回顧
寝所の明かりを消し横になり、織田信長は天井を見つめていた。
最大の敵であった石山本願寺との実に十年にも渡る戦いを征したのがわずか二年前、日ノ本の中心から敵勢力が消えた事でようやく本格的な外征軍を動かす事が出来る様になった。
北陸の上杉家は柴田勝家、関東の北条家には滝川一益、四国を神戸信孝、中国の毛利家を羽柴秀吉が征する。
すでに毛利家との和睦は心に無い。
恭順を示す九州勢の心変わりが起こらぬよう秀吉と光秀を先鋒として毛利家は一気に平らげる。後に京に集結する織田家直轄軍を加えて帰順した九州勢と共に島津家を攻め立てれば西国の戦いは集結するだろう。
残るは東国のみ。
羽柴秀吉の毛利攻めへの動員兵力が少ないと感じた。
宇喜多勢を加えたとて毛利家が最大動員をかければ今の兵力では戦力は拮抗する。長期戦を挑み毛利家を消耗させる腹づもりかもしれぬが、それは我が意に反している。
明智光秀を差し向けるのは羽柴秀吉の戦を改めさせる意味合いもあるのだ。
神戸信孝が四国を早期に征すれば、その軍を九州の豊後国や日向国に送り込み、北と東からの二面作戦もとれるが、彼の才覚は各軍団長のそれに比べるとかなり劣り、期待としては薄い。
羽柴秀吉からの九州内偵の報告や博多の商人達の話からも、九州の支配確立には長期に渡り駐留軍を維持する必要がある。
銭は潤沢、だが兵を維持する兵糧生産が織田家の侵攻速度に追いついていない。
織田家領内でのこれ以上の挑発は一揆を誘発しかねない所にまできている。
目下、この打開策となるのが紀州雑賀の南にある戦火に晒されていない肥沃な土地、神戸信孝より進言のあった雑賀侵攻はこれを手に入れる為の布石となる。
丹波国に施した明智光秀の政策は見事であった。
国の税収を増やすに領民の税を単純に引き上げるのは思慮の浅い凡人の考えである。世にはまだ戦乱に晒され行く当ての無い民や土地を無くした者も数多い。
明智光秀は新たに手にした丹波国全土に一年間の免税を布告し、搾取するのでは無く河川改修や農地開拓の援助を加えながら荒れた土地に再び民が集まり定着するのをじっと待ったのである。
一時的には多くの出費を強いられたが、その後検地を施し得られた税収は、以前の丹波国のものを遙かに上回った。
羽柴秀吉の因幡国攻めでの策は独特であった。
敵地にて事前に米を高額で買い占めた後の兵糧攻めである。
敵方は米が高く売れると知り、軍費の足しにと城の兵糧を放出して資金を得るには成功したが、その後兵糧の欠乏に苦しむのである。
米の買い占めと同時に羽柴秀吉からなされた提案は、西国平定の為の兵糧備蓄もこれと同時に進めるべしというものであった。
羽柴秀吉によって集められた米は姫路城へと運ばれ、織田家の援助によって買い占めた米は摂津国の池田恒興に命じて保管させた。
この準備には一年をかけ、摂津国に築かれた巨大な兵站庫にて多くの軍需物資を集積した。それでも足りぬ分は織田領内の各地の城の兵糧備蓄を供出させた。
後方地の城の兵糧備蓄など今年の秋から再びやり直せばいい。
こうして摂津国の兵站庫には数十万の軍勢が数年を戦える兵糧備蓄が整った。
これこそが西国平定の生命線。
その守備には家中でも特に信頼のおける池田恒興を配し、荒木村重の謀反の様な事態は決して起こりはしない。
評定にて更なる兵力増強の必要性を述べて家臣達に進言を求めると、明智光秀より織田領内全域での石高の不正申告の摘発を実施すべきとの献策が上がり、それを採用することとした。
織田領内は全て申告制の差し出し検地である。
戦場となっていない地域に限定しこれまでの申告の再調査を命じ、専属の役人を各地に派遣した。
石山本願寺戦で戦死した塙直政の旧領大和国は重臣佐久間信盛に託したが実質の空白地。
その為、明智光秀と滝川一益を直に派遣し再検地を行わせた。
苦い決断もあった。
領内の新規の開拓には石高の更新申告を義務づけていたにも関わらず、再検地により多くの隠し田が発覚したのである。
この事実を知った時、言いようのない怒りに震えた。
天下布武に向け一丸となって邁進しなければならぬ中、この織田信長を欺き私腹を肥やす者がいたという事。
再検地を拒否した安藤守就は過去に武田家に内通したとして追放し、織田家の重臣として長く仕えた佐久間信盛は、他の家臣の何倍もの申告漏れの隠し田が発覚し追放処分とした。
