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水色桔梗の雫 ~異伝本能寺の変~  作者: つむぎ舞
六月十三日
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山崎の戦い②

 明智軍右翼四千のうちの二千の軍が急反転し、天王山から駆け下る我ら黒田軍の行く手を遮るように布陣を整え始める。

 その素早い対応に「やはり」という思いはあるものの、今更天王山へと引き返す事は出来ない。黒田孝高くろだよしたかは前進を命じつつも勢いに任せて明智軍とぶつかる事は避け、敵との距離を測りながら崩れている軍列を立て直すことに注力した。

 しばらくすると明智軍右翼四千は円明寺川に架かる橋の手前で集結し、我らの二千と相対する構えとなる。味方の中川清秀なかがわきよひで高山重友たかやましげともの二軍は未だ体勢を立て直しておらず、このままでは一千丁の鉄砲を有する倍する敵と正面からぶつかる事になる。


 敵を前に興奮冷めやらぬ母里友信もりとものぶが自分に前進を進言してくる。

「ならぬ、三軍合せれば数で敵に拮抗する。まずはそれからだ」

 黒田家の剛勇の士らしき頼もしき進言ではあるが、黒田孝高は中川、高山の軍に合流すべく移動を命じたのである。

 何より強行軍を続けてきた羽柴軍には敵の鉄砲への備えが全く無く、一千丁の鉄砲に何とか耐えうるのは摂津衆の中川、高山、池田軍ぐらいである。

 黒田軍は合流を目指すと同時に混乱中の中川と高山の軍に敵の鉄砲隊を引きつけよとの伝令を送る。

「殿、中川清秀に我らの代わりに的になれと申すのですか?」

「鉄砲さえ引きつけてくれればあとの戦は我らが引き受ける」

 先の遺恨がある我らに中川清秀が従うのか? 栗山利安くりやまとしやすはそう言っている。だが勝つ為にそれは必要な事、中川清秀も命が惜しければ我が言に従うしかない。


 ようやく体勢を立て直した中川清秀と高山重友の軍が進み始める。その背後には山崎村を抜けて出てくる羽柴軍の本隊の姿も見て取れる。

 意を決した中川軍が黒田軍を追い抜き竹束を並べて前進を始めた。

 襲いかかる明智軍の鉄砲隊。

 三百丁の鉄砲による三連射、そして再装填までの時を残り百丁が構えたままで援護する。その一斉射で中川軍の動きが完全に押えられ、それ以上進めなくなった。

「鉄砲は中川軍に向いた。今だ、出るぞ」

 黒田孝高の押せの声に喜々として突撃をかける母里友信とそれを追う後藤基次ごとうもとつぐが続く。彼等に率いられた一千と明智軍一千が目の前で激しくぶつかった。


 そんな時、明智軍の陣より多数の法螺貝の音が響き始めたのだ。

 次の明智軍の策は何だ? 黒田孝高は対岸と周囲に変化は無いかと目を凝らす。

 配下の者達も周囲に何も変化は無しと申してくる。

 法螺貝の音はしばらくして途切れ、そして再び同じ音色で奏でられる。それが何度も繰り返されるのだ。

 何も起っていないならば、それは我らを攪乱するための手段、「何と姑息な」とそれに乗せられた黒田孝高は舌打ちした。

 しかしそれは単なる攪乱の為のものではなかった。


 家臣の一人が指差したのは天王山の山上、そこに鬨の声と共に明智軍の旗印が突如として翻ったのだ。

「あの腐れ儒者めが、敵の伏兵はおらぬと申したではないか」

 敵の伏兵は何日も前からそう遠くない場所に潜伏していた。その気になれば発見する事は出来たはず。だが神子田正治みこだまさはるは正面の敵が全てと思い込み、それを探るだけに力を注いだという事だ。

 今となってはそれを嘆いても仕方ない。

 ここは最前線、すでに自分はこの戦全体に関わる位置にいない。

「我ら黒田は正面の敵だけを見よ」

 黒田孝高は動揺する将兵をその一言で掌握した。

 自分に残されたのは個々の武で眼前の敵を撃ち破る事となった。目の前の右明智軍右翼を破れば羽柴軍の勝利にも繋がる。


 黒田軍も明智軍にも長槍持ちはいない。皆、腕に覚えのある者達という事だ。

 母里友信が明智軍の戦列に穴を空け、そこに黒田の兵が雪崩れ込む。だが、もう一方の後藤基次の方に怪しげな一団が現れると、後藤基次が鎧武者の体当たりで吹き飛び、周囲の黒田兵が次々とその鎧武者の槍に突き伏せられていく。

