山崎の戦い④
羽柴秀吉本陣が一時期の混乱から立ち直り、場所を移動して新たな本陣を造り始めても、羽柴秀吉は未だ馬上から離れる事が出来なかった。
天王山に翻る明智軍の旗印、それがいつ襲いかかってくるかと考えると気が気では無かったのだ。
後方から羽柴軍の主力を率いて山崎の地へと向かっているはずの弟羽柴秀長ぐよりの早馬、その知らせを受けてようやく羽柴秀吉は固く握りしめたままの手綱を手放し、用意された陣幕の中へと歩を進める事が出来た。
戦況を知らせよ。
それが弟秀長よりもたらされた第一報。
ようやく尼崎に到着するだろうと思われていた羽柴秀長率いる羽柴軍主力、それがすぐそこまで来ていたのだ。
「助かった。これで明智軍を押し返せる」
子供の様に狂気しながら陣幕内を駆け回る秀吉、勢い余って陣幕から飛び出してしまうがまだその軍勢の姿は見えない。
姫路で揃えた急造の徴収兵ではない、羽柴秀吉と共に戦い続けてきた一万の軍勢が来るのである。羽柴秀吉の表情には自信と共に不敵な笑みが戻って来ていた。
鬨の声、振り返った。
堀秀政の率いる一千の軍が天王山を占拠している明智軍に向けて斬り込んだのだろう。
「加藤光泰殿、中村一氏殿、明智軍左翼津田信春を撃破、その全てを討取ったとのこと」
「真か」
初めてもたらされた味方勝利の報。しかも敵の一軍を壊滅させる大勝である。
羽柴秀吉の目が更に輝きを増した。
本陣警護の兵が羽柴秀吉の前を塞ぐ。数騎の騎馬の列が目の前を通り過ぎ、先頭の馬が急停止すると方向を変えてゆっくりとこちらに近づいてくる。
「兄者」
待ち焦がれた弟秀長の到着に羽柴秀吉は兵達を押しのけ飛び出し、そして下馬したばかりの羽柴秀長の体に抱きついた。
「小一郎、我らは負けに負けておる」
「戦は最後に勝っていた者が勝者、一万の軍の到着は天王山の敵に知られたでしょうが、すぐに動けば明智軍に一撃ぐらいは食らわせてやれるでしょう」
羽柴秀長は本陣の一画を指差し、そこに並べられた酒樽を全て寄越せと自分に告げた。陣中の酒樽は将達の為の嗜好品、弟秀長はそれを兵達に振る舞うことで強行軍で疲れ切った兵達を一時的に生き返らせるという。
そうこうしているうちに一万の兵が続々と到着してくる。
彼等は目的地へと到着した安堵感で皆その場に座り込んでいく。この者達は一体どれ程の強行軍を続けてきたのか、皆衣類は汗で汚れてボロボロである。
羽柴秀長の指示で桶や陣笠に注がれた酒が大量の水で薄められて兵達の元へと運ばれていく。それでも一人に二口か三口しか行き渡りはしないものだったが、乾ききった彼等の体にそれは明らかな程の大きな変化を持たらした。
兵達の目に気力が蘇っていくのが羽柴秀吉の目にも感じられたのだ。僅かな小休止を終え、羽柴軍の最精鋭である一万の軍がそこに整列したのである。
羽柴秀長はこの軍で天王山を攻め取りそのまま明智軍右翼を当たると兵達に告げる。だが、この兵達の気力は一時的なもの、夕暮れまでには何とか決着をつけたいと自分に言う。
「兄者、一つだけ尋ねたい。このまま明智軍を潰してもいいのだな?」
弟秀長が問い質したいのは織田信長公を擁する明智光秀と戦う事の意味、本当にこのまま戦を続けていいのかとである。
「秀長、安土の城が明智の手で焼かれた」
織田信長公はもうこの世にはいない。羽柴秀吉のその言葉に弟秀長は自分に背を向けた。
羽柴秀長の号令と共に一万の軍勢がゆっくりと天王山へ向けて進軍していく。
* *
明智軍後方、御坊塚砦の本陣。
天王山そして山崎の地一面に広がる敵味方の旗印、その動きや揺らぎを見るだけで明智光秀には戦の様相の大部分が把握できた。
