本能寺襲撃①
どれほどの時が経ったのだろうか、もう数刻以上戦い続けている感覚がある。背後で燃える炎の熱さか、額にも汗が滲んでいる。
伸ばした手に矢が手渡された時、それが最後だと告げられた。
織田信長は狙いを定めて弓を射た。
弓を捨て槍に持ち替えて乱戦の中へと駆け込み一合、二合と敵と渡り合う。自身が対した敵を数人倒したところで周囲を見渡した。
まだ互角以上に戦えている。味方は十人は失ったか、それに倍する敵の骸が足下には転がっている。
だが一人倒せば二人現れるという様に、敵の勢いが止まる事は無かった。
いずれここも支えきれなくなる。
本堂を燃やし外の味方にこの窮状を知らせるという目的は既に果たした。後は主殿まで退き最後まで抵抗するだけだ。
木立を抜け現れた兜武者に率いられた新たな敵の一団から記憶にある声で名を呼ばれた。
「あれが織田信長ぞ、討ち取れ」
「おのれは、林秀貞か」
織田信長が怒声を上げたが、その身体が強い力で右に引かれた。ほぼ同時に右胸に激痛とも痺れとも言えぬ感覚が走る。
胸に開いた穴から血が吹きこぼれてくる。鉄砲の銃撃を受けたのだと瞬時に認識した。
織田信長は銃撃者の方をジロリと睨み付けて槍を振り上げようとしたが、自身の意思とは裏腹に身体は膝を地に着き、彼の意識を奪い去っていった。
* *
「鉄砲だ。大殿が撃たれた」
森蘭丸が叫ぶと弥助が飛び出し銃撃者を斬り捨て、すぐに地面に倒れた織田信長公を抱えて本堂の中へと駆け戻って来た。
小姓の一人が自身の着物を脱ぎ、それで織田信長公の胸の傷を堅く縛る。
「大殿を奥へ」
そう指示を出し、森蘭丸は本堂の外へと再び飛び出し、乱戦中の味方全員に「退け」の命を下した。
すぐに対処出来た者達は本堂の高みに駆け上がったが、敵と斬り結び動けなかった者達は、一気に数を増した敵勢に飲み込まれてその中に消えていった。
敵勢の急激な増加は南側の厩で戦っていた馬廻りの者達の全滅を意味する。本堂東側の門扉も打ち破られ、そこからも敵勢が侵入して来るのが見えた。
「蘭丸兄者、ここは我ら二人が引き受けます。囲まれる前に御殿へお退がりを」
森力丸と森坊丸の二人に頷き、森蘭丸と生き残りの小姓達は織田信長公を抱えた弥助と共に北の御殿に向けて駆けだした。
弓が一斉に構えられ、本堂の高見で立ち塞がる森兄弟にいくつもの矢が突き立つ。それでも壁に寄りかかり二人は耐えたが、二射目が撃ち込まれると、遂には力尽きた。
倒れた二人を乗り越えて本堂内に兵が突入して来た時、まだ息のあった森力丸がその一人の足にしがみつきその歩みを止めさせた。
止めを刺そうと刀を振り上げたその兵の頭上で、炎渦巻く天井が轟音と共に崩れ落ちてきた。
* *
深夜の内に京の都の西側、桂川付近に到着して滞陣中でった明智光秀軍一万三千もこの時、京市内での異変を感じ取っていた。
兵達のざわめきが大きくなっていく。
陣幕から出た明智光秀と重臣達も薄闇の中で激しく燃える赤い炎を目撃した。
京の町の出荷であればそう珍しき事では無い。
これに慌て無闇に軍を京市内に入れれば織田信長公からの叱責は免れられない。
しかし鉄砲の発射音が何度か聞こえたとの報告が明智光秀を決断させた。
事が起こったならばそれは京の町を狙ったものではない。敵が狙うは織田信長公の首以外には考えられなかったからだ。
「徳川家康か」
思わずそう口にした。
織田に敵対しうる京周辺にある勢力として真っ先に明智光秀の頭に浮かんだ存在であった。
当然、その名を耳にした周囲の兵達に動揺が走るのを感じた。
迂闊なことを口にしたと思ったが、今はそれを気に止めている余裕など無い。
すぐに命令を発した。
「騎馬数隊を先発し京都総構えの木戸を押え、後続の軍の進軍路を確保。先鋒は明智秀満と斉藤利三。騎馬のみで隊を再編成しすぐに織田信長公の警護に向かえ」
斉藤利三が旗下の安田国継に命じて騎馬三百を走らせる。
街道沿いの各隊から騎馬武者達が路上に出て並び、ある程度の数が集結すると明智秀満は馬の藁沓を切るようにと命じた。
藁沓とは馬の足音を消し、蹄が痛まないよう行軍の際に馬に履かせる草鞋である。これを切るという事は戦闘態勢をとるという意味合いもある。
明智秀満と斉藤利三の二人が進軍の声を上げると、二千騎近い騎馬の群れが一斉に動き出す。
その間も明智光秀は次々に各将に命令を出し続けた。
「中軍は明智光忠、妙覚寺の織田信忠様と二条御所の誠仁親王を保護せよ。我が本隊は賊の逃亡を阻止するため京周辺を固めた後に市中へと向かう」