「あれは何者か?」

 黒田孝高の問いに誰も答えない。否、答えられないのである。

 それもそのはず、その鎧武者は背に旗印ではなく笹を背負っているのである。

 母里友信が笹の武者の存在を見つけ一直線に進んで行く。笹の武者も母里の姿を認識した。半月の巨大な立物を付けた母里の黒兜、その首は無視できないという事なのだろう。

 黒田孝高の周囲の者達も二人の動きに注視する。

「これは見物ぞ」

 黒田家家臣の井上之房いのうえゆきふさが声を上げた。

 母里友信と背笹の武者、その二人の槍が周囲を巻き込み慌てて兵達がその場を離れる。戦う二人が移動するに合せて戦場に出来た小さな空間が動いていく。

 二人は互角に渡り合っている様に見えるが何か様子がおかしい。母里友信は何度か背笹の武者から目を離してはあらぬ方向へと槍を振るうのだ。

 母里が一度大きく回転した。その手には黒塗りの矢、背笹の武者の率いた一団の中に弓を潜ませている。黒田の将達もその事に気付いた。

 後藤基次がその一団に一人飛び込んでいくのが見えた。それで母里友信の動きが明らかに変わった。

 背笹の武者が白い歯を見せて笑うと明智兵と共に後退していく。


 不自然な後退、こちらも母里友信が戻ると黒田孝高は自陣を大きく後退させた。

 明智軍の隊列が割れ三百の鉄砲隊が姿を現しこちらに銃撃を加えて来た。遅れた黒田兵が何人か倒されたが、退いた事で被害は少ない。

 明智軍は中川清秀が防戦一方になったのを見て取ると、鉄砲隊の一部をこちらに向けてきたのだ。

 発砲を終えた鉄砲隊が明智軍の軍列の後ろに消えていく。

 

 個の武も軍の武も我ら黒田軍と見事なまでに対している。

「敵もなかなかにやりますな」

 さすがは明智軍と母里友信が素直な感想を自分に述べる。織田家中最強とも呼ばれる明智軍の姿を見つめ、黒田孝高もその言に頷いて見せた。


          *          *


 天王山に並河易家なみかわやすいえ松田政近ますだまさちかの率いる二千の軍の旗印が翻った。羽柴軍に明らかな動揺が見られる。

 伏兵による天王山の奪取、斉藤利三さいとうとしみつの二つ目の策が成った。

 更に左翼の津田信春つだのぶはるより円明寺川河口での渡河を試みた池田恒興いけだつねおき軍二千に痛撃を与え撃退したとの伝令が届いた。


 頃合いだろう。

 用意した最後、三つ目の策で羽柴軍を一気に押し返す。

 斉藤利三は物見櫓を下り、騎馬に跨がった。その後方に控えるのは明智軍主力の六千の軍。

 斉藤利三が静かに手の合図を送ると、前方の柵が取り払われる。明智軍六千の前方の防御柵は見せかけだけのもので、地面に打ち付けられてはいないのだ。

 そして眼前を流れる円明寺川の川底には、羽柴軍到着までの丸二日を掛けて御坊塚砦の築城で発生した石を投げ込みすでに渡河できる程の浅瀬を作ってある。

 河川敷が川砂で覆われている円明寺川に浅瀬を作り出すための石を確保するために、御坊塚の砦は造られたと言っても過言ではない。


 斉藤利三の三つ目の策、それは明智軍本隊による移動中の羽柴軍本隊への奇襲攻撃である。これに連動して明智軍右翼、天王山の軍が羽柴軍に大攻勢を仕掛け撤退に至らしめるのである。


