再会
明智光秀を迎えた三箇頼照と彼の率いる三箇勢が百名、明智光秀が率いる馬廻りの二百名、これが羽柴秀吉本陣奇襲部隊の全戦力、そして明智光秀に残された最後の兵力であった。
三箇勢三千は銭で急造した兵、明智軍の大敗を知りその殆どが逃亡していった。その状況でも明智光秀を見限ること無く三箇頼照は直属の家臣団を纏めて共に戦うと合流してくれたのである。
淀川を渡河するために手配できた小舟十隻では一度に渡せる兵は百名が限界。
先発隊として三箇頼照がすでに対岸にあり、今第二陣が井戸良弘に率いられて出立した。
筒井家宇治槇島城の城主の井戸良弘は、溝尾茂朝の送った援軍要請には応えられぬと首を縦には振らなかった。
山崎の地での明智軍の大敗がその理由であり、主家である筒井家に害が及ぶのを避ける為であった。しかし諦めて引き返そうとする使者を引き止めて井戸良弘は筒井家を出奔、唯一人の援軍として明智光秀に合流してきたのである。
自分は光秀殿の縁戚、追補の手が及ぶ前に筒井家を出奔し馳せ参じたというのが彼の言い分であった。
「羽柴軍に味方するとして、堂々と彼の陣へと接近しましょう」
密かに隠れて進軍するのではなく、羽柴方に味方する軍として近づき奇襲に至る。それが三箇頼照の提案だった。明智光秀はその策を了承し、彼はすでに羽柴秀吉本陣に向けて恭順の意を示す使者を送り出しているはずである。
第二陣を送り出した船が引き返してくるまで、明智軍の兵士は川土手に留まって座り、火を囲んで武具の手入れなどをしている。明智光秀はその中を歩きながら、兵士一人一人に声を掛けていった。
織田信長公の襲撃犯探索の任を依頼した竹中重矩は遠く紀州国の地にあると伝え聞いた。あの雑賀の娘燕と弥助も同様。自分に心残りがあるとすれば、あの三人をこの一件に巻き込んでしまった事だろう。
明智光秀は歩を止めた。
視線の先、土手の頂にその小さな影は現れた。必死に駆けたのだろう。彼女は体を折って膝を押え息を整えている。
顔を上げた彼女と目が合った。雑賀の娘、燕。
「あけち」
娘の挙げた声に兵達の視線が集中する。その姿に立ち上がる者もいた。自分と娘との間を塞ぐ兵達が道を開けると、その中を彼女は勢いよく駆けてくる。
明智光秀は両手を思いっきり伸ばして彼女を抱き止めた。
「みんな、みんなやっつけたぞ。妹の仇も織田の敵も」
わずか三人で安土城を発ち、この娘は我らが、織田の全ての者達が望む全てをやり遂げたのだ。何という娘だ。そして何という者達だ。
土手の上で影のある一人の男が自分に向けて礼をとる。燕がその男に向けて手を振った。見知らぬ顔だが溝尾茂朝が送った手の者の一人だろう。燕と共に発った二人の姿は無い。
「竹中重矩殿と弥助はどうしたのだ」
「弥助は怪我をして雑賀に残った。重矩は一人で京へ。そうだ、これをあけちに渡せと重矩に言われた」
燕から手渡されたのは『竹中秘録』と記された書。
織田信長公を襲った者達の事がそこに記してあると燕は言う。それを世に広めれば明智は助かると。
明智光秀は燕に礼の言葉を述べた。
しかし、今の自分にこの書を活かす力は無い。これは残された明智の人々を救う為に残すべきものだ。
兵達が立ち上がり川辺に向けて歩き始めた。
船頭だけを乗せた小舟達が戻って来るのが見える。腕をぐいと掴まれた。我々が出立するのを燕は感じ取った様だった。
「私を一緒に連れて行ってくれ。私はあけちの下で働きたいのだ」
「それはならぬ。お前を家臣の列に加える事は出来ぬ」
「必ず帰って来い。そう私に言ったのはあけち、お前ではないか」
確かにそうだ。
しかし明智が彼女を庇護する事はもう出来ない。ここでき放すべきだと明智光秀は思った。それが彼女にとっての最善だと自分に言い聞かせそうになった。彼女の力強い光を放つその瞳を見るまでは。
燕が求めているのは自分と暮らし生きることではなく、明智と共に世のために歩む未来。彼女にその道標を与える事こそが今、自分が彼女のために成すべき事ではないのか。
「家臣として命じればお前を縛る事になる。だから私の友として頼みたい」
「友とは、初めて聞く言葉だ。それは仲間の様なものか?」
「そうだな。遠く離れ時を置いても互いの心に残る存在。そのような間柄かな」
言ってはみたが、言葉にすると自分でも上手く表現できないものだな。
「時がかかっても良い。我が二人の息子、明智光慶と明智定頼を探しだしこの書を彼等に届けてはもらえないだろうか」
