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水色桔梗の雫 ~異伝本能寺の変~  作者: つむぎ舞
六月十五日
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斉藤利三

 山崎の地での敗戦で明智軍は崩壊した。

 そこで死ぬはずだった自分はおめおめと生き延びて敗走の列の中にいる。

 斉藤利三さいとうとしみつは裸に褌一つの姿で刀一振りすらも無い状態。

 気力を削がれ言葉無く死人の様に歩く彼の姿を見ても、誰もそれが斉藤利三と認識出来ないでいた。


 自分は最後の最後で判断を誤った。

 天王山陥落と同時に明智軍本隊六千は味方右翼四千と合流し、一万の軍となって羽柴軍と対峙しながら整然と撤退すべきだった。

 しかし自分はそうせず天王山の軍を破り駆け下って来た五千の軍に向けてしまった。それを敵の実質の総大将羽柴秀吉が率いる軍と誤認したからだ。

 羽柴秀吉さえ討ち取ればその時点で我が法の勝利が決定する。そして羽柴秀吉という男の武を舐めてかかり、自分ならばそれを容易く打ち破れると過信していた。

 相対した五千はこちらの本隊に匹敵するほどの精鋭であり、明らかにそれまでに叩き伏せてきた羽柴軍と動きが異なった。それに加えての逆落としの圧力、あっという間にこちらの軍列は敵に突き破られた。

 混乱する味方の中で敵大将の名乗りを聞き血の気が引いた。敵将は羽柴秀長はしばひでながと名乗ったのだ。

 我が軍は押されに押され円明寺川にまで追い込まれ、川を背にした状態で完全に羽柴軍に包囲された。


「国継、左翼が弱い。防げ」

「おう、承知」

 斉藤家家臣、安田国継やすだくにつぐが自分と目を交わし走り出す。

「勝定、ここは私が食い止める。お主は雑兵を率いて川を渡り、出来るだけ多くを逃がすのだ」

「お断り申す」

「何っ」

 振り返った自分の体を馬から引き落とし、副将の柴田勝定しばたかつさだの拳を顔面に食らった。そのまま彼は周囲の兵に自分を押さえつけさせ鎧を脱がし兜を奪う。

「利三殿、ここは拙者が引き受けよう」

 柴田勝定は自分の兜を身につけると乗馬に跨がった。

 斉藤利三が呼びかける声を無視して彼は手勢を率いて前へと討って出る。五人の兵に半ば押さえ込まれる形で引きづられ、斉藤利三は円明寺川の中へと放り込まれた。

 その後は渡河して逃げる兵達と対岸へと辿り着き、味方左翼を突破してきた羽柴軍に追われる形で逃げるしか出来なかった。

 丹波国へ向かう街道にはすでに羽柴軍が進出しており、残された者達は京方面を目指して逃走した。


 京の北の山中、周山城の城下町に這々の体で辿り着いた敗残の兵達。

 あちこちに座り込む明智兵達に城下町の人々や城の者達が水や握り飯を配っている。自分の前にもそれは置かれたが、斉藤利三はそれに手を付ける気になれなかった。

 柴田勝定は自分の身代わりとなって死んだ。そこで多くの家臣達も失ったのだ。一人残った自分の無力さに斉藤利三は打ちのめされていた。


 そんな自分に再び前を向かせたのは敗軍の将とはいえ、自軍を纏めながらこの地へと辿り着いた阿閉父子や京極高次きょうごくたかつぐ武田元明たけだもとあき達だった

「近江国で羽柴秀吉ともうひと戦じゃ」

 そう兵達を鼓舞して立ち上がったのは阿閉貞征あつじさだゆき

 周山城の城下町にて再び息を吹き返したかの軍は、軍列を整え彼等の居城近江国山本山城を目指し進んで行く。

 彼の息子である阿閉貞大あつじさだひろが自分の前に一両の鎧を置いた。

「斉藤利三殿、父上からです。率いる軍が一兵でもあるならば、将は戦わねばならぬ。下を向いている暇などないのだと。そう伝えよと言われました」

 その言葉を残し、彼は進む軍列の中へと戻って行った。


「この私が教えられるとは。確かに率いる明智兵が一兵でもある限り、私は戦い続けねばならぬ」

 送られた鎧で身なりを整え斉藤利三は周山城へと登り、城兵達に主君明智光秀の健在を伝えた。

「我が殿は大和国、河内国、紀州国の勢力を糾合して蜂起し、越前国から南下してくる柴田勝家しばたかついえ殿の軍と共に羽柴軍を挟撃する。それまでこの城は耐えよ」

 そう告げると馬を借りて一人、斉藤利三は近江国を目指して駆けた。


 近江国で羽柴軍を食い止めるならば、まず琵琶湖南の瀬田の唐橋を落として対岸に少数の兵を置き橋の修復を妨害すればよい。これで拠点となる安土城への入城阻止と琵琶湖東岸一帯の城を守ることが出来るる。

