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水色桔梗の雫 ~異伝本能寺の変~  作者: つむぎ舞
六月十六日
79/84

別れの時

 これまでの努力が潰えようとしている。

 竹中重矩たけなかしげのりの目には、立ち込める夜の闇が自分達の運命を指し示している様にも思えた。


 紀州国雑賀の地を発ち一路京へ向けての帰路についた竹中重矩、つばめと五郎の三人は、六月十五日、河内国の伝馬待機所で明智軍敗北の報を知った。

 明智軍は僅か一日で壊滅、すでに京の都は羽柴秀吉の軍の占領下にあり、丹波国と近江国へも明智討伐の軍は進軍中であるという。

 竹中重矩が明智光秀より依頼された使命は、織田家のいずれかの軍と明智軍との全面衝突前に織田信長公襲撃に関わる全てを探り、明智謀反の嫌疑を晴らす情報を持ち帰ると共に織田家が一丸となって立ち向かうべき本来の敵を探し出す事だった。

 自分達は紀州国まで赴き、協力者達の少なくはない犠牲と引き換えにその任を全て成し遂げた。しかしそれを伝えるべき明智家は今滅亡の危機にある。

 とにかく明智光秀の所在を掴む事が第一、五郎の手の者の連絡網も明智軍敗北の混乱でうまく機能していない。

 今、最も近い明智軍の拠点は淀城、まずはそこへと赴くしか手が無かった。


『竹中秘録』と記したこの書を明智光秀に届ける事が出来たとして、今の彼がそれを効果的に使えると竹中重矩には思えなかった。

 明智光秀が強力な軍事力を失った事で、心なき者は彼の言をその力で握りつぶしてしまえるからだ。

 この騒動の発端は全て明智に対する織田側の対応にあった。問題は織田の方にこそある。事ここに至っては織田家を纏める地位にある者、そこへと自分はこの書を持って訪れるべきではないのか。

 一度定められた事実を覆し、新たな真実を認めるには並々ならぬ勇気と決断が求められる。真実と向き合うことを避け、既に定まった事という口実を口にして逃げる者も多いだろう。

 果たして今の織田家にそれだけの度量人が残されているのだろうか?


「重矩、明智が負けたのか? あけちはどうなったのだ」

 燕の声に竹中重矩は暗い考えを振り払った。彼女には自分が挫ける姿を見せてはならない。そして燕には自分達がどんな絶望の淵にあろうとも希望を捨てさせたくはない。

「淀城へ向かいます。そこで明智光秀殿の行方を掴みましょう」


 淀城までの正確な道を知るのは五郎だけ、彼に先導を頼み伝馬待機所を発った。

 月明かりだけが頼りの移動はかなり速度が落ちるが、それでも前に進むしかなかった。空が白み始めてようやく速度を上げた。

 馬の鞍にしがみつきながら眠る燕も疾駆する馬の揺れに目を覚ました。

 帰路の道中陽気に自分に話しかけてきていた燕も、明智軍の敗報を聞いてからは無口になっている。雑賀が織田に属するには明智光秀の力添えが必要で、明智の滅亡は燕と雑賀の願いを無に帰してしまうからだ。


 淀城が近づくと馬を止め五郎だけが先行した。

 淀城が未だ明智軍の手にあるのかの物見を兼ねてのもので、彼の帰りを待つ間、道ばたに二人腰を落として体を休めた。

 拾った枝で土に何かを描いている燕に話しかける気力は残っていなかった。寝ずに馬を走らせてきた自分の限界、竹中重矩はその場で深い眠りに落ちていった。


 燕の声、頬を叩かれて目覚めた。

「淀城は若江三人衆の一人、多羅尾綱知たらおつなともの軍が占拠していますが、明智に敵対している訳ではなく、そこに明智家の重臣藤田行政(ふじたゆきまさ)殿も匿われています」

 

 戻って来た五郎がそう伝え来た。

 行きの道中で賊の討伐に手を貸した将の名である。五郎が城の大手門から堂々と名乗り城内を調べるはずはないが、彼が安全というにはそれだけの根拠があるからだろう。

 藤田行政の名を聞き燕の声にも張りが戻る。

 五郎に導かれて淀城の搦手門へと辿り着いた。五郎が城に合図すると城門が静かに開かれる。


「そこの五郎に寝所にて刃を突きつけられた時にはさすがに驚いたが、竹中殿等は明智光秀殿の手の者でもあったのか」

 我らを出迎えに多羅尾綱知自らが出向いてきていた。自身の首を撫でながら苦笑する彼の姿、どうやら五郎はかなり手荒い事をここでやったようだ。

 馬から降りた燕は自分達のやり取りには興味がないようで、藤田行政の居場所を聞き出すと一人で城の奥へと走り出した。

   