斉藤利三は思い描いた通りの戦を形作っている。
開戦当初から目覚ましく働き続ける右翼軍の伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重の四千の旗印は今も健在。
このまま羽柴秀吉がこちらの術中に嵌まったまま日暮れを迎えれば理想的な初戦の幕を下ろすことが出来るだろう。
羽柴秀吉十万の軍、この言葉は誇張であっても嘘では無い。
摂津国の兵站庫を手中にした事で羽柴軍は数年の間ならば無限に近い形で兵を補充出来る。それは羽柴軍の兵力が尽きない事を意味し、対する我らの増援は明智秀満率いる三千の軍のみである。
当然、このまま戦いが長引けば戦線は我が方の側から崩壊する。
その為に初戦で一撃を加えて後に羽柴軍と対峙して時を稼ぎ、羽柴軍に匹敵する大勢力、柴田勝家の元に集った美濃国と尾張国の織田家譜代衆の軍を集めた連合軍の出現を待つのである。
開戦より五日を目処に朝廷を介しての和議交渉もその日のための時間稼ぎ。最終的な明智軍の勝利の形はすでに定まってはいるが、まずこの一戦で決定的な負けを作らぬ事、全てはそこからなのだ。
斉藤利三率いる中央主力六千の軍が渡河して羽柴軍本隊に奇襲攻撃を仕掛けると、しばらく遅れて左翼の味方に不可解な動きが見られた。
津田信春率いる二千の旗が大きく前へと動き出したのである。
彼等は明らかに円明寺川を渡河し前進し続けている。明智光秀はそれを総指揮の斉藤利三の指示によるものと判断した。
斉藤利三よりの伝令が本陣に届き、軍の総指揮を明智光秀に返上する旨を伝えてきた。
「本陣の構えを解き、すぐに円明寺川の防御線まで前進する」
天王山が明智軍の手にある以上、ここ御坊塚本陣兵力偽装は無意味である。加えてこの本陣の位置では軍の指揮にも遠く、刻々と移り変わる戦況に細かく対応する事が出来ない。
本陣の兵に偽装していた荷駄人足達には勝龍寺城への帰還を、周囲に展開させていた馬廻り五百騎には集合を明智光秀は命じた。
しかし伝令の兵は左翼津田軍の動きは斉藤利三の指示によるものでは無いと言う。津田信春の独断、傍目には派手に勝っている様に見えて実際には奇襲を連鎖させて敵を混乱させているだけにすぎない。
突出し孤立した軍は数に勝る羽柴軍によって押しつぶされる。
「藤田伝五、津田軍の様子を検分して参れ。その方面の指揮はお主に一任する」
明智光秀は傍らに控える藤田行政に集結済みの二百騎を与えて送り出した。
これと入れ替わるように斉藤利三よりの伝令が本陣に届く。
山崎村奪取は失敗、日暮れまで包囲した敵兵力を掃討、夜陰に乗じて円明寺川の開始線まで全軍後退するよう進言する旨が伝えられた。
明智光秀はその進言に、ただ「良し」と頷いた。
残り三百騎の集合が完了し、前進を命じた明智光秀の元に再び伝令の兵が近づいてくる。
天王山を占拠している松田政近よりの伝令兵の言葉を中継して伊勢貞興が本陣へと発した伝令の兵であった。
その手には急ぎ描かれた敵の布陣図があり、そしてその口からは羽柴軍一万の後詰めの兵力の到着が告げられた。
「斉藤利三は一万の新手の存在を知っておるのか?」
「斉藤利三殿の所在は掴めず、やむを得ずここに参った次第です」
明智光秀は手渡された布陣図を広げ、敵味方の位置関係と兵力を見比べた。味方右翼、中央は何とか拮抗しているが、左翼については圧倒的な兵力差がある。
津田信春は実に四倍近い敵が待ち構える中へただ一軍で飛び込んでいった事になる。彼等を救う余裕は今の明智軍には無い。
新たに出現した羽柴軍一万の兵力は、身動き出来ぬ山崎村方面よりもまず天王山の奪取に力を注ぐはず。天王山の明智軍二千を殿と見立て、彼等が崩壊する前に全軍を急ぎ撤退させねばならない。斉藤利三の進言にあった日が落ちてからでは遅すぎる。