「我が策はここまで、これよりは一人の武将として戦場を駆ける。我が殿に以降全軍の指揮をお返しすると伝えよ」

 伝令の兵を本陣へと送り出すと、斉藤利三は眼前で明智軍に横腹を見せながら進む羽柴軍本隊の姿を見据えた。

「乾坤一擲、この一撃で勝利を掴む。全軍突撃」

 斉藤利三は槍を振り上げ乗馬に鞭を入れると先頭に立って円明寺川を突き進んだ。雄叫びを上げながら六千の明智軍がそれに続く。

(これは羽柴軍との苦しい戦の初戦の勝利に過ぎない。それでも大きな勝利だ)

 凄まじい速さで川を突っ切り羽柴軍の軍列に襲いかかる明智軍。

 その先頭で斉藤利三は猛然と槍を振るい続けた。


          *          *  


 平地を駆けるが如き速度で明智軍六千が円明寺川を越えて、堀秀政ほりひでまさ率いる羽柴軍本隊一万五千が山崎村から出て西へと折れ曲がった形になっている前三分の一の軍列を真横から急襲した。

 水の満ちた川を渡り来たとは思えぬ速さ、黒田孝高は次々に繰り出される明智軍の策に呻きを漏らした。


「殿、中川清秀が逃げますぞ」

 その声に黒田孝高は舌打ちした。

 後退を決断するなら確かに今だ。中川清秀の判断は間違ってはいない。だが我らが退けば明智軍右翼四千と明智軍主力六千とが合流し、凄まじい力で羽柴軍本隊一万五千を蹂躙していくだろう。

 そしてそうなれば我が方はこの戦に大敗を喫する。

 天王山を奪われたとはいえ、堀秀政の本隊は一万五千、その後方には羽柴秀吉の五千も控えている。総兵力ではまだ我が方が明智軍を圧倒しているのだ。

 この明智軍の大攻勢を一つの力に集約させてはならない。だからここは退かず我が方が持ち直すまで耐えねばならぬ。


 中川清秀が抜けた穴を高山重友が塞ぐも、中央の攻勢に連動した明智軍右翼の猛攻を受ける形になった黒田軍は、今までに無い圧力を正面から受けた。

 乱戦となり黒田の将達が各々の兵を率いてその中に消えていく。黒田孝高の前にはもう味方の兵の壁は無い。

 乱戦の一画で黒田兵が次々に倒されていく。

 背笹の武者、あの漢の目がこちらを向いた。喜々として白い歯を見せ突き進んでくる。黒田孝高の警護の兵が倒され遂にはその姿を眼前に晒す。

「見事な槍捌き。背笹の武者、名は何と申す」

可児才蔵吉長かにさいぞうよしなが」 


 突如雄叫びを上げ一人の兵が可児吉長に躍りかかった。

 槍を合せているのは後藤基次か、しかし何合かの打ち合いの末に槍を飛ばされ地面に伏したのは後藤基次の方だった。

 可児吉長は彼に止めは入れず、槍を引きその名を尋ねた。

後藤又兵衛基次ごとうまたべえもとつぐだ」

「腕の立つ雑兵、その首後々の手柄と致す」

 井上之房いのうえゆきふさ率いる一隊が駆けつけた事で形成不利と見た可児吉長は、その言葉だけを残して退いた。

 何という豪胆な漢であろうか、後藤基次の首は彼が将来出世した後に貰い受けると申したのだ。 


 それにこの乱戦の最中にも関わらず明智軍の馬上の二将の指揮も見事である。

 中川清秀が逃げたことでこの戦場だけは劣勢、このままでは我ら明智軍右翼に敗れてしまう。

 後方の戦況はどうか?

 振り返った黒田孝高が目にしたのは崩壊して右往左往する羽柴軍本隊の姿である。

「我が軍に兵が足りぬ。あそこで遊んでおる兵共を急ぎかき集めて来い」

 黒田孝高の声に黒田の諸将の何人かが後方に向けて走り出した。


「高山重友より注進、我らも撤退すべきではないかとの事です」

「馬鹿者が、すでに我らに退路は無い。迂闊に動けば黒田も高山も全滅し、あの強力な明智軍右翼が敵の中央の軍と合流してしまう。我ら二軍で何とかこの場に留まり、巨岩となって押し寄せる大波を防ぐのだ」


 黒田孝高は高山重友の進言を一蹴し、守りを固めて時を待てとだけ告げた。 

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