「佐久間信盛の支配領は織田家中でも最大の七ヶ国にも及び、石山本願寺との戦に明け暮れ、最大の不正摘発地であった大和国にも手が回らなかったのでしょう」
そう申し彼を庇った林秀貞や丹羽氏勝も同様に罰した。
石山本願寺との戦の終結は佐久間信盛の功ではなく、朝廷の仲裁による講和によってである。
更に無傷で引き渡されるはずのその地は、最後まで抵抗した本願寺教如の手勢により寺も街も全てが焼失してしまい、日ノ本でも有数の経済的に富貴な商都をまるまる一つ失ったのである。
戦もせず石山本願寺を囲み続けた事は許しても良い。
しかし長い年月をかけて得たのが何も生み出さぬ廃墟と厭戦気分で弱体化した数万の織田兵のみとは、まさに無能の極み。
これに加えての他に類を見ない程の石高不正の発覚。
もはや許しがたく佐久間信盛を庇った者も皆同罪としたのである。
佐久間信盛に至っては敵地である高野山へと流す様に命じた。
佐久間信盛は蓄えた膨大な財を高野山に寄進してその命を保障されたとも聞く。その事実こそが彼が私服を肥やしてきた証ではないか。
佐久間信盛の死後、その息子は信忠が引き取り手元に置いたとも聞く。
林秀貞には厳しすぎる処分であったかもしれない。
彼も京で死んだと伝え聞く。
もはや彼に償う術は無いが、西国平定の後は新たな所領を与えて林家には名誉挽回の機会を与えるべきとは考えている。
しかしそれは、儂では無く信忠の手によってなされるべき事だろう。
気持ちを今に戻した。
天下布武の夢、手に届かぬ夢を現実の物とすべくこれまで歩んできた。
あと一押し、織田による日ノ本統一は必ず成されるであろう。
しかしその為に膨れ上がった家臣団とその兵力を、用無しとして急速に縮小しては家臣達の不満を招くだけで無く、諸国に眠る戦い敗れた不平分子達の決起をも招く恐れがある。
力による粛正は恨みの連鎖を産み続けるだけという事は、この身に痛いほど染みついている。だからこその外征、海の外を目指す必要があるのだ。
戦い敗れた者達には新天地を与え、彼等の持つ力を新たな国作りへと向け原動力としていく。
この日ノ本は信忠に任せ、儂はその先をこの命果てるまで目指し続ける。新天地、未だ見ぬ国々を。
織田信長は目を閉じた。そしてそのまま深い眠りに落ちていった。
* *
下京の東側、京都総構えの外側の鴨川の河川敷に沿って焚き火の明かりが点々とどこまでも続いている。
粗末な筵の小屋が立ち並ぶその地はいつしか河原者と呼ばれる無頼の徒や漂泊者達の溜まり場となっていた。
京の都の華やかさとは比べものにはならないが、そのみすぼらしい風景の中には、都人が失いつつある活気を変わらずに持ち続け、陽気な囃子の音や宴の笑い声が一晩中途絶える事は無い。
そんな河原者達の中を人目を避けるように移動していく人々。
息を殺し目をぎらつかせて進む彼等の歩調は次第に早くなり、無数の影となって京都総構えの東側に集結し始めた。
京都総構えの防御壁に隣接する屋敷の一つ。
その門が静かに開かれると、そこから武装した人々が湧き出る様に現れた。
その流れは屋敷の庭に開いた二つの穴を起点としており、総構えの外から掘られた穴を通じて次々に現れて来る者達も、その手に武器を手渡されると屋敷の外へと駆けだして行く。
軍勢である。
その数は数百、否、あっというまに千を超える数にまで膨れ上がった。
彼等の首に巻かれた白い布だけが暗闇の中で際立って見える。足音を殺し息を潜め、闇の中で彼等から伝わるのは研ぎ澄まされた殺気。
兵が割れて現れたのは二人の男。老いた武者と僧形の男である。
彼等は互いに目を合せて静かに頷いた。
引かれて来た馬に身を預けると、老いた武者は刀を抜き放ち、兵達の進むべき方向を指し示す。
南部但馬、それが老将の名であった。
京に隠棲しそう名を改めたが、織田家中では林秀貞と呼ばれし人物である。
そして彼等が目指す先は京都本能寺、狙うは織田信長の首級ただ一つ。
二百ばかりの兵と僧形の男は、南部但馬の率いる軍の出立を見送ると、北の方角へと走り始める。彼等が目指すのは二条御所。
「いよいよ始まるのだ」
狂わんばかりの炎に満ちた目をした僧形の男の心は、喜びに打ち震える高揚感に満ちていた。
駆けながら男は心の中でこう呟いた。
(我らの終わりが始まる。そして織田の終わりが訪れる)




