第1話 春の兆し
学校の棟を繋ぐ、二階の渡り廊下を歩いていた少女がふと脚を止めた。
明るい陽射しが眩しい早春の朝、艶のある黒髪を少しかき上げて、少女は窓の外に目を向ける。
「はぁ……」
小さなため息を漏らした少女の名は時任ひかり。卒業を目前に控えた高校三年生だ。
少女の視線の先、中庭の花壇の並びに、薄紅色の花をつける枝ぶりの良い一本の木がある。
梅の木だ。
まつ毛の長いやや切れ長の涼し気な目を、ひかりはほんの少し伏し目がちにさせて、美しく色づきだしたその木を見下ろす。
「きれい……」
少女が窓に顔を近づけると、その呼気が硝子を僅かに白く曇らせた。
二月の半ばを過ぎたこの時期、まだ残る空気の冷たさを頬に感じつつ、少女はもうそこまで近づいている春の気配に、少し目を細める。
「ひかりー、何見てるの?」
声を掛けて来たのはクラスメートの橘楓。中学時代からの付き合いで、ひかりとにとって親友と呼べる存在だ。
楓はパタパタと渡り廊下に足音を反響させて、ひかりの隣までやって来た。
「おー、咲いてるねー」
楓はいつもと変わらぬ陽気さで、窓の鍵に手を伸ばす。そしてあまり建付けの良くない窓をグイと開け放った。
「ね、春の匂いしない?」
開いた窓から顔を出した楓は、外の冷たい空気をスウッと吸い込む。そんな友人につられるように、ひかりも顔を出して外の空気を胸に吸い込んだ。
「うん。するよ。春の匂い」
微かに香った甘い匂い。
この学校に、今年もまた春の兆しが訪れた。
ひかりは思う。
自分たちはもうここで、あの見事な満開の桜を見ることは無いのだと。
ひかりは楓と共に晴天の空を見上げる。
「もうすぐなんだね」
青い空にひかりの白い吐息が舞った。
ゆっくりと、もうそこまで高校生活のフィナーレが近づいてきていた。