「急ぎ前線に赴き全軍退却の命を」
眼前で揺れる敵味方の旗印を見据え、明智光秀は騎馬を駆けさせながら手綱を握る手に力を込めた。
* *
すでに円明寺川河口付近の羽柴軍は渡河を開始していた。
藤田行政率いる二百騎の騎馬隊は馬の勢いそのままにぶつかり、渡河してきた百程の先頭集団を一気に水の中へと追い落とした。
僅か二百とはいえ明智光秀直属の馬廻りの精鋭、その力を集めれば千の兵力にも匹敵する。とにかく目の前を進み来る敵を叩きに叩いた。
この場を守るはずの津田信春率いる二千の軍の姿は何処にも無く、羽柴軍がひしめく対岸に僅かに折れた津田家の旗印だけが残されている。
「後方の近江衆はまだか」
津田軍の後詰めとして配したはずの山崎片家、多賀常則、小川祐忠率いる近江衆二千の軍は、案山子のように動かず津田軍壊滅の傍観者となっていた。
我らと共に防衛戦に加われという伝令は既に送っている。
対岸から撃ちかけられる中村一氏軍の鉄砲から身を隠すため、二百の兵は騎馬を捨て川沿いに築かれた築山に身を寄せた。
藤田行政だけが指揮の為に騎乗している。
その彼の目に、天王山の味方の旗印が次々に倒れていくのが見えた。天王山陥落ならば斉藤利三も我が殿も必ず全軍撤退を命じる。ともかくそれまでの間、我らは眼前の敵を食い止めればいい。
まだか?
ようやく後方の近江衆二千が動き出した。
加速し気勢を上げ勢いよく向かい来る姿は今まで呆然と立ち尽くしていた軍とは思えぬ程、これならばやれる。
羽柴軍を食い止められると藤田行政はそう確信した。
近江衆が止まらない。
制止する明智兵を押しつぶし、突き出された長槍の列は藤田行政率いる二百の兵の背を貫いた。藤田行政自身も槍衾の前に乗馬が竿立ちになって倒れ、地面に投げ出された。
地を転がり槍を斬り落としながら立ち上がった。
藤田行政の怒声に混じり裏切りを告げる悲痛な叫び声が上がる。先程の一撃で半数近くが討たれた。生き残りも圧倒的な人数差に押し包まれて息絶えていく。
殆ど一方的な殺戮の中を藤田行政達は必死に斬り抜けた。
自分に続き三人の明智兵が乱戦を抜け二百の兵に守られ騎乗する山崎片家、多賀常則、小川祐忠の前に立つ。
「今になって日和るか、恥知らず共めが」
「安土城は燃えた。織田信長公など最初からそこには居らなかったのよ。儂等はお前達に騙されていたのだ。明智光秀こそが本当の謀反人」
「今更何を言うのか」
藤田行政はそれ以上の言葉を持たなかった。握りしめた槍、前に踏み出す歩に力を込めた。
「その者は明智の重臣、手柄首ぞ。見事討取ってみせよ」
襲い来る近江衆の兵達、六人、七人、八人と討取った人数だけが頭に刻まれていく。十人から先はもう数えないことにした。
藤田行政は槍を大きく振ってはそこに出来た間隙に身を進める。
敵の数は増し目指す三人の将の首は未だ遠い。すでに深手をいくつか受けている。痛みが全身を襲うがそれが生きている証し、自分がまだ戦えると告げている。
あの裏切り者三人の首を獲る。
その目的の為に腕が足が的確に作業をこなしている。
藤田行政はただ寡黙に、ただひたすら敵中で槍を振るい続けた。
次々に蹴散らされる近江衆の兵達、五十人近くが藤田行政唯一人の手で討たれる姿を見て、山崎片家、多賀常則、小川祐忠の三人が青ざめ馬首を返して逃げていく。
大将達が逃げていくのを見て周囲の兵も逃げ始めた。近江衆の兵達が潰走する中、藤田行政は生き残った味方の兵の肩に担がれ敵の目から逃れるように何処かへと姿を消していった。