 羽柴軍が琵琶湖西回りの道を取れば、明智の坂本城、津田の大溝城、明智水軍の拠点堅田、そして阿閉父子の守る山本山城をそれぞれ落とさねばならず、かなりの時を要する。

 その間に柴田勝家が安土城に入れば我ら明智の命運は首は皮一枚で繋がるだろう。そしてその戦いを更に有利に進めるには堅田の水軍衆の協力が不可欠である。

 琵琶湖を縦横に移動し羽柴軍の背後や糧道を攻撃すれば、奴らは近江の地で身動き出来なくなる。


 途中、先行した阿閉貞征率いる小さな軍勢を抜き去り、斉藤利三は距離を置いて馬の歩を緩めた。乗馬を横に向け軍列に向けて大きく手を挙げた。

 先頭を進む阿閉貞征が手の槍を空に掲げて応えてくれた。


          *          *


 近江国、琵琶湖の北に位置する堅田の町中は、武装した兵達が慌ただしく行き交う殺伐とした賑わいを見せている。

 斉藤利三は一人その中に駒を進めた。

 走り行く兵達の声は坂本城を口にし、湖に浮かぶ兵船は鐘の音を合図に次々に港を離れていく。堅田水軍の頭領猪飼昇貞(いかいのぶさだ)には明智軍が安土城から去った後の近江一円の警備を担わせていた。

 この出陣が羽柴軍の坂本城攻撃に対するものなのは明らかで、彼等に合流して坂本城を目指すのが最良だと思えた。


 陣屋にて斉藤利三を名乗り猪飼昇貞との対面を求めると奥へと通された。

 道すがらすれ違う兵士達の視線に斉藤利三は違和感を覚えた。自分から視線を逸らす者、哀れみ見つめる目、敵意の視線を送る者と様々だ。

 明智軍が山崎の地で敗退した事で明智方の敗色は濃厚、その元凶を作り出した自分を責めているのかもしれない。

 眼前に現れた鎧姿の若武者、見覚えのある顔だった。

 猪飼昇貞の息子の猪飼秀貞いかいひでさだ。殿より明智姓を賜り、明智秀貞とその名を公儀の場で何かと強調する鼻につく若者だったと記憶している。


 猪飼秀貞の自分を見る目が笑った。

 斉藤利三はその意味をすぐに理解し、行動を起こした。

「この者を捕え…」

 彼が言い終える前に猪飼秀貞を地に組み伏せその背に馬乗りになり、彼の髪を引き上げ喉元に刃を置いた。

 周囲の兵は身動きできず、情けなく声を上げる若者の姿に狼狽の色を見せる。何事かと奥の屋敷から声がした。現れたのは猪飼昇貞。

「あなた様は、斉藤利三殿か…」

 彼は今ここで何が起きたかを悟り、取り巻きの兵を全て下げさせた。


「この軍は坂本城を攻めるのですね」

「事ここに至ってはやむを得ぬ事、我らは羽柴方に付きまする」

「明智軍は山崎の地にて敗れたが、我らにはまだ勝機がある。瀬田の唐橋を落とし水軍で琵琶湖を守り抜けば柴田勝家殿の安土城入城により形勢は我らに傾く。早まるべきでは無い」


「その柴田勝家、未だに北ノ庄城に戻ってさえおらぬ。安土入城など夢物語だ。それに明智光秀満あけちひでみつ殿の軍も大津で敗れ、何より明智光秀殿が既に落命されておられるではないか」

「馬鹿な、我が殿が討たれるなどあり得ない。我が殿が何処で落命されたというのですか」

「昨日、大津の南にて討たれ、その首は京へと運ばれたそうだ」

「大津の南…」


 その場所が丹波国や勝龍寺城であれば羽柴軍の偽情報に他ならない。大津の南、そこは淀城から坂本城へと向かう道筋になる。

 殿に淀城へと入るよう告げたのは自分である。その読みが外れ危機に陥った殿が城を脱出し坂本城を目指す道中で落命されたというのか。

 明智光秀なくば明智の命運は尽きたも同然、近江国での再戦の道は潰えた。

 そして今、自分自身も適地の中その命運は尽きている。自分はもうこの若者一人を道連れに死ぬだけしか出来ないのか。


 猪飼昇貞が言葉を続ける。

「我が身は明智光秀殿に殉じる覚悟。なれど我が愚息の命だけは何としても助けてやりたいのです」


 羽柴軍に降ったとして明智姓を持つ息子の助命となれば何大抵の事では叶わぬ。

 ならばと斉藤利三は最後の賭けに出た。

「あなたの息子に堅田水軍頭領としての肩書きを与え、この斉藤利三を手土産に羽柴軍に降らせなさい。堅田水軍頭領の肩書きに明智の重臣の手土産があれば、何とか助命されるかもしれません。その代わりとして坂本城に残る明智一族を堅田水軍の手で救いだして頂きたい」


 猪飼昇貞は斉藤利三の提案を呑んだ。

 斉藤利三が刀を捨て若者を解放し、呼び出された兵達に縛られる間、猪飼秀貞は口の中に噛んだ土を吐き出しながら悪態をつく。


「父上、この様な者の言葉に従う必要などありませぬぞ」

 その先の言葉を若者は続けられなかった。振り下ろされた親父の拳が震えていた。

「よく聞け、お前が賜った明智姓はお前が思うよりも遙かに重いのだ」

 連れ出されていく斉藤利三の姿に猪飼昇貞は地に頭を伏して見送った。それとは対照的に息子の秀貞は殴られた頬をさすりながら不満げな表情である。


「お父上はあなたに最後まで共に戦うと言って欲しかったのだと思います」

 斉藤利三の言葉に若者は、血交じりの唾を地面に吐き出した。

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