「いや、わたし彼氏いないし、全く分かんない。たった三日でしょ。何も悩むことなんて無いと思うけど」
「まあ普通わね。でもひかりと高木君は普通じゃないのよ。今日だって美術室にいる高木君に手を振ってたりしてたし、常にときめきオーラ全開なのよ」
楓に見られて、さらに暴露されたことにひかりの頬が紅くなる。
友人の相変わらずの純情乙女っぷりに、明美はやれやれといった顔だ。
「ふーん、まあとにかく、楓も行くって言ってるし、ひかりも参加しなよ。卒業旅行は一回きりだよ」
今回の旅行は昨年末に免許を取った明美の運転で伊豆まで行く計画だ。
やや、運転技術が懸念材料ではあるものの、気の置けない部活仲間との旅行は楽しいに決まっている。
ひかりはまだ誠司に話していないこともあり、一旦返事を保留にしておいた。
「今日帰りに話してみる。明日返事するね」
「分かった。ところで楓はあの坊主頭の彼氏はいいの?」
話を振られて、楓は気持ちいいくらいサバサバと答えた。
「ああ、いいのいいの。三日どころか別に何日も顔を合わさなくたって平気だから」
「ひかりとの温度差が半端ないわね」
二人の恋事情を理解し難いのか、なんだか少し、明美は難しい顔をしたのだった。
部活を終えた学校帰り、狭いバスの二人掛けの席で、誠司とひかりはいつものように、今日あったことを振り返る。
「今日も窓から見ててくれたね」
ひかりが部活の時の話をすると、誠司は少し恥ずかしげな顔をした。
「うん。また一年生の子たちに気付かれて弄られちゃった」
「うふふ。注目されてるんだね」
誠司はそんなひかりの何気ない表情に、また胸が苦しくなる。
こうして肩を並べて一緒に帰れるのは、もうあと何日なのだろう。
大切な君と、こうして高校生として過ごせる時間は、もうあと残り少ない。
今すぐ強く抱きしめたい誘惑にまた駆られてしまい、誠司は心を落ち着かせようと深く息を吐く。
「どうかした?」
「いや、なんでもないよ」
心の中が繋がっているかのように、ひかりは誠司の些細な変化を感じ取る。
それは一方通行ではなく、そういった感性を、二人はお互いに自然と身につけてしまっていた。
「誠司君、あのね」
少し躊躇いがちな声。誠司はひかりのささやかな口調の変化を感じ取った。
「どうしたの?」
「うん、あのね、実は部活の子から卒業旅行に誘われてて……」
躊躇いがちだったのはそれでか。誠司はひかりを安心させたくてニコリと笑顔を作った。
「楽しそうだね。どこへ行くの?」
「えっと、温泉なの。熱海に部活の子の親戚がやってる旅館があって、二泊三日で……」
「橘さんも一緒だね。また帰ったら写真見せて欲しいな」
「うん。でも、行っていいのかな……」
ひかりの考えていることが誠司には手に取るように分かった。
たった三日だけれども誠司を置いて行ってしまうことを、ひかりは躊躇っているのだ。
「行っておいでよ。そのあいだ、俺は勇磨と親睦を深めておくよ」
「これ以上新君と親睦を深めるの? やり過ぎじゃない?」
クスクスと可笑しそうに笑うひかりに、誠司はほっとした。
ひかりはいつも誠司のことを一番に考える。それを誠司はよく知っていたからだった。
誠司は旅行の日程をひかりに聞いて、手元の携帯にメモを入れておいた。
「部活のみんなと、いい思い出を作っておいでよ」
「うん。ありがとう」
ひかりを笑顔にさせて、また今日一日が終わった。
バス停で降りたひかりに窓越しに手を振って、誠司は膝の上にある鞄を開けた。
「さて……」
誠司は鞄の中に入れていた冊子を取り出した。
それは地域限定の求人情報誌だった。
そこには、あのショッピングモール内の店舗に関する求人が幾つも記載されていた。
「旅行に行くのはこの三日間か……」
開いた頁に目を落とした誠司は、真剣な表情で集中し始めた。