「わかった。友としてその依頼は引き受けてやる」
「もう一つ、これは私の願いだが、二人を見つけたなら彼等の友にもなってやって欲しい」
更にもう一つと続けそうになった言葉を明智光秀は止めた。遠く残された者達の事を全てこの娘に託してしまいそうな自分がいたからだ。
燕は自分の言葉を黙って聞いている。連れて行けぬという意思をそこに感じたのかも知れない。燕が胸の紐を解き背の刀を自分に返すと差し出した。
「ふじたがあけちを見送りたいと言った。だからこの刀と共にふじたをここに連れてきた」
その刀の意味を明智光秀は理解した。
淀城に一人残した藤田行政はその刀に想いを込めて逝ったのだと。
「その刀はお前が私と共に、明智と共に戦った証、藤田行政はお前と共に生きる道を選んだのだ」
その刀を自信の守り刀とし、燕が大事に持っておくべきだと告げ彼女に刀を手渡した。燕はそれを胸に抱えて自分に頷いて見せる。
「燕、これよりお前の名乗りに雑賀の名を口にしてはならぬ。お前のその声が雑賀の民の災いとなるかもしれぬからだ。だから普段は燕とだけ名乗り、そしてもし明智との為にお前が何かを成す事があるならば、その時は明智姓の名乗りを許す」
「『雑賀の燕』ではなく『明智の燕』と名乗るのだな」
「そうだ。お前が我らの為に成してくれた事に対して、私はその位のことでしか報いてやれぬ」
明智が未だ健在であったならば報奨金、住居に土地、それら彼女の望むものであれば何でも与える事が出来た。明智家の養女として迎える道もあっただろう。
織田信長公襲撃犯の探索とその討伐、彼女はそれでも余りある程の大功を成したのだ。
しかし今、明智姓を名乗る栄誉は謀反の徒明智に属し天下万民を敵に回す不名誉を背負う諸刃の剣である。明智にかかった謀反人の嫌疑は後日必ず晴れ、織田家に対する我らの功が認められる日が来ると信じて、彼女にその姓を今は託すのだ。
燕と共に現れた影のある男が自分に近づき声を発した。
「溝尾茂朝様に仕える一党の頭、石川五郎左衛門と申します。ただ五郎とお呼び下さい」
自分が彼に返せるのは労いの言葉だけだった。
この五郎という男に明智はこれまで大きく助けられて来たはずだ。溝尾茂朝の下で国の営みの闇の部分を支えてきた来た一党の頭、溝尾茂朝が彼等の働きにどれ程のもので報いてきたのかを自分は知らない。
「今の明智にはもうお前達一党に報いてやれるものが何も無い」
「我らは酔狂で溝尾様に仕えております。報償など特に望んではおりませぬ」
何も求めぬとは。
溝尾茂朝とこの五郎の出会いどの様なものであったのか彼は自分に語ってくれた事はない。その溝尾茂朝も近江国へと発った後の消息は分からぬ。
「自分亡き後も終生明智の為に尽くせ。それが溝尾様との約定に御座います」
五郎は自分の胸の内を見透かした様にそう述べた。
「では一つだけ頼む。この娘、燕を我が息子達に引き合わせる手助けをしてもらえないだろうか」
五郎の承諾の言葉でこの場にある心残りは消えた。これで私は行ける。
明智光秀は最後の小舟に足を掛けた。出発の掛け声と共に兵を乗せた全ての小舟が対岸へと向け進み始める。
燕が急に叫び声を上げて駆け出し、それを五郎が慌てて追いかける。
船頭に待てと命じて明智光秀は船を飛び降りた。水の中に腰まで浸かった燕を捕まえた。
「皆いなくなる。私の前から消えていく」
「戦に命は惜しめぬ。だが死ぬために行くのではない。事を成し遂げたら生きて戻る努力をすると誓おう。だから消えてしまうなどと言うな」
この娘とて分かっている。それでも気持ちを抑えきれないのだ。
武家の女であれば戦に赴く士の後ろ髪を引く言動は恥と教えられ、表立ってそう口にする者はいない。この娘の言葉、それが残される者の本当の声なのだろう。
「あけちは戻って来るのだな」
「約束は出来ぬ。だから戻れるように励めと見送ってはくれまいか」
自分の言葉に燕は震える声で小さく「励め」と呟いた。
「そうだ。その言葉が私の力となるだろう」
「励め、あけち。励め」
半泣きのぐしゃぐしゃな顔、ぐしゃぐしゃな声で燕が言う。
明智光秀はゆっくりと彼女から手を放し、船に体を預けた。遠くなっていく燕と五郎の姿、それも次第に夜の闇の中に溶けて消えていく。
目を閉じた。
闇の向こうから「あけち、励め」の声が大きく揺れながら二度響いてきた。