一斉に松明が灯され、あちこちで号令が響き渡る。
明智軍の陣が慌ただしく動き始めると、馬に跨がった明智光秀が大声を上げて叫んだ。
「本能寺に異変あり。全軍進め」
* *
あと一歩届かなかった。
織田信忠は本能寺東門へと手勢を進めたが、同じ時門を打ち破ろうと集まっていた数倍の敵と衝突したのである。
信忠自身も刀を振るい十数人を倒したが、その頃には織田勝長をはじめ供の二十人は殆どが討ち死にしていた。
父織田信長が小姓衆の中でも腕の立つ弥助を自分の側に置いてくれた意味をこの時になって理解したが、ここに至って自身の馬廻りの者達の脆弱さを嘆いても仕方ない。
あわやという所で村井貞勝の率いる五十名の歩行が斬り込み、彼の息子達を犠牲にして辛くもその場を逃げる事が出来たが、乗馬を失い残った味方は散り散りとなってしまった。
「私には本能寺を襲撃していた兵が明智軍とは思えなかったのだが」
「明智の手の者でないという確証がありませぬ。信長公にもしもの事があった場合に備え、信忠様には自身の身の安全を優先して頂きます」
村井貞勝の言い分を否定できず、織田信忠は大人しく彼の言に従った。
「二条御所には僅かですが警備の織田兵がおります。そこへ身を寄せ見極めるべきでしょう」
妙覚寺にまで何とか辿り着いた頃、西と南の方角から多数の松明の明かりが京の町へと押し寄せてくるのが見えた。
近江国安土城方面へと抜ける東の鴨川沿いもすでに明智の騎馬隊により封鎖されていると告げられ、徒歩での京脱出は困難と判断して二条御所を目指した。
織田信忠に従う者は既に十人も残ってはいなかった。
生き残ったのは途中から合流してきた野々村正成や毛利勝介の他、馬廻りの団平八、斉藤新五郎、坂井越中、猪子兵介、村井貞勝配下の奉行である菅谷長頼と福島平左衛門といった面々である。
この者達や父の元に集った馬廻りの者達は城持ちの者もおり、彼等馬廻りの者達を中核として在地の地侍や領主の兵を加えて織田家直轄軍十万の兵が動員されるはずであった。
その核となる多くの者を今日一日で失った。織田家にとってはそれだけでも大打撃であった。
市内を走りながら織田信忠は何度も燃え上がる本能寺の方向を振り返った。
涙が流れていた。
父を救いに行けぬ自分の非力さに泣いた。
民家や町家が密集した地域を抜けて辿り着いた二条御所は、下京の騒ぎなど知らぬとばかりに静寂に包まれていた。
櫓の上には鉄砲を持つ兵の姿も見える。
確か事前に馬廻りの一人、鎌田新介を向かわせたはず。
門前で武装した徒数人を率いた公家の正親町季秀が立ち往生していた。
京の急変を察知して誠仁親王の下へと駆けつけたはよいが、二条御所の門を閉ざし自分達を一向に中に入れようとしない城兵に向けて、彼は甲高い京言葉で悪態をついている様だった。
彼は現れた織田信忠一行の姿に大いに喜び、御所への入城をとりなして欲しいと懇願し、徒に持たせた箱を開くと中にあった菓子を信忠一行へと手渡していった。
何もこんな時にと唖然とする者達の事など彼はおかまいなしである。
改めて村井貞勝が御所に伺いを入れると、二条御所の大手門が静かに開いた。
門を通過した織田信忠一行の背後で城門が閉められると、彼等は突然多数の兵に囲まれたのである。
明智に同心か? いや、そうではない。
彼等の首に巻かれた白い布。すぐに本能寺襲撃者と酷似した雰囲気に織田信忠は気付いた。
向けられた多数の鉄砲から守るように供の者達が織田信忠を囲むが、信忠はそれを押しのけ前へと歩み出た。
「織田信忠である。これは何事か」
返って来たのは憎悪の視線。
一歩前に出た僧形の男は不敵な笑みを浮かべていた。
「織田信忠だと? 我らが本陣とした場所にわざわざ乗り込んで来るとは運が無い。ただ逃げておれば生き残れたものを」
「これが敵か」
何者かは知らぬ。
だが目の前にいるのは間違いなく父織田信長を襲った敵であり、ここがその本陣だと言った。ならばこの男こそが敵の大将。
ようやく敵が見えた。
腹の底から怒りが込み上げ、手に握った刀一振りを構えて男に向けて走った。
遮る敵を一人、二人と斬り倒したその時、織田信忠の腹に槍が突き立った。その槍を握りしめながら、その持ち主の顔を見た。
御所へ送った配下の鎌田新介。
「なぜだ、新介」
口から血を吐き織田信忠の膝が折れる。
悲鳴を上げて逃げ出す正親町季秀、遅れて武器を手に立ち向かう村井貞勝達に向けられた鉄砲の黒煙が一斉に吹き上がるのが見えた。