「この淀城を明智軍より譲り受けた経緯は五郎より伝えられました。多羅尾殿、明智光秀殿は未だ健在なのですね」

「昨夜、自身の手勢を引き連れて三箇城に向けて発たれました。急げばまだ追いつくでしょう」


          *          *


 あけち、明智光秀はここにはもう居ない。でもふじた、藤田行政がいる。燕は明智の知り人に会いたかった。会って自分の事を伝えたかった。

 広い城内に人の気配は殆ど無く、所々の門に兵が立っているだけだ。藤田の名を尋ねると彼等は自分に指差して進むべき方角を指し示してくれる。

 本丸内の一番大きな建物、燕は部屋の戸を開きながら藤田行政の姿を探した。廊下の奥に戸が開け放たれたままの部屋があった。

 板の間に敷かれた布団に横たわる藤田行政、血で汚れた肌着一枚の姿の彼の肌色は蒼白で、生気が殆ど感じられない。

 燕は藤田行政の傍らに寄り彼の名を呼んだ。

 彼女の声に応えるように力無い傷だらけの手が燕の頬の傷に触れ、薄紫色の彼の唇が僅かに動いた。


「全部終わった。妹の仇も織田信長を襲った者達もみんな私達が倒した。後はお前達と一緒に、あけちと一緒に織田の為に働くだけだ」


 すまぬな、と彼は短く燕に詫びた。

 体を起こしてくれと言われ藤田行政を壁に背を預け座らせた。彼の下半身に掛けてあった布が外れ、膝から下が切断された左足が見えた。

 燕は思わず藤田行政の体を抱きしめた。


「お前は殿に会いに行くのだろう?」

「うん、あけちに届けなければならない物がある」

「儂は気を失い殿に何も言えなかった。儂と共に殿を見送って欲しい」

「あけちの元へふじたを連れて行けばいいのだな。必ず連れて行ってやる」


 殿の刀をと告げられ背の刀を燕は差し出した。だが藤田行政はその刀を見つめるだけで動かない。どうすれば? ふじたの体を支えながら考えた。わからない。


 何をしている。そう言われた気がした。背で竹中重矩の声がした。

「漢が見事に死のうとしている」

「どういう事だ重矩、ふじたは私にどうせよと言っているのだ」

 その声に答える事無く竹中重矩が前に出る。竹中重矩の短い問いに藤田行政は静かに頷き、竹中重矩は燕から刀を奪い刃を抜くと、再びそれを燕の手に握らせた。

「藤田殿はお前の手で送って欲しいと言っている。しっかりと刀を持て」

「嫌だ重矩、出来ない」


 藤田行政の命がもう保たない事は理解出来る。でもふじたはまだ生きている。私のこの手で彼の生を絶つなんて出来ない。

 困惑する自分の背を竹中重矩は密着する様に後ろから支え、左腕で藤田行政の背を抱えた。自分の右手の刃を持つ手を上から力強く押える。

「殿の刀に我が魂を」

 藤田行政が白い歯を見せて笑った。藤田が死を望んでいる。

 竹中重則の「御免」の声と共に刃が藤田行政の胸の下を貫く感覚が手に伝わってくる。小さな藤田の呻き、右手に込めた重矩の力が消えた。


「戦いの中で果てるものと思うていたが、これも悪くない」

 自分の耳元でふじたがそう言った。

 再び右手に込められた重矩の力が、今度は刃を上へと引き上がる。

 床に崩れ落ちた藤田行政の亡骸を見つめ、振り返り竹中重矩を見上げた。涙が込み上げてきた。


「泣くな。藤田行政殿の魂はそこに、お前の刀の中にある。彼は天に還ることを選ばず、お前と共に生きる道を選ばれたのだ」


 神様は何処にでもいる。人の心、そして木々や岩にもそれは宿る。それならば人の魂もその人が望む場所に宿るのに違いない。

 ふじたはここに、私持つこの刀の中に居るのだ。

 送れて現れた多羅尾綱知、五郎の四人でふじたの亡骸に手を合せた。

 竹中重矩が多羅尾綱知に後の事を頼むと伝えていた。


          *          *


 すぐに淀城を発つと言われた。竹中重矩には五郎の馬に乗るようにと指示された。

「これを燕に預ける。明智光秀殿に必ずそれを届けて下さい」

 彼はそう言って自分に二つの書のうちの一つを手渡す。

「重矩、お前は一緒に来ないのか?」

「私はこれより急ぎ京へと向かう。燕とはここでお別れだな」


 突然の別れの言葉、でも否定の言葉は口に出来なかった。竹中重矩にはまだ彼の使命がある。そして自分にもまだやるべき事がある。

「また、会えるよな」

「互いに使命を果たしたならば、その時に再び」


 出立しようとした竹中重矩が、何か思い出したかのように馬を寄せてきた。そしてある人に伝えて欲しいという言葉を自分の耳元で囁いた。

「そんな事、自分で伝えればよいではないか」

 思わず燕が強い口調で言い返すと、そうだなと彼は笑いながら言い、そして馬を返した。

 走り出す竹中重矩の背中、それがどんどん小さくなっていく。


 竹中重矩が敵に捕われた時とは違う寂しさに襲われた。走り出す馬上でそれを打ち消すように燕は首を振った。重矩とはまたすぐに会えるはずだ。

 そう思うと何か心にむっとする様な感情が湧いてきた。

 竹中重矩は自分にまるで恋文の様な言葉を近江国長浜のこうという女に伝えてくれと言ったのだ。

 なぜこんなに腹が立つ。こんな気持ちになったのは初めてだ。

 燕は首を振ってこの意味不明な感情を掻き消した。


 竹中重矩。

 安土城から京へ、そして雑賀への僅かな日数の旅。彼に叱りつけられた言葉や彼の大きな背中、ただ側に彼がいてくれただけで根拠無く自信が持てた。

 自分は彼に言うべき言葉を伝えそびれていた。

 次に彼に再会した時には必ず、恥ずかしがらず、ありがとうと伝えよう。

『別れの時』『再会』の二話は六月十五日夜から六月十六日未明までの話なので「夜が明けていた」という部分の表現が不適切であった為削除致しました。